真実の詩




   1





 深い深い森をようやく走り抜けたと思った瞬間、一気に視界が開けた。
 視界一面に広がる広大な荒地を前に、ジープのハンドルを握ったまま八戒は思わず眩しげに目を細めた。それまで鬱蒼とした薄暗い森中を走ることに慣れた瞳に、砂地特有の照り返る光がきつく突き刺さる。
 だが、その荒野のかなり先に町らしき影がはっきりと見てとれたのに、四人とも一様に安堵の息を漏らした。まずは悟空が嬉しげに荷台から大きく身を乗り出して感嘆の声を上げる。
「やったー! 町だ町!」
 飯々、と己の欲望に忠実な反応を示す悟空に八戒がくすりと苦笑を浮かべた横で、案の定彼の保護者である最高僧が渋面をはっきりと浮かべてハリセンを飛ばした。途端、その動きに合わせてジープも激しく揺れる。
「じっとしてろ、このバカ猿っ!」
「痛っ! 何すんだよ三蔵っ!」
 間髪入れずに再び三蔵のハリセンが飛ぶのを真正面から受け止めて、悟空ははたかれたところを痛そうにさすりながら叫んだ。
 その様子を揶揄するように、それまで傍観していた悟浄も口を挟む。
「あーあ、コレだから小猿と坊主はヤだねぇ」
「猿っていうな! エロ河童!!」
「うるせぇよ河童!」
 ここが車上だということをすっかり忘れてしまったかのように、三人ともが好き勝手に暴れまくっている。
 さすがに運転する八戒のことなどおかまいなしに続けられるやりとりに、八戒はどうしたもんですかねぇと彼らに気づかれないよう、うっすらと微笑んだ。その笑顔を目の当たりにしたのなら、一瞬にして凍りついてしまいそうなほどの冷えた微笑。
 久しぶりの町が見えて、舞い上がる皆の気持ちも判らないでもないけれど。
「それとこれとは話が別、ですよねえ」
「……八戒?」
 おそるおそる、といった風にかけられた悟空の窺うような声音に、八戒は内心舌を出しつつも、困ったように肩をすくめた。胸中で呟いたつもりが、つい思ったことをそのまま声に出していたらしい。
 それならそれでと、八戒は前方へ顔を向けたまま、口許だけでほわんと微笑んだ。但し、目は笑っていない。
「町が見えて嬉しいのはよぉっく判りますけどね。だからといって、ジープの上で激しくじゃれ合うのはどうかと思いますよ。そーゆうコトは他所でやって下さい他所で」
 その言葉に、ぴたりと、三人ともが凍りついたようにそのまま固まる。
「…………じゃれ合う、って、ダレとダレが……」
 思い切り嫌そうに眉宇を寄せ、悟浄が背後から八戒の顔をそっと覗き込むように訊いてくる。それに八戒はさらに笑みを深めた。
「貴方たち三人に決まっているじゃないですか。他に誰かいます?」
「冗談っ! こんな生臭ボーズと猿とじゃれ合うなんざゴメン……おわっ!」
 悟浄が言い終わる前に、彼の横面を弾丸が掠めたのを瞬時に避ける。発砲者である三蔵は嫌悪感丸出しの面そのままに、再度悟浄へと銃口を向けた。
「俺だって、テメェとじゃれ合ってると思われるなんざ死んでもゴメンだ。――死ね」
 そして、荒野いっぱいに響き渡る数発の激しい銃音。それを器用に避けまくる悟浄の動きとあわせて、結局はその振動でまたもジープの車体は上下左右に揺さぶられる羽目になる。
 その揺れでハンドルが取られるのをなんとか抑えながら、八戒は仕方がないですねぇと心中で深く嘆息した。このままでは町にたどり着くまでこの調子で揺られ続けるのだろう。まったくをもって、いつものことではあるのだが。
 後ろでくり広げられている派手なじゃれ合いを尻目に、八戒はとにかく早く町を目指そうと、ぐっとアクセルを強く踏みしめた。
 その振動で三人の体が大きく揺れたのを目の端で捉えて、少しだけ趣旨返し出来たことに満足しつつ。





