真実の詩




   2





 夕刻前にどうにか二晩連泊出来る宿を見つけたものの、その宿では食事は出来ないとのことで、四人は宿の傍にあるかなり大きな飯店へと夕食に出掛けた。
 宿の主人から紹介されたその店は、結構な店構えの高級料理店であり、店内の奥には楽器の演奏も可能なステージまである。とはいえ、三蔵たちが普段めったに立ち寄ることのない高級飯店でも、四人の食事風景はいつもとなんら変わることなどなかった。
「はあー、食った食ったー。もー眠いぃ」
 久々にまともにありつけた食事というのもあって、特に悟空の食べっぷりは凄まじいものがあった。あまりの凄さに、注文した食事が運ばれるペースが追いつかなかったほどである。
「食べすぎなんだよ、お前はっ」
 食べるだけ食べて今度は眠気かと、三蔵がハリセンをかましながら悪態をつく。だが、悟空は本当に眠いのか、すでにぼんやりとした表情を浮かべて「眠い」を連呼していた。
「僕たちまだ食事中ですし、なんでしたら三蔵と悟空はお先に帰ったらどうです? これ以上オーダーはしませんから、お会計だけはお願いしますね」
 まだ悟空が自力で動ける間に宿に戻ったほうがいいだろうという八戒の提案に、三蔵は一瞬だけ不本意そうに眉宇をよせた。しかし、仕方がねぇとばかりに深々と嘆息しながら席を立った。
「……先にこいつを連れて戻る。テメェらも食うモン食ったらさっさと帰ってこい」
「リョーカイ。それじゃあねぇ〜」
 わざとらしく悟浄が手を振ったのが気にいらなかったのか、三蔵は忌々しげに悟浄を睨みつけると黙って悟空とともに店を後にした。
 その姿を着席したまま見送ってから、悟浄はにやりと口の端を上げる。
「邪魔モノ撤収、ってね」
「邪魔モノって、悟浄。……三蔵がいなければ、食事は出来ないんですから」
 一応ゴールドカードの持ち主なんですしと、悟浄に向かいたしなめるように苦笑しながら、八戒は食事を再開した。
 悟浄はもう食事を続ける気がないのか、懐から煙草を取り出し、食後の一服とばかりに火をつける。
「そりゃそうだけどよ。これで、久しぶりにお前と二人きりじゃねーの。ま、ギャラリーは置いとくとして」
「……悟浄」
 嬉しげに笑う悟浄に、八戒は小さく目を瞠る。だが、その笑みにつられるように八戒も目許をほころばせた。
「そうですね。このところ野宿続きでしたし」
「だろ?」
 に、と、煙草を咥えたまま笑う悟浄へ、八戒も微笑み返した。
 不意に店内の照明がぎりぎりの明るさまで落とされた。突然のそれに、一瞬だけ店内がざわつく。
 何事かと、悟浄と八戒も無言で見つめあった。
 すると、店の奥に設けられていたステージに、仄かなライトが灯された。どうやらそこで何か始まるらしいと、皆の視線がその場に集中するのに合わせて、八戒もそちらへと顔を向けた。
 ゆらりと、仄暗いステージ横から楽器らしきものを手にした人の姿が浮かび上がり、ゆっくりとステージへ上がる。
 その姿を目にした途端、八戒は大きく息を呑んだ。目を見開いて、その人物を凝視する。
(――あの、女性だ)
 昼に町中で八戒と目が合った、旅芸人の一座の中にいた一人の女性。
 しかも、手にしている楽器――二胡は、間違いなく昼間見たものと相違なかった。
 偶然とはいえ、再度こういうかたちで目の前に現われた彼女に何やら因縁めいたものを感じて、八戒はそれまで詰めていた息をゆるゆると吐いた。と同時に、悟浄の物言いたげな視線を痛いほど感じて、八戒は苦笑しながら彼へと向き直る。
「ナニ、あのオンナ、お前の知り合い?」
「……いいえ。今日の昼間見かけたひとにそっくりだったから、驚いただけですよ」
「その割に、ミョーな驚き方してなかったか、お前?」
 本当に八戒のこととなると、悟浄はよく見ている。誤魔化しもなにも許さないと云わんばかりに。
 八戒はさらに苦笑を深め、短くため息を零した。
「悟浄の気のせいですよ。それとも妬いてくれてるんですか」
「あったり前だろ。お前、オンナ見ても普段あんな反応しねぇじゃん。……気に、なるに決まってんだろ」
 少しふてくされたような、拗ねたような、それでいてどこか照れを含んだ彼の言葉と態度に、八戒はすぐに返す言葉もなくて、まじまじと悟浄を凝視してしまった。
 彼の、この言葉がとても嬉しいなんて言うと、きっと照れ屋の悟浄はかえって臍を曲げてしまいそうだが。
 どうにも口許が緩んでしまいそうになるのを押さえながら、八戒は右手を、机の上にあった悟浄のそれにそろりと重ね合わせた。ふと、悟浄が顔を上げて八戒を見つめる。それに、八戒もふわりと破顔した。
