真実の詩




   4





 ぽたりと、またひとつ血の雫が落ちる。
 その落ちる様をぼんやりと眺めて、八戒は小さくため息を零した。
 暗闇に慣れた瞳は、そのどす黒い赤い液体の雫が血溜まりにのみ込まれていく形すらはっきりと映し出すのに、それをただ見つめることしか出来ない。
 八戒は、膝から崩れるように力なく地にひざまずいた。膝下までぬるりとした血が染み入る感覚に、ぞくりと肌が粟立つ。
 ――いったい。
 いったい、いつになったら、この夢から醒めることが出来るのだろう?
 さすがに、多少冷静になった頭でこれが現実とは違う、という認識はできたが、だからといって夢にしてはあいかわらず生々しすぎる。
 どのみちこれが夢だとしても、永遠にこのままではいずれ発狂してしまいそうだと、八戒は自嘲した。
 こんな、自ら犯した罪を見せ付けられるような場所に、こうしてずっと閉じ込められたままなら。いつかきっと。
 ただ、もしかしたら自分がとんでもないことに巻き込まれている可能性も捨てきれないと、八戒は思った。こんな旅を続けている最中である。知らぬ間に何かの術にかかっている可能性も無きにしもあらずだ。
 そこまで考えて、八戒はそれまで落としていた面をゆっくりと上げた。

 もしかしたら、この状況が、現実そのものかもしれない。

 ふと、脳裏を掠めたある可能性に、八戒はふらりと立ち上がった。
 そして、花喃の亡骸が横たわる鉄格子のほうへゆっくりと向かう。八戒はなんの感情も窺いしれない無表情のまま、鉄格子越しの彼女の前まで歩いた。その前で身を屈め、鉄格子の隙間から、そっと花喃へと手を伸ばす。
「――っ!」
 八戒が彼女の体に触れた途端、思いのほかはっきりとその感触が伝わってきて、八戒は弾かれたように自らの腕を引き戻した。その感触を振り払うように、八戒はゆっくりと立ち上がる。
 これが現実ならば、目の前の女は花喃ではないはず、なのに。
 それなのに、このあまりにリアルすぎる光景はなんなのだろう。
 八戒は、眼前の鉄格子を左手で掴み、ぎり、ときつく握り締めた。鉄格子の冷たい感覚もまた、これが間違いなく現実だと八戒を判らせてくれるほどにリアルだった。
「――案外しぶといのね、あなた」
 突如、八戒の背後から聞こえてきたまったく聞き覚えのない女の声に、八戒はものすごい勢いで後ろへ振り返る。
 ――そこには。
「あなた、は……」
 血の海の中に悠然と佇んでいたのは、件(くだん)の二胡奏者の女性そのひとだった。





