なごり雪




   5





「行きたいトコで、どっか希望ある?」
 カットの最中に唐突に話しかけられ、八戒はかすかに目を瞬かせた。
 鏡越しに正面から目があう。悟浄は視線で相槌をうった。
「……行きたいところって、つまり例の夏休みに出掛けようって話の、ですよね?」
 八戒は表情を変えないまま、ことさらゆったりとした口調で問うた。
 その間も仕事の手はまったく休めないで、悟浄は軽快な鋏使いを披露しながら、にやりと口の端をあげる。
「それ以外にナニがあるっつーの」
「ですよねえ」
 あいかわらず天然だかどうなのかわかりかねる返答をする八戒に対し、悟浄はわかりやすく微苦笑を浮かべる。
 八月に入ってようやく高校も夏休みを迎えたものの、教師である八戒は、すぐに休みがとれるはずもなかった。あいかわらず、終日部活動の顧問と雑事をこなした後、今回も仕事帰りに悟浄の店を訪れた。
 あらかじめ予約しておいた時間にあわせて来店した八戒を、悟浄は営業用の笑顔で出迎えた。
 ただ、――その笑みに、一瞬、なぜか違和感を覚えた。
 それはほんのわずかな齟齬でしかない。
 見た目はいつもと同じ笑顔だ。
 それなのに、どことなくぎこちなさを感じるのは、八戒の気のせいなのか。
 鏡の向こうで作業を続ける悟浄をさりげなく盗み見る。
 表面上は、いつもとなんら変わりのない彼。
 ――やはりおのれの考えすぎなのだ。そう結論づけた八戒は、そんな自分自身に対してこっそり失笑した。
「僕はどこでもかまいませんよ。今のところ、観光らしい観光もしていませんし」
 ややあって悟浄からの質問に答えれば、紅瞳がわずかに見開かれた。
「マジで? あいかわらず忙しくしてるンだな」
「それもありますし……。第一、ひとりで観光に行く気にもなれなくて」
 八戒はそっと目を伏せる。
 彼の言う通り、仕事が忙しくてまとまった時間がなかなか取れないこともあるけれど、かといって、休日にわざわざひとりで遠出をする気分にはなれなかった。
 今回の件にしても、悟浄からの誘いだったから受けたようなものなのだ。
 それもあって、八戒にしてみれば、本当にどこでもよかった。ただ、口にした後で、やる気がないと思われて彼の不興を買いかねないと内心で冷やりとする。
 だが、それは八戒の杞憂だったらしい。悟浄は同情を滲ませながら小さく苦笑した。
「ま、そりゃ、そーだよな。じゃあ、せっかくだし、俺サマに御任せコースってコトでど?」
 そのほうが八戒にとってはありがたかった。悟浄からの提案をいちもにもなく快諾する。
「ええ、ぜひともお願いします」
「オッケー。それなら、俺が車も出すし。また時間とか連絡するな」
 切り終えた八戒の髪を整髪剤でセットしながら、鏡越しに悟浄が笑う。
 いつもの彼の笑顔に見えるが――やはり、なぜかほんの少しだけ引っ掛かる。
 その微妙な違和感の原因が最後までわからないまま、八戒は彼の店を後にした。
 とはいえ、八戒を避けているとか、そういう違和感ではないから、あまり気にしないほうがいいのだろう。
 たまたま、悟浄の調子が悪かったとか、八戒の与り知らないプライベートで何かがあったとか、そういうことなのだ、きっと。
 車で自宅に帰る道すがら、八戒は無理やりひとりで納得した。
 八戒を厭う気持ちからくるものならば、先だっての約束――互いの休みが重なる日に出掛ける予定――を反故にするのもありだろうから、そういうことではないはずだ。
 ふいに――なんとかして、自分が原因でない理由を探していることに気づき、八戒は愕然とした。
 運転中だというのに、一瞬にして頭から血の気が引く。ハンドルを持つ手が思わず震えた。
 唐突に、いかにおのれの懐奥まで、彼の存在をゆるしてしまっているのかを自覚して、さらに茫然とする。


 ――どうしよう、と。
 ショックのあまり、すっかり冷たくなってしまった指先になんとか力を入れて、ハンドルを握り直す。
 八戒は口許をゆがめ、ゆるゆるとため息を洩らした。
 このまま悟浄を受け入れてもいいのかどうか、きちんと正面から向きあわなければならないのか。
 そう――“今後の自分自身のため”にも。
 そのことに突然気づかされ、八戒は苦しそうに眉宇をひそめる。


 ――気づかなければよかった。
 八戒はひどい後悔の念にかられた。
 そうしたら、こんな苦しさも知らなかったはず。なのに――
 胸奥からこみあげるせつない痛みをこらえるように、八戒はぎゅっと下唇を噛みしめた。



