真実の詩




   6





「――やっと、見つけたぜ」
 ようやく刺客たちを片付けて悟浄が森の奥へと足をのばすと、群生する木々の中でも一際大きな木の下に、女はいた。
 木に凭れ、その腕に大事そうに二胡を抱えている姿に、間違いなく昨晩の二胡奏者であると認めた悟浄は、咥え煙草のままゆっくりと女へ近づく。
 女は悟浄に気づいた刹那、ゆるりと唇の端をつり上げて笑った。そして、じっと悟浄を凝視する。
「もしかして、『彼』を探しにきたの?」
「……やっぱり、ナンか知ってんだろアンタ」
 悟浄はす、と眦を眇めると、さらに女へと足を向けた。女は嫣然と微笑みながら、徐々に近づいてくる悟浄をまっすぐに見据えている。
「無駄よ。もう『ここ』にはいないわ」
 悟浄は意味ありげに紅瞳を細めると、瞬時に召喚した錫杖の先刃をザン、と女の横面すれすれのところにある幹に衝き立てた。
 それにまったく怯むことなく、女は笑みを湛えたまま微動だにしない。そして、悟浄と女が真正面で向かい合う形になる。
「八戒はどこだ」
 悟浄の低く、怒気を孕んだ声音に対しても、女は怯える様子はない。
「――この二胡の音色、凄かったでしょう? どうして、あんな凄まじい音が出せるか判る?」
 それどころか、さらに嫌な類の笑みを深めて脈絡のないことを言い出す女を、悟浄は苛立たしげに睨みつけた。
「あのさぁ、俺こー見えてもあんま我慢強いほうじゃねぇのよ。だから、さっさと質問に答えてくんない?」
「本当に短気な男ね。……あれはね、魂の共鳴する音、なのよ。『ここ』に取り込まれた無数の魂たちの叫び」
 『ここ』と、いとおしげにそろりと腕の中の二胡を撫でた女の手を、悟浄はじっと見た。
「――ナンだよ、それ……!?」
 女の言うことから察するに。
 もしかしたら、――八戒はこの二胡自体に取り込まれてしまったと、そういうことなのか!?
「……元に、戻せ」
 悟浄は女の左肩をきつく掴み上げた。ギリ、と骨が軋むほどの強さで掴んでも、女の面から笑みが消えることはなく、むしろくすくすといやらしい嗤いを零し始める。
「二胡に魅入られる者は、死に近しい者――もう事切れている頃合かしら、ね」
「……アイツは絶対死んでねぇよ。だから、戻せ」
「――」
 初めて女の顔から笑みが消えた。女は目を細めて、悟浄を上目遣いにじろりと睨む。
「無駄、と言ったはずよ」
「俺、オンナだからって容赦しねぇよ? 『二胡の中(ここ)』に八戒がいるんなら、出せ」
 悟浄がさらに肩を掴む手の力を強めると、さすがにその表情が苦痛で歪んだ。しかし、それでも女は動こうとはしない。
 どうしたもんかと、険しい表情のまま悟浄が思った、その時。