「ありがとうございます」
「……礼を言われるよーなコト、してねぇと思うけど?」
「僕が、今、言いたかったんです」
 にこりと、八戒が笑みを深めて悟浄を見つめ返す。悟浄がますます言葉に詰まる様が手に取るように伝わってきて、八戒も黙って悟浄から手を離した。
 刹那、キン……ッという、その場の空気を突き破るような高い音が店内いっぱいに響き渡った。
 二胡特有の凛した音色に、店内にいるひとの意識が一瞬にしてそのステージ上にいる二胡奏者へと向けられる。
 悟浄も八戒もそれにつられるように、再度ステージへと視線を向けた。そして、八戒は、あらためて二胡奏者である女性を観察する。
 昼間に見た時よりは、ほんの少しだけ華やかな衣装に着替えているものの、全く肌の露出はないむしろゆったりとした作りの紺の衣装を身につけていた。胸元を飾る銀の刺繍と、黒塗りの二胡、そして流れる漆黒の長髪が見事なコントラストとなって人目を惹く。
 また、目鼻立ちの整った顔立ちは、化粧気はなくとも彼女の美しさを十分引き立てていた。これだけでも周りが放ってはおかないだろう。
 だが、これくらいの歳若い女性の二胡奏者というのは、はっきり言って非常に珍しい。しかも、これだけの高級店から声がかかるとなれば、それなりの技量の持ち主であることは間違いない。
 そこまで考えて、それでも八戒は、何故こうまで彼女のことが気にかかるのかよく判らなかった。
 基本的に、他人にまったく興味がない自分が、たまたま偶然町で見かけただけの人物に、こうも気を取られるなど――。
 すると、ステージ上の彼女が本格的に二胡を抱え、すっと弓を弾く。
 空気が切り裂かれるような音が室内に高く長く響いた。それを合図に、二胡の演奏が始まる。
 ――それは、まさに圧巻、といっても過言ではないほどのものだった。
 まるで魂自体が揺さぶられるような、激流のような音色。二胡とその使い手の弓から次々と生み出される、魂の共鳴ともいうべきそれは、その場にいる観客すべてをその世界へ引きずり込んでいく。
 激しい弓使いと、それでもなお一糸乱れぬ旋律の正確さに、いかにこの奏者の腕が凄いのかが判る。
 思わず、八戒も食い入るように二胡を操る彼女を見つめていた。
 その音から、――耳が離せない。
 その姿から、目が離せない。
 その旋律が、まるで八戒の心の深淵に深く深く絡みつくように入り込んできて、振り払えない――。
 どれだけその音の世界に引き込まれていたのか自覚がないまま、不意に照明が元通り明るくなり、そこでようやく八戒は我に返った。同時に、店内いっぱいに響き渡る拍手喝采に初めて演奏自体が終わっていたことに気づいて、八戒は深々と息を吐く。
 演奏が終わったことすら気づかないほど聞き入っていたとは、なんとも無用心この上ない。
 ふと、悟浄へ目を向けると、かくいう悟浄もまた茫然とその演奏を聞き入っていたようだった。まだどこか茫洋とした表情を浮かべたまま、八戒の視線に気づいてから決まり悪げにちらりと八戒を流し見る。
「いい演奏でしたね」
 八戒が苦笑まじりに声をかけると、悟浄はいつの間にか短くなっていた煙草を忙しげに灰皿へと押しつけた。
「イイっつーより、すげぇ。……イヤどっちかってーと、怖ぇ、って感じ」
「怖い、ですか?」
 悟浄の口から出た意外な言葉に、八戒は訝しげな口調で返す。
「ナンつーの、鬼気迫るっつーか、……聴いてて鳥肌がたつ感じしなかったか?」
「まあ、確かに」
 それは八戒も少なからず感じていたことだから、一応肯定はしたものの、正直怖いとまでは思わなかった。それは、八戒が悟浄よりももっと深くその旋律に引き込まれていたから気づかなかっただけなのだろうか。
 怖い、というよりは、深い。
 深くて深くて、まるでそのまま見えない“どこか”へ引きずり込まれるような――。
「八戒?」
 悟浄の呼びかけに、一瞬だけ意識を別のところへ飛ばしていたことに気づいて、ゆるりと彼へ視線を戻す。
 まったく、今日はこうして意識を別のところへ向けてばかりだ。その原因がすべて件の女性であることに苦笑いしつつ、悟浄に向かいすまなさそうに首を傾げた。
「ああ、すみません悟浄。そろそろ、帰りましょうか」
「……そうだな」
 どこか怪訝そうに、それでいて探るような視線を向けてくる悟浄にさらに笑みを深めることで返して、八戒はゆっくりと席を立った。そして、悟浄もその後に続く。
 店を後にしても、八戒の脳裏には、先ほどの二胡の旋律がいつまでも耳について離れないような気がした。
 いつまでもいつまでも、――まるで、それ自体に呼ばれているかのように。