 実に十日ぶりに三蔵一行がたどり着いたこの町は、かなり大きな町だった。
 西域へ向かう主要街道の交易拠点のひとつであるらしいこの町はまだ日中ということもあり、どこもかしこも人で溢れていた。桃源郷の異変などここでは全く影響がないのか、妖怪の爪痕など微塵も感じさせない活気のある町並みに、悟空がもの珍しげにきょろきょろと辺りを見回しながら歩を進める。
「こんなでっかい町、久しぶりだよな!」
「そうですねぇ。これだけ大きな町なら買出しもしっかり出来そうですし。で、どうします三蔵?」
 とりあえず四人並んで道を歩いてはいるものの、この後の予定がはっきりと決まっているわけではなかった。いつも通りの八戒からの問い掛けに、三蔵はちらりと横目で八戒を流し見る。
「ジープの様子からして、一日は休ませたほうがいいんだろうが」
「さすがに十日以上走らせっぱなしでしたからね。また体調を崩して長く足止めをくらうよりは、ここに丸一日逗留して休んだほうがいいかとは思いますけど」
「ふ……ん。なら、出発は明後日の朝。とりあえず宿を見つけるのが先だ」
 これだけ人の出入りが激しい町なら宿の数自体は多いだろうが、早く見つけないと宿にありつけない可能性もある。
 三蔵の言葉に、八戒は小さく微笑んで、そっと自分の頬へ擦り寄ってくる白竜の長いたてがみを撫でつけた。
「判りました。……どうしたんです、悟空?」
 悟空の視線が不思議そうに一箇所に留まっていることに気づいて、八戒はふと声をかけた。悟空はちらりと八戒のほうを見てから、すっとその視線の先を指差す。
「アレアレ。あいつら、何?」
 悟空の言葉に、三人ともがそちらへと視線を向ける。
 ――その先にあったものはというと。
「へえ。大層な連中だな」
「あそこまで大所帯なのはめずらしいですね」
 自分たちだけで納得しあったような悟浄と八戒に、悟空は少し焦れたように口先を尖らせて八戒の掛け布の端をひっぱる。
「だから、なんなんだよ!?」
「あれは旅芸人の一座ですよ。ほら、僕らが旅を始めたばかりの頃、どこぞの町でクモ女さんたちが似たような格好をしていたでしょう? あれをもっと立派にしたようなもんですか」
 いかにもな派手派手しい衣装を身につけた総勢二十名はいるであろうその集団を見ながら、八戒が悟空に少しでも判りやすくと説明をする。確かに例のクモ女の一座よりははるかに人数も多いし、そこだけがはっきりと浮かび上がるような華やかさをかもし出しているようで、なかなかに目が離せない。
 これだけの大きな町ともなると、これだけの大所帯な旅芸人の一座が立ち寄ってもまったく不思議ではない。むしろ、こういう町こそが彼らにとっての稼ぎ場に違いないだろう。
「ふぅん。すげー服着てるから何かと思ったよ」
「アレをすげー服の一言で終わらせる辺りがまだまだお子様だね、小猿ちゃん」
 旅芸人だけあって、特に女性はそれなりに露出の激しい衣装を身につけており、悟浄は目の保養とばかりに目許を緩めていたのだが、悟空にかかると凄いだけで終わるらしいことにわざとらしく唇の端を上げてみせる。
「猿って言うなってんだろ、エロ河童エロ河童エロ河童!」
「ガキ猿チビ猿ノーミソ胃袋猿!」
 道のど真ん中でいつものどつき合いを始めた二人は放っておいて、八戒は眉間に大きく皺を寄せながら前方を歩いていた三蔵に追いつき、黙って彼のすぐ後ろについて歩いていく。
 と、その時。
「――」
 ふと、その一座の中にいたある人物とその腕に抱えていたものを目の端に捉えて、八戒はゆっくりと立ち止まった。
 華やかな集団の中に、ひっそりと咲く花のような簡素ないでたちの一人の女性。
 そして、彼女の腕の中にある、見事な造りの二胡。
 その姿に何故か興味を惹かれて、八戒はつ、と、視線をその女性へと向けた。
 齢の頃は十六・七であろうか。たおやかな風情でありながらも、意志の強そうな瞳ときつく引き結ばれた口許。腰の辺りまで伸ばされた漆黒の髪。