「あなたが初めてよ。未だに正気を保っていられるなんて」
 女は口の端をつり上げて微笑みながら、じっと八戒を見つめている。その腕に、今は二胡の姿は、ない。
「……どういうことなのか、説明していただけますよね?」
 八戒は目の前の女を冷ややかに一瞥すると、ゆったりと目を細める。しかし、彼のかもしだす剣呑な雰囲気にも怯むことなく、女はさらに笑みを深めた。
「ここは、あなたがもっとも辛い情景を描き出した、いわば精神世界のようなものね」
「…それで。結局『ここ』はどこなんですか?」
 八戒の声が怒気を含んだ、さらに低いものとなる。それでも女は笑みを絶やさない。
「『二胡のなか』、よ。あなたは今、二胡に体ごと囚われているの。――二胡に魅入られてまだ意識を保っていられるなんて、あなた只者ではないでしょう」
 ――やはり、そうか。
 これですべて納得が出来たと、八戒は微かに目を瞠った。
 おそらくここは、以前に金閣という少年が手にしていた瓢箪の内部世界と似たようなものなのだろう。ただ、あの時は魂だけが閉じ込められている状態だったからか、殆ど現実感はなかった。
 けれど、肉体ごとすべてが二胡の内部世界に囚われている今。
 ――そう、すべてが生々しすぎて、だからこそ八戒も引きずり込まれそうになったのだが。
 この、――悪趣味きわまりない演出に。
 こうもリアルに、すべてを生々しく再現するなど、まさに悪趣味としか言いようがない。
 八戒はす、と眦をきつく眇めて、女に対し笑いかけるように、口許に冷ややかな笑みを刷いた。
「二胡に魅入られて、とは、どういうことなんですかね」
「その言葉の通り、あなた、あの二胡に魅入られたの。だからここにいるのよ。ここに引き込まれた者はすぐに自我を手放すから、その体と魂ごと二胡にすべて飲み込まれてしまうのだけど。……あなた、いつまでたっても正気を失わないから、どうしたらいいのかと思って」
「つまりは、最初に貴女と目を合わせた時から、既に僕は目をつけられていたと、そういうことですか……」
 八戒の抑揚のない声音が、ことさら低く辺りに響く。
「そうね。あなたもずっと気になっていたでしょう? それもすべて二胡が望んだこと。私はその手助けをしているだけ」
 彼女の言い分に、八戒はさらに剣呑な笑みを深めて、その顔を正面から凝視した。
「……貴女がたの目的はいったいなんです?」
「目的?」
 八戒の問い掛けに、くつりと女は喉を鳴らして嗤った。嫌な類の笑みに、八戒は不快げに眉宇をひそめる。
「決まってるわ。あなたが欲しいの。二胡が望んだ、あなたのすべてを」
「生憎、それは御免ですね」
 八戒は彼女に気づかれないよう、右の掌にゆっくりとゆっくりと気を集中させる。そして、ある程度溜まった状態で不意に左手を翳し、その間から光球を女に向かい放った。
「はぁ……ッ!」
「無駄よ」
 八戒の行動を予測していたのか、女は既(すんで)のところで八戒の攻撃を避けた。
 だが、八戒もその事態は予測済みであり、むしろこの異空間になんらかのダメージを与えることができればと思ったのだが、どこかに当たったらしい手ごたえはあったものの――それはびくともしない。
(やはり、普通の気孔弾くらいではびくともしませんね……)
 八戒は険しい表情で、再度女へ対峙する。しかし、女はにやりと微笑むと、ふ、と瞬時にその場から姿を消した。
 突然のそれに、八戒はたった今までその女がいた場所にあわてて駆け寄る。
「ちょっと待って下さい……っ!」
「もうしばらくそこで足掻いていて」
 女は声だけを残して、その痕跡を綺麗に消してたち去った。再び八戒だけがその空間に残される。
「――さて、」
 どうしたものか、と八戒は知らず深々と嘆息した。
 状況は掴めたものの、打開策は今のところなしと言ったところか。あの女の言葉を信じれば、例の瓢箪に魂だけが閉じ込められた時と違い、今回は肉体ごと『ここ』――二胡の内部世界に閉じ込められているらしい。ならば、現実世界のほうに八戒の姿はないはずだ。
 と、いうことは。今頃、悟浄たちは八戒の姿が見えないことに気づいているだろうか。
 ふと脳裏をよぎった、紅い髪と紅い瞳を持つ男の姿に、八戒はそろりと詰めていた息を吐き出した。
 もしも、このままここから出られなかったとしたら――?
 彼とも、もう二度と逢えない。
 自らが屠った人々の屍と、いとしい花喃の亡骸の幻影とともに、永遠にこのまま、ここで朽ち果てるのみ。
(――それは、嫌だ)
 このまま、彼――悟浄と逢えなくなるのは絶対に嫌、だ。
 不意に、八戒の胸裡へと浮かびあがってきた強い想いに、八戒はきつく左手で自分の右腕を握り締めた。
 それならば、自分の取るべき行動は、ひとつ。
 そう、――帰るのだ。