 ※  ※  ※



 悟浄の店を訪れてから十日後、初めて彼と休日が重なったその日。
 当初の予定通り、八戒は悟浄とともに、彼の運転で朝から出掛けることになった。行き先を訊いても、悟浄はニヤニヤと笑いながら「ナイショ」としか答えないので、おとなしく彼の思惑につきあおうと腹を決める。
「――もっと派手な車を想像していましたよ」 
 全開の車窓から入る風が心地よい。八戒は助手席に座り、意外そうにつぶやいた。
「ナニ? いったいどんなのを想像してたんだよ?」
 軽快なハンドル捌きで、悟浄は興味深々とばかりに口の端をあげる。
 彼の、職場で見るよりもずっと気安い態度に、八戒の表情も自然とやわらいだものになる。
 自分が彼の前で自然に微笑んでいる自覚はないまま、八戒はちらりと隣の男を見やった。
 綿シャツにタンクトップ、ビンテージのジーンズにサングラスをかけているその姿は、確かに同性の八戒から見てもかなり格好いいと思う。やはり、かなり女性にもてるんだろうな、と八戒はぼんやりと思った。
「だって……貴方のことだから、もっとこうスポーツ系の車を選ぶかなぁ、と」
「真っ赤なセリカとか?」
「ははは……ま、まあ」
 八戒が連想していたそのままの車種を言い当てられ、気まずげに笑ってごまかす。
 実際、いま乗っている悟浄の車は、ワゴン車タイプだ。国産トップメーカーの一番メジャーなタイプで、どちらかというとファミリータイプだろう。
 乗用車にはうとい八戒でも知っている車種で、だからこそ意外だったのだが。
「ま、よく言われるけどな。ただ、コッチって、雪降ったときのコトを一番に考えとかないとマズイからさ。馬力と機動性重視ってワケ」
 マジで半端じゃねえから、と苦笑まじりで言われ、八戒も苦笑いで返した。
「なるほど。そんなに凄いんですか、雪」
「ああ、都会人のお前からしたらスゴイなんてレベルじゃないと思うぜ? いまから覚悟しといたほうがいいかもよ?」
 愉しげに口にする内容でもないと思うのだが、悟浄はどこか愉しそうだった。雪に対する八戒の反応が新鮮なのだろう。
 楽しみにしていたくせに、彼とふたりきりで遠出することに幾分気の重さを感じていただけに、こうした軽口の叩きあいに安堵する。
 それに、悟浄からも、先日の来店時に感じたかすかな違和感は見られないような気がした。その事実が、八戒の心持ちを軽くする。
「そうですね。せいぜい、いまから覚悟しておきますよ……で、結局いつになったら目的地に着くんですか?」
 かれこれ一時間近くは車を走らせただろうか。それまで広大な牧草地や畑しか見えなかった景色が、少しだけ変化したように思う。
 その疑問をそのまま口にのせれば、悟浄は軽く相槌をうった。
「ああ、もうかなり近くまで来てるな。……行き先、わかった?」
「……もしかして、海、ですか?」
 前方になんとなく見えた光景に、八戒はおそるおそる尋ねた。
「ビンゴ。いちおう、この辺で有名な観光地のひとつだな。あと五分も走らせたら、イイ場所に着くからさ」
「イイ場所、って?」
「観光客も知らない絶景ポイント」
 にやり、と悟浄が得意げに笑う。
 その笑みをまぶしそうに見つめ、八戒は身の置き場がない心地に内心で狼狽しつつも苦笑してみせた。
「それは……期待、しておきましょうか」
「おぉ。楽しみにしといて」
 その声音は心なしか弾んでいるようだ。
 まるで少年がはしゃいでいるようにもとれるその雰囲気に、八戒はこっそりと苦笑を深めるしかなかった。


 悟浄の言う通り、ふたりがたどり着いた先は海――もっと端的に言えば特殊な地形をした小さな半島の一部だった。この辺りでは割と有名な観光地らしい。道の途中にそうした案内板もいくつか見かけた。
 だが、彼が豪語していた通り、この周囲にひと気はなく、八戒たちだけしかいない。
 そこは小高い丘になっていて、その終点辺りを囲むように、胸の丈くらいまでの金属製の柵でぐるりと覆っていた。柵の向こう側に広がるのは深い蒼色の大海と、そのさらに向こう側にぼんやりと陸地のような景色が浮かんでいた。
 八戒は柵の前に立ち、その遠景をしっかりと眺めた。
「すごい――」
 意外と海風がきつい。
 時折吹く強風を、右腕をかざすことで避けながら、八戒は感嘆の息をこぼした。
 八戒の隣に並び立ち、悟浄もサングラスをはずして左手を瞼の上でかざした。
「絶景だろ?」
 それはまさに一八〇度の大パノラマだった。一面に広がる海の壮大さに八戒は我を忘れて見入っていた。
「――ええ、とっても」
 きつい潮風が心地よいなんて初めて知った。
 八戒は満足げに微笑み、さらに遠方を見るべく目を細めた。
「ここはオホーツク海……ですか?」
「理系教師だと、地理はあんま詳しくねぇ?」
「ええ、まあ。……ってことは違うんですね」
 ちらり、と、横にいる悟浄へとうかがうような視線を送る。
 悟浄は小さく肩をすくめた。
「ここは根室海峡だな。で、あっちに見える陸みたいなのが北方領土ってヤツ」
「ああ――」
 