真実の詩




   3





 ぽたりと、頬に冷たい何かが当たった。
(――なんだ?)
 そんな心当たりなどまったくなくて、八戒は横になって目を閉じたままその状況を考える。不意に、体がひどく固く冷たい場所――まるで石か何かの上に横たわっている感触に気づいて、意識が急速に覚醒していく。
(ここは、いったい)
 脳裏に疑問符を飛ばしながら、八戒はまさに音がしそうなほどの勢いで上半身だけを起こした。
 そして同時に、目蓋を開けると――。
「なっ……!?」
 一面に広がる暗闇のなかにあるこの光景――しかも、この見覚えのある景色はなんだ!?
 八戒は、あまりのことに声もなかった。がくがくと体の奥から震えが走る。
 確か、自分は悟浄とともに宿の寝台で眠りについていたはずだった。なのに、今、八戒のいる場所はあきらかに百眼魔王の城内の光景そのままで。
 目の前に積み重なるおびただしい数の死体。さらに、その向こうには見覚えのある鉄格子と、――そして。
 その姿をはっきりと視界に捉え、八戒はゆっくりと立ち上がった。
「……か、なん……」
 腹から大量の血を流して倒れている花喃の姿に、八戒は大きく目を見開いて、彼女の亡骸を凝視する。
 その腹から流れた血はまっすぐに八戒へ向かって流れている。それを目で追いながらふと自分の足元を見ると、そこは血の海そのもの――。
「……ッ」
 むせるほどの血臭に、八戒は苦しそうに喉を押さえた。あまりのきつい臭気に吐き気がする。
 また、八戒の頬に冷たいものが落ちてきた。嫌な予感とともに、八戒はゆるゆると視線を上に向ける。
 そこにあった光景――かつて八戒が殺した人々の死体が折り重なるように張り付いていて、その体からぽたりぽたりと血がしたたり落ちて血の海をつくっているのに、八戒は息をつめて驚愕に目を見開いた。
 そう、八戒の頬を濡らしていたものは、自分が屠った人々の――血。
 それが雨のように、降ってくる。とろりと八戒の頬を伝うそれに、ぞくりと体が揺れた。
 胸奥からせりあがってくるような嫌悪感と恐怖に、八戒はただ震えるばかりだった。

 これは、夢だ。

 八戒は花喃の亡骸に視線を戻し、彼女を凝視したまま胸中で己に言い聞かせるように呟いた。
 そうだ、夢に決まっている。自分は、確かに悟浄とともに居たはず、なのだから。
 しかし、夢にしては意識や感覚が妙に生々しくて、八戒を混乱させた。
 とてもではないが、夢とは思えないほど意識がはっきりしていて、しかも今自分がいる場所も妙にリアルに感じられる。全く直視していられないこの光景も、確かに自分がしたことだと、はっきり判る。
 そこまで考えて、八戒はふと血に染まる自分の足元を見た。

 ――もしかして、これが“現実”なのか?

 もしかしたら、自分は“三蔵たちと出会って、今旅をしている”という長い長い夢を見ていて、――その幸せな夢から醒めただけなのかもしれない。
 こうして、百眼魔王の城から一歩も出ることのないまま、現実を直視出来ず、都合のよい夢を見続けていただけかもしれない。
 不意に、八戒はくつりと喉を震わせて嗤った。くつくつと、嫌な嗤いばかりが喉をついて出る。
 それが夢だとしたら、なんと甘美なまでに残酷な夢なのだろう。
 こんな罪びとが幸せになることなどありえないと、まるで思い知らされるかのような、夢。
 夢から醒める直前に見た、悟浄の肌の熱さもこんなにも鮮明に覚えているのに――。
 そこで、八戒は何かを思いついたかのように自分の右手を開いて、神妙な面持ちでその掌に視線を落とした。
 だが、確かに昨晩悟浄と抱き合ったという事実も、こんなにもはっきりと現実感をもって覚えている。彼の熱さと、そして八戒自身も貪欲に彼を求めたことをちゃんと覚えている。
 そのことに、八戒は再び我に返った。
 それならば。



 ドチラガ ゲンジツ デ ドチラガ ユメ ナノダ ?