 周りが華美だからこそ、かえってひっそりと一人で佇む姿に目を引かれた。
 その腕に大事そうに抱えられている古い二胡もまた、彼女に一見そぐわないもののようで余計に気になったのだろうか。
 不意に、その女性が八戒のほうへと顔を向けた。途端、しっかりと目が合ってしまい、八戒は思わず息を呑む。
(――っ)
 視線が交錯したのは一瞬のこと。
 なのに、今、感じた鳥肌が立つほどの違和感は何だ?
 八戒の困惑をよそに、女は何事もなかったかのようにすぐに八戒から視線を外した。その様までしっかりと目で追ってしまった八戒の肩を誰かが掴んだのに、びくりと大きく体を震わせた。
「――おい、どーした八戒?」
「ご、じょう……」
 そこでようやく我に返った八戒は、ばつの悪い表情を浮かべて肩越しに覗き込む悟浄の顔を見つめ返す。
 どこか心配そうな視線を向けてくる悟浄に、八戒は苦笑ぎみに微笑んだ。この様子では、多分今の一部始終を悟浄に見られていたに違いない。
「いえ、なんでもないです。早く宿を見つけましょうね」
「ナンか見てなかった、今?」
 どうやら簡単には流してくれないらしい悟浄に内心ため息をつきつつ、八戒はそれを誤魔化すようにわざと曖昧な笑みを浮かべた。わざわざ何も悟浄に言うまでもないと思ったからだ。
 所詮、通りすがりの旅芸人の一人と一瞬だけ目が合った、ただそれだけのこと。
「僕も悟浄に習って、目の保養をしていただけですよ。綺麗なおねーさん、たくさんいましたし、ね」
「うわ、それマジで言ってんのお前」
 悟浄が少し焦ったように顔をしかめる。そんな彼の態度がおかしくて、つい八戒は肩を震わせた。くすくすと口許に小さく笑みを刷き、ちらりと自分の横に並んだ悟浄を見やる。
「マジ、ですよ。いいじゃないですか、目の保養くらい。悟浄と違って綺麗なおねーさんに声をかけたりはしませんから、僕」
 わざと含みのある言い方をすると、悟浄は深々とため息をつき、宙を仰いだ。
「さっきの悟空とのアレ、怒ってるワケ?」
「今さらでしょう。貴方たちのアレは。町中で目立つ行動は慎みましょうと、何度も言っているのになあと思っただけです」
「……ワリ。」
「判ればいいんですよ、判れば」
 しぶしぶ謝罪の言葉を口にする悟浄をかわいいなどと思いながらも、うまく話題を逸らせたことに安堵して、八戒はようやく柔らかな笑みを浮かべた。その、刹那。
「……――、」
 不意に八戒の背中に強い視線――しかも、ついさっき彼女と視線が交錯した時に痛いほど感じた、引き込まれそうなほどの強い思いが突き刺さった感覚に、八戒ははじかれたように振り返った。
 だが、そこにはいる、と思った彼女の姿もなければ、件の旅の一座の姿すらなかった。八戒は怪訝そうに柳眉をひそめる。
ならば、今のは、いったい――?
「八戒?」
 一瞬にして意識を別のところへ飛ばしてしまった八戒を引き戻したのは、またしても悟浄の訝しげに自分の名を呼ぶ声だった。その固い声音でまたも我に返った八戒は、さすがに今度は誤魔化しきれないかと、微苦笑する。
「ああ、すみません。いきなり視線を感じたもので、つい」
「視線、ねぇ……。ナンか心当たりでもあンの?」
「……いえ、特には。あ、三蔵に置いていかれてますよ僕たち」
 悟浄の胡乱な視線をさらりとかわしつつ、八戒はかなり前を歩く三蔵たちに追いつこうと、わざと歩を早めた。
 言うだけ無駄と思ったのか、悟浄はそれ以上何も言わないで八戒の後を黙って着いてくる。
(今の視線も、たまたま通りすがりの誰かが偶然向けてきただけかもしれないし)
 八戒はそう結論づけると、まるで背中に突き刺さったまま離れない視線の残像を振り切るように前方を見据えた。
 そうだ。

 気に、しなければいい。

 自分に言い聞かせるように、何度も何度も八戒はその言葉を脳裏に反芻した。








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