真実の詩




   5





 八戒の鋭い掛け声とその掌から繰り出された気孔の光弾が、ドンッという轟音とともに、暗闇の中に響き渡った。
「……全然駄目、ですね……」
 この空間から脱出をすべく、八戒は先ほどから何度も気孔弾を繰り出していた。
 だが、何度やっても現状はなんら変わることなかった。この空間になんのダメージも与えられない。
 ……内側からの干渉では、無理ということなのだろうか。
 えてして、この手の内部世界は、内側からの攻撃よりはその本体に対する外側部分へ攻撃するほうが容易い。但し、外側からの攻撃の場合、一歩間違えれば内部にいるものまでも破壊してしまう可能性があるのだが。
 おそらく、三蔵が魔戒天浄をかければ、一発で片がつくような気がする。
 しかし、八戒の不在に彼らが既に気づいているのならそれを当てにするのもいいが、ここに入り込んでからいまいち時間の感覚がよく判らなかった。ならば、必ずしもここと外部の時間の流れが同じであるとの確証もない。
 それなら、自分で出来る限りのことはしよう、と。
 自分の意志で帰ると、――そう決めたのだから。
 八戒は再度気孔弾を繰り出すべく、再び掌に気を集中し始めた。
 不意にシャツの後ろ側を何かにしっかりと掴まれた感覚に、八戒は訝しげに後ろを振り返る。
「――ッ!?」
 血の海の幻影からのびる無数の亡者の手が、八戒のシャツを裾をきつく掴んでいた。幾多の腕が八戒をその中へ引き込もうとものすごい力で引っ張ってくるのに、八戒はどうにかその手を振り払おうと必死にもがいた。
 だが、八戒が払っても払っても、その手は次から次へと引切り無しに八戒へのばされる。気を抜けば、このまま一気に血の深淵の中へと引きずり込まれてしまいそうで、八戒はとにかく必死で抵抗した。
 そこに引き摺られたら、もう最期だと思った。二度と戻れなくなる。それだけは、絶対に。
「――一緒にいきましょう、悟能」
 今度は八戒の耳元で、かつて何度も何度も聞いた、やさしくなつかしい響きの声が囁かれる。
 ぎくりと、八戒の体が強張った。まさか。
「花、喃……!?」
 八戒がおそるおそる振り返ると、先ほどまで腹から血を流して倒れていたはずの花喃の幻影が起き上がり、八戒のすぐ横に立っていた。まるで睦言をささやくように、耳元に唇を寄せて誘うような声音で。
 これは、幻覚だ。
 八戒は切れるほどきつく唇を噛み締めると、自分に言い聞かせるように胸中で繰り返す。
 八戒を引きずり込もうとするこの無数の手も、この花喃ですらも。八戒から自我を奪うための、手管なのだ。
 ……だまされてはいけない。
 けれど、この光景も、そしてその横で微笑みながら八戒を誘おうとする花喃の姿も、あまりにも生々しくて。
 幻影だと頭では判っていても、どうしても振り払いきれない。
(――悟浄、)
 八戒はぎゅっと目を閉じた。
 どうか、この幻影に打ち勝つだけの勇気、を。