 ようよう宿部屋に身を滑り込ませた途端、背後からぎゅっと悟浄に抱きしめられて、八戒は思わず息を詰めた。
 首筋にかかる悟浄の熱い吐息に、身の内の熱も一気に上がりそうで、びくりと八戒の躯が揺れる。だが。
「――悟浄」
「……ナニ?」
 腰に回された悟浄の腕をやんわりと外しにかかると、後ろから不服そうな声が上がる。八戒は顔だけを彼へ向けると、困ったような笑みを口許に浮かべた。
「せめて、お湯を使ってからにしません?」
 確かに、まともな風呂に入ったのは前回の宿泊の時以来だから、かれこれ野宿が続いた十日間は軽く水浴びをした程度でしかない。それならば、せめて躯を重ね合う前にきちんと風呂に入り、それまでの汚れを洗い流したいと八戒は思ったのだ。
 しかし、悟浄はさらにぎゅうと八戒を抱きしめる力を強くした。八戒の首筋をきつく吸い上げる。
 その唇の熱さに八戒はきゅっと唇を噛み締めた。
「悟浄、」
「ヤだ。なあ、……シよ?」
「イヤ、と言われても、僕もこのままはヤですよ……、っん」
 悟浄の手はますます大胆な動きで八戒の腰の辺りを這い始め、彼の唇は八戒の熱を煽るかのようにねっとりと首筋を這う。
 困ったなあとため息をつきながら、どうしたものかと八戒は思案した。このままでは、すぐに悟浄にベッドに押し倒されてしまいかねない。
 別に、八戒とて悟浄としたくないわけではないのだ。ただ、その前に風呂に入りたいだけで。
 それなのに。
「今、すぐに、お前が欲しいんだよ……っ!」
 そんな八戒の困惑に構っていられるだけの余裕すらないのか、悟浄は八戒の上着の裾から直接肌をまさぐり出す。どんどんと性急に求めてくる悟浄に、八戒はふ、とそれまで詰めていた息を吐き出した。
 八戒の躯の力が抜けたことに気づいた悟浄が、一瞬我に返ったように手を止める。
「……悪ィ。そんなにイヤか?」
「スルのが嫌なんじゃなくて、ただその前にお風呂に入りたいだけなんですけどね。僕は」
 悟浄の腕が緩んだ隙に、八戒はそろりと正面から悟浄へ向き直った。そして、苦笑ぎみに微笑みながら、そっと彼の右頬に手を伸ばす。
「なんか押さえきかなくてよ。……酔ってんのかな俺」
「めずらしいですね。貴方、そんなにお酒呑んでました?」
 悟浄はばつが悪そうに口許を歪ませると、伸ばされた八戒の手を取り、再度その痩身を抱き込んだ。
「イヤ、酒っつーより、……あの、音か」
「……あの、音?」
「さっきの店で聴いたアレ。なんつーの?」
「二胡のことですよね」
「そ。アレに酔ったみてぇ……」
 そう言いつつ、悟浄は八戒の肩口に額を押し付けてきた。八戒はなんとも言えない表情を浮かべたまま、ぎゅっと悟浄の躯を抱きしめる。
 ――どこまでも、あの音が、ついてまわる。
 音に酔った、と悟浄は言ったけれど、それは八戒も同じだった。
 未だに耳について離れない、あの音。あの旋律。思い出すまでもなく、まだ八戒の脳裏に鮮明に焼きついている。
 悟浄と抱き合えば、それも忘れられるかと思っていたのだが――。
「悟浄、それならいっしょにお風呂に入りませんか?」
「……八戒?」
 八戒はゆっくり顔を上げると、悟浄に向かいにっこりと微笑んだ。その笑みに、悟浄の眉宇が怪訝そうに寄せられる。
 めったにない八戒からの誘いに、逆に警戒でもしているようだ。
「妥協案ですよ。僕はお風呂に入りたい。でも、貴方はすぐにしたい。なら、いっしょにお風呂に行けばいいかなと思ったんですけど」
「俺は大歓迎だけどな。でも、……ナンの風の吹きまわし?」
「さあ? さしあたり、今はそんな気分だから、というコトにしておきましょうか」
「ふぅん。ま、俺は八戒といっしょに風呂入んの大好きだからいーけど」
 八戒の気が変わらないうちに、と、八戒の腰を抱いたまま風呂場へと向かう悟浄に苦笑して、八戒はそっと彼に気づかれないよう翠瞳を伏せた。そして、きつく自分の掌を握り締める。





 どこまでも追ってくるあの旋律を振り切るかのように。








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