 悟浄の元へ、と。





********





「森っつっても、キリねぇよ……」
 とりあえず、森の入り口までたどり着いたものの、思ったよりも深そうな森を前に、悟浄は深くため息をついた。
 あれから例の旅芸人の一座を探して聞き込みを始めたら、意外にもあっさりその一座自体は見つかった。
 但し、肝心の二胡奏者の姿はなかった。一座の人間の話では、彼女は殆どが別行動で、一緒に旅を続けてはいるものの同じ公演内で芸を披露することはめったにないらしい。だが、あれだけの二胡の弾き手ともなると、偶に大きな公演で一緒になることもあるからともにいるだけ、とそういうことらしい。
 だから、今日も朝から一番近くの森に行く、と言って出掛けたきりだと言う。大抵、彼女は二胡の練習を人気のない場所でするらしいから、今日も日中の空き時間に練習をするのだろうということでその姿を見送った、と。
 その行動パターン自体が胡散臭ぇよなあ、と悟浄はひとりごちた。
 それで、聞いたまま、一番近くの森までは来てみたが。特に、人のいる気配はない。
 もっと奥まで入ってみるかと、悟浄は懐から取り出したハイライトを咥え火をつけた。景気づけにその紫煙を深く吸い込む。
 悟浄は両手を皮ズボンのポケットに突っ込み、咥え煙草のまま、森の奥へと続いているらしい小道を少々急ぎ足で歩き始めた。
 歩を進めるほど、鬱蒼とした木々が悟浄の頭上にかかる。だんだんと薄暗くなっていく景色の中、不意にどこからか視線を感じて、悟浄は一瞬目を見開いた。だが、それはひどくなじみのある気配で、やれやれと肩をすくめる。
 どうやら八戒を心配してか、ジープがこっそりと悟浄の後をつけてきているらしい。
 ケナゲなペットだねぇと、悟浄は口の端を歪めつつ、くくっと喉を鳴らした。見た目よりずっと賢い生き物のようだから、ご主人様の不在をジープなりに心配しての行動だと思うが。
 まあ、自分もひとのこと言えねぇけど、と悟浄も歩きながらぼんやりと思う。
 正直、八戒が消えたと頭ではっきりと認識した瞬間、一気に全身の血の気が引いたような気がした。それから後は、忽然と姿を消した八戒を、ただ探すことしか頭になくて。
 何故だろう。ここで八戒が自分の意志でいなくなったとは、微塵も思わなかった。そして、あの八戒が黙って姿を消すなど、何かあったに違いないとストレートに思った。
 実際のところ、宿の男の証言からしても、八戒自らの意思とは到底思えないが。
 ふと、八戒もこんな気分だったのかと、悟浄は思った。
 以前、悟浄が自分の意志で黙って八戒たちの元を離れ、カミサマと名乗る男の処へ赴くべく単独行動を取ったことがあった。あの出来事の後、悟浄がいなくなった時のことを語った彼の表情を、悟浄は一生忘れられないと思う。
 あれは、ひどく――悟浄の胸に堪えた。
 今、悟浄の胸を巣食う、不安と虚無感と、それでも八戒を求めてやまないこの複雑な感情がない交ぜになった言葉に出来ない気持ちを、あの時八戒も抱えてそれでも前を見据えていたのだろうか。
 ――だから、絶対に見つける。
 悟浄は一旦立ち止まると、短くなった煙草の欠片を足元に落とし、靴裏で踏み消した。
 ざわりと、悟浄の周囲の木々が一斉にざわめく。その様をちらりと流し見て、悟浄はくつりと口角を上げて笑みを形どる。
「……お約束すぎて、笑っちゃうね」
 悟浄が皮肉げに呟いた途端、木々の間を縫うように、十数人の妖怪たちが一気に木上から降りてきた。あっという間に、悟浄を取り囲む。
「三蔵一行のうちの一人が、こんなところに一人でいるとは好都合だな! 殺れ!」
 刺客らしき妖怪の一人が言い放った台詞を合図に、一斉に妖怪たちが悟浄に襲い掛かる。悟浄は瞬時に錫杖を召喚し、その勢いにまかせて鎖を振り回した。その鎖の先にある鋭い刃は、確実に何人かの首を飛ばしていく。
「ったく、やってられっかってーの! ジープ! そこにいんだろ!? とにかく三蔵たちをここまで連れてこい、いいなっ!!」
 錫杖を片手に、空いたほうの腕と足で直接敵を薙ぎ倒しながら、悟浄は上空にいるはずのジープに向かい叫んだ。
 このままでは、少なくともしばらくの間この鬱陶しい刺客ご一行様の相手をしなければならないのは目に見えていた。ならば、先にジープに遣いを頼んで、彼らをここまで寄越したほうが話は早い。
 悟浄の言葉を正しく理解したらしく、ジープは姿を見せないまま「きゅい」と高く短い鳴き声を上げて、羽ばたいていった。その音を聞き取って、悟浄は再度ニッと口の端を上げ、妖怪たちに向き直る。
「じゃ、さっさと片つけよーぜ」
 悟浄は錫杖を構えて、眼前の刺客たちを悠然と見据えた。
 とにかく、今はこの連中をさっさと片付け、先を目指すしかなかった。








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