「――死にたいんじゃなかったの?」
 不意に聞こえてきた突然の問い掛けに、八戒はゆっくりと翠瞳を開いた。
 すると、例の女が、八戒から少しだけ離れた先に立っていた。
「僕が、ですか」
 唐突なそれに対し、八戒は静かに言葉を返す。
「二胡に魅入られる者は、大抵『死に近しい者』なのに。どうしてあなたはそんなに足掻くの? 手離してしまえば楽になれるのに?」
 死にたいんでしょう? と、畳み掛けるように言い募る女に、八戒は目を瞠った。
 確かに……かつては、誰でもいいから、自分を殺して欲しかった。
 このまま生きることは辛いだけだと、――けれど自らの手で決断を下すだけの勇気はなかったから、誰かに手をかけてもらえれば楽になれると思っていた。
 この深淵に、このまま身をゆだねてしまえば楽になれるのは、判る。
 かつての八戒なら、間違いなくその身を投じたであろう。けれど。
(今は、――まだ死ねない)
 八戒の脳裏に浮かび上がる三人の姿。
 なくしたくないもの。手離したくないもの。
 そう。
 今の自分には、帰りたい場所が、出来てしまったから。
「生憎、今は死ねないんです。だから、僕は生きてここから出ます」
 八戒はきっぱりと言い切ると、その揺るぎない瞳を眇めた。八戒をとりまく気が変わったことに女が一瞬怯んだ隙を見逃すことなく、八戒は瞬時に彼女に近づいてその右腕を拘束する。
「痛い……っ、離して!」
「ここを出る方法を教えていただくまでは、離しません」
「駄目よ、駄目! 私はただ、あのひとを取り戻したいだけなの……!」
 女は激しく首を横にふりながら、躍起になって八戒の手から逃れようと身を捩る。しかし、この女の言葉に八戒は思わず柳眉をひそめた。
「もう少し判りやすく説明してもらえませんか?」
 出来るだけ女を刺激しないよう、八戒は静かに尋ねる。
 女は、ふと八戒から視線を外すと、そっと下を向いた。そして、ぽつりと口を開き始める。
「だって、約束したもの。千の人を喰らえば、かわりにあのひとを解放してくれると。この、二胡に囚われてしまった――私の恋人(あのひと)を」
「――それは、いったいどういう、」
 八戒は目を細め、女の相貌を見下ろした。
「千人。この二胡に差し出せばあのひとは解放される。だから、あなたを逃すわけにはいかないの」
 ―― 千人、か。
 ここでもこの数字がついてまわることに、八戒は思わず自嘲の笑みを浮かべた。だが、ふと口許を引き結び、女の言葉から推測できることを考えてみる。
 つまり。
 この二胡が一種の魔器であることには違いない。ひとを喰らうことを糧とする魔器は、確かにいくつも実在する。要はこの二胡もそのひとつということか。
 しかも、魔器を操ることが出来るとなると、人間ではありえない。ということは、この眼前の女も妖怪というわけだ。
 八戒は険しい顔つきで嘆息すると、女の腕を掴む力を少しきつくした。
「それで。貴女は大事な方を取り戻すために、こうして何人も捕らえその命を奪っていると、そういうわけなんですね」
 抑揚のない八戒の声音に、女は弾かれたように顔を上げた。そして、きつく八戒を睨めつける。
「誰になんと言われようとも、私はあのひとさえ取り戻せればそれでいい。――それに、あなたも同じでしょう?」
「――」
 嫌な含みを込められたその言葉に、八戒は小さく目を見開いた。
 これだけの幻影を忠実に再現するために、この女が八戒の心の奥深くまで覗いていても不思議ではない。八戒の過去の罪過も、すべて。
 それを指して同じだと言われてしまえば、八戒に否定する術はない。
 かつて自分も、ただ一人の大切なひとを取り戻すために、幾多の咎無き者の命を奪ったのだから。“愛”という名の、エゴのもとに。
 そしてこの女も、大切なひとを取り戻すためなら、他人(ひと)の命を奪うことも厭わないと言う。
 まったく同じ、エゴのカタチ。
 八戒はくつりと口許に嗤いを滲ませた。
 だから、自分は二胡に魅入られたんだろうか。こんなにも似た思いを抱えているから?
 しかし、だからといって、このまま易々と囚われてやる謂れもなかった。八戒と名を変えても、結局は今も自分はエゴのかたまりでしかない。だから、このまま女と――二胡のいいようにさせる気もさらさらなかった。
 それこそ、この女を殺して、確実に元に戻れるのならば。
 八戒は、なんのためらいもなく、この女に手をかけるだろう。
「それならよくお判りだと思いますけど。僕、目的のためなら手段は選ばない性質なんです。貴女と同じだから」
 八戒はうっすらと微笑んで、女の瞳奥を凝視した。
 見る者が瞬時に凍りつきそうなほどの冷気を湛えた笑みに圧倒されたのか、女が短く息を呑む。
「いい加減に教えていただきましょうか。貴女ならここから抜け出す方法を知っているはず、ですよね? 明らかにこの内部世界と行き来しているようですから」
 すると、女はくつくつと嘲り笑いを零し始めた。小刻みに肩を震わせて嗤いながら、八戒を見つめ返す。
「知らないわ。――だって、私もずっと『ここ』に閉じ込められたままなんですもの」
「――ずっと、閉じ込められたまま?」
 八戒は訝しげに、女の言葉を反芻した。
 それは、いったいどういう意味なのだ?
「そう。私はここで永遠にあのひとが解放される時を待ちながら、二胡の内部世界へ取り込まれた人に幻覚を見せて、その自我を崩壊させる。それが私の役目」
「じゃあ、あの二胡を弾いていた貴女は……!?」
「あれは『二胡そのもの』よ」
 女はますます嘲笑を深めた。
「私の元々の体は、二胡の精神体に奪われてしまった。だから、あれはもう二胡そのものなの。そのかわり、私の魂が二胡の内部(ここ)へ閉じ込められてしまった。それが条件だったから」
「“あのひと”を助けるために、ですか……」
 八戒は呆然と呟く。女は、苦しげでありながら、それでも気丈に微笑んだ。
「そうよ。そうするしか、なかったの」
「……」
 八戒はじっと、目の前の女を無言で見据えた。
 これが彼ならば、ここで慰めの言葉のひとつでもかけるのだろうが、生憎と、八戒はこの話を聞かされてもなんの感慨も覚えなかった。
 「そうするしかなかった」というこの言葉に、すべてが込められていると思っただけだ。
 他人(ひと)がどう思おうと、本人が「そうするしかなかった」のであれば、それが真実(ほんとう)なのだから。――そのひとにとっての。
 かつての自分がそうであったように。
 そして、――今も、また。
「……結局のところ、貴女もここから出る方法は判らないと、そういうことなんですね」
「……今まで、あなた以外にここへ来て自我を保っていられた人は一人もいなかった。もちろん、元に戻れた人は誰も」
「そう、ですか」
 八戒は深々とため息を漏らすと、再度彼らのことを思う。
 信じるしかない。
 八戒が二胡(ここ)にいることを、彼ら――三蔵、悟浄、悟空が気づいてくれることを信じて。





 絶対に、ここから出られると、信じて。








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