「――そいつから二胡を取り上げろ!」
 不意に背後から掛けられた鋭い声に、悟浄は咄嗟に膝頭で下から突くように二胡を蹴り上げた。
 その衝撃で女の腕の中から離れた一瞬を逃さず、悟浄はその腕から二胡を奪い取る。
「――!」
 女が必死の形相で、二胡を奪い返そうとものすごい勢いで悟浄へ手をのばしてくる。それをどうにか避けて、悟浄はその二胡を背後にいるはずの最高僧――三蔵へと、放った。
 そして、真言(タントラ)の詠唱が終わるのと、投げ出された二胡が魔天経文に包み込まれるのがまさに同時、だった。
「――魔戒天浄!」
 その声とともに、一瞬にして辺り一帯が眩い光に包まれる。その中心にある二胡から発せられ、まるで呻き声のような絶叫が森一帯に響き渡る。途端、女が驚愕に目を見開いたまま、その場に崩れ落ちるように倒れ込んだ。
 それと同時に、光の渦の中から姿を現したのは――。
「八戒っ!」
 まずその姿を見つけた悟浄が、あわてて経文が舞う中へと駆け込む。
 ふわりと、まるで舞い降りるようにその光の中から現われた八戒を、悟浄はしっかりとその腕で受け止めた。意識がないのか、八戒は目を閉じたまま、ぐったりと悟浄の懐へ倒れてくる。
 そして、その足元にコトリと落ちてきた、半ば壊れかけの二胡。それを一瞥して、悟浄はふと件の女へと目を向けた。
 見れば、女はまるで何かに襲われているような素振りで、必死で何かから逃げ惑っているようだった。その奇異な光景に悟浄が目を瞠ると、経文を元に戻しながら三蔵がぼそりと呟く。
「術返しだな、アレは」
「術返しって、なんだよ三蔵?」
 三蔵から指示でもされたのか、もう使い物にならないであろう二胡を拾い上げながら、悟空が尋ねた。
 三蔵は仏頂面のまま、袂から煙草を取り出し口にする。
「あれは、人を喰らう魔器だ。つまりは、今まで二胡(こいつ)に取り込まれちまった多くの連中が、解放された反動で一斉に二胡の本体だった女を襲ってるだけさ。なんなら、見えるようにしてやろーか」
「いや、いらねぇ……」
 見ていて決して気持ちのいいものではないだろう、それは。悟空がひどくげんなりとした口調で応える。
 要は、二胡に囚われていた数多の魂が、魔戒天浄によって解放されたことにより、それまでのツケをその身で払わされているとそういうことなのだろう。
 その様をちらりと見て、自業自得、と悟浄は思った。そして、こうして八戒が戻ってこれたのだから、後はどうでもいいとすら思う。
「……ご、じょ……?」
 悟浄の腕の中で、八戒がゆっくりと身動ぎをしながらそっと目蓋を開けた。
 ようやく現われた翡翠色の瞳を見て、悟浄は胸中で深く安堵の息を漏らした。だが、それは八戒には悟られないように、わざと口の端を上げて笑みを形づくる。
「よ、ダイジョーブ、か?」
「はい、……あ。彼女、は!?」
 悟浄の問い掛けに対し、八戒はまだ少し焦点があっていない貌のまま小さく微笑んだのもつかの間、すぐに弾かれたように顔を上げると、ある一点で目線が止まる。
「……アレのこと?」
 その視線の先にあったのは、必死の形相でただ一人もがき続けている女の姿。
 八戒は痛ましげな視線を向けたまま、そっと目を細めた。そして、悟浄に支えられながら一人で立つと、ゆっくりとその女の元へと歩いていく。
「おい、どーする気だ」
 三蔵の呼びかけにも答えず、まるで能面の如く何の感情も読み取れない表情を浮かべ、八戒は無言のまま女の前に立った。
 そして。
「――はッ!」
 八戒は瞬時に自らの掌に気を溜めると、そのまま女に叩き付けた。すると、至近距離から繰り出された気孔をまともにくらった女は、あっという間に体ごとすべて霧散する。
 八戒はその場に立ち尽くして、静かにその様を見つめていた。
 意外な八戒の行動に、三人は黙ってただその成り行きを見届けていた。無言で立ち尽くす八戒の背中を、悟浄はじっと見据える。
 こんなふうに、有無を言わさずとどめを指すなど、八戒らしくないと言えばこの上なく彼らしくなくて。
 二胡の内部に囚われていた間、いったい何があったのか。
 それが判れば、あの女を前にした時に浮かべた、感情を押し殺したような表情の意味も、この行動の意味も判るのだろうか。
 ふと、八戒の肩がわずかに揺れた。それから、くるりと振り返る。その顔は既にいつもの八戒の表情に戻っていた。
「ご心配をおかけしました。そして、ありがとうございます」
 穏やかな笑みを口許にはいて、八戒は三人に向かいゆっくりと頭を下げた。そして、顔を上げた途端、にっこりと微笑む。
「さあ、これからどうします? というか、今何時ですか?」
「八戒」
 どこか、わざとらしくいつも通りふるまおうとする八戒を遮るように、三蔵が不機嫌そうな声もあらわに呼び止める。
 今度はそれを無視することなく、八戒はますます笑みを深めて、三蔵を見つめ返した。
「なんですか」
「わざわざとどめを指すなんざ、お前らしくもねぇ」
「――あれは、そういうのじゃあ、ありませんよ」
 八戒は不意にくつりと口許を歪め、じっと悟浄を見た。
 三蔵の問い掛けに答えながら、何故八戒は悟浄のほうを見据えてくるのか。その真意を計りかねて、悟浄はぴくりと片眉根をはね上げる。それに気づいたのか、八戒はさらに笑みを深くした。
「傷の舐め合いです。……ただの」
「――馬鹿馬鹿しい」
 八戒の返答に、三蔵は苛立たしげに舌打ちをすると、今度は壊れた二胡を抱えたままだった悟空を睨みつけた。
「おい、それを投げろ」
「え、ナニ、三蔵?」
 悟空は言われたまま手にしていた二胡を宙に投げた――途端。
 ガウンッ、と派手な音を立てて、二胡が撃ち抜かれた。もちろん、銃を片手に二胡を破壊したのは三蔵そのひとである。
 三蔵は取り出したのと同じ速さで銃を懐にさっさと仕舞い込むと、無言で踵を返した。そして、そのまま来た道を歩き始める。その後ろを悟空があわててついて行った。
 事の成り行きを黙って見ていた悟浄だったが、三蔵の後姿を見てやれやれと大きく肩で息を吐いてから、隣に立つ八戒を見やった。すると、八戒もあわく微笑みながら、悟浄を見つめ返してくる。
「とりあえず、俺たちも帰ろうぜ」
「……そうですね」
 敢えて何も口にしないで、悟浄も歩き始めた。しかし、八戒は動かない。悟浄はそろりと顔だけを彼に向けた。
「どーした、」
「――会いたかったんですよ、貴方に」
 八戒は今にも泣き出しそうな、それでいて消え入りそうな笑みを浮かべて、悟浄を見た。
 八戒のその言葉に、悟浄はゆっくりと立ち止まった。その姿勢のまま、ただ茫然と彼を見つめ返すことしか出来ない。
「八戒」
「そのためなら、絶対に生きて――戻ると。そればかり、思っていました」
「――」
 悟浄は思わず八戒の腕を取ると、そのまま己の懐に深く抱き込んだ。そして、彼の耳元にそっと囁く。
 今、一番、言うべき言葉を。彼だけに届くように。
「……おかえり」

「ただいま、です…」

 悟浄の肩口に額を当てて、八戒も密やかに呟いた。
 その声は、どこか震えているように悟浄には感じられた。








>NEXT

inserted by FC2 system