********





 翌朝、悟浄が目を覚ますと、案の定隣りに八戒の姿はなかった。
「こんなときくらい、いっしょに朝を迎えてくれてもいいんじゃないのかねぇ……」
 昨晩のように八戒とベッドを共にしても、大抵今朝のように八戒は悟浄より先に起き出していて、まず悟浄が目覚めた時、その横にいることはない。だから、予想通り部屋にさえもいなかった八戒に対して仕方なさげに嘆息しつつ、起き抜けのまだほんやりした体を起こして、悟浄はベッド脇に放り投げた自分の上着から煙草を取り出した。
「――あ?」
 煙草を口に咥えたまま、悟浄は思わず訝しげな声を上げた。
 寝台の足元に、あきらかに八戒のものである靴がころがっている。それも、昨晩二人してベッドに縺れ込む前に悟浄が投げ出したままの状態で。
「……アイツ、靴履いてねぇの?」
 この宿に備え付けの履物はない。とすると、八戒は靴も履かないまま、この部屋を出たことになる。
 果たして、あの八戒が、靴も履かずに出歩いたりするだろうか。
 なんだか妙なコトになってきたぞと、悟浄は風呂場の扉の前に目を向ける。そこは昨晩風呂場にたどり着く前に悟浄が脱がした八戒の着衣が、昨晩の状態のまま放置されていた。
 あの八戒が、この状態を放ったままにしておくだろうか。
 悟浄は信じられないものを見るような目付きで、放置されたままの服を凝視した。だが、ふと思い立って八戒の荷物を探り始める。服ならば靴と違って替え自体はあるものの。
「やっぱ、替えの服もここにあるじゃん」
 悟浄の予想通り、そこにはしっかり八戒の替えの衣装も残されていた。ということは、八戒は昨晩寝る前に身につけたシャツとズボンだけで、部屋を出たということになる。
 ――明らかに、変だ。
 そもそも、八戒のような隙のない男が、靴を履かずにそんな寝間着同然の服で外をうろうろするなど考えられなかった。どう考えてもおかしい。
 急に胸奥にこみ上げてきた嫌な予感に、悟浄は急いで着替え、部屋を飛び出した。まずはまっすぐに三蔵たちの部屋に向かう。
「おい、こっちに八戒来てねぇか!?」
 ノックもせずに勢いよく部屋の扉を開けると、まずはジープが悟浄の顔面に飛びついて来た。嬉しくて、というよりは、むしろよくも大事なご主人様と一晩部屋を引き離したなという恨みのこもったものに感じるのは、悟浄の気のせいではないだろう。
「八戒なら来てねえ」
 なんとかジープを押しのけ、既にいつもの僧衣に着替えて新聞を読んでいた三蔵が、悟浄のほうへ向きもせずに答える。悟浄はむ、と、顔をしかめた。
「アイツ、消えちまったかもしれねえ」
「――ああ?」
 悟浄の言葉を、三蔵は一拍置いて意味を理解した途端、新聞から顔を上げた。そして、思い切り怪訝そうに目を眇める。
「またお前がナンか馬鹿なことをしでかしたんじゃねぇだろうな!?」
「ナンで俺のせいになるんだよ……って、朝起きたらもういねぇんだよ。でも、靴も服もそのまんま残ってるし……ぜってぇおかしいだろ?」
「…………確かに、変だな」
 三蔵はばさりと新聞を放り投げると、神妙な顔つきで悟浄へと向き直った。
「何か、心当たりはあるのか」
「ねぇよ、そんなモン。――イヤ、あるとすれば、いっこだけ」
 最初はまったく八戒がいなくなるような心当たりなどなかったから、つい三蔵の元を訪ねた悟浄だが、不意に昨日から八戒の様子がどうもおかしかったことを思い出した。
 それも、原因はただひとつ。――あのオンナ、だ。
 昼に、旅芸人の一座の中にいたあの二胡奏者の女を見てから、確かに八戒はどこかおかしかったように思う。心ここにあらず、という風情で、何度も悟浄の呼びかけで我に返っていた。
 そして、あの店でその女の演奏を聴いた後は、そう、悟浄自身もあの二胡の音に酔ってしまったかのようだった――。
 なんだかわけが判らないが、件(くだん)の女が鍵を握っているに違いないと、悟浄は直感的に思った。ならば、今悟浄がなすべきことは――。
「ちょっと俺探してくるわ」
 そう思ったら、悟浄の足は勝手に三蔵たちの部屋を後にしていた。とにかく、あれだけの旅芸人たちが宿泊している宿なら、聞き込みでも見つけやすいだろう。
 三蔵の怒声は聞かなかったことにして、悟浄はとにかく足早に宿内を駆けて行く。そして、宿のカウンター前を通り抜けようとした、その時。
「――あ、そこの紅い髪の兄さん! ちょっとちょっと!」
 カウンター越しに宿の主人らしき壮年の男から声をかけられて、悟浄は仕方がなさそうに立ち止まった。一瞬無視しようかとも思ったのだが、男の少し焦った風なその声音が妙に気になった。
「ナニ、おっさん。俺、急いでるから手短にね」
 苛々と顔にかかる前髪をかきあげながら言うと、男は怪訝そうに眉宇をひそめた。
「昨晩兄さんといっしょにいた、綺麗な顔したメガネの兄さんのほう、アレ、夢遊病の気でもあるのかい?」
「――は?」
 一瞬、その男が何の話をしているのか理解出来なくて、悟浄も同じように胡乱な視線を返す。
「夜中にな、この店の入り口を閉める前に、その兄さん薄着でぼんやりした表情のまま出て行こうとするからさ。一応声はかけたんだけど、全然反応はないし、俺が止めるのも聞かずにそのまま出ていっちまったんだよ。靴も履いてなかったし、どうも夢遊病っぽかったからさ……って、兄さん、どうしたんだい!?」
 男の話を最後まで聞くことなく、悟浄は話の途中で顔色を変えると、急いで宿から飛び出した。
 ものすごく、嫌な、胸騒ぎがする。
 何か、八戒がとんでもないことに巻き込まれているのではないかというとてつもない嫌な予感に、悟浄はただひとつの手がかりである女の行方を掴むために、町へ出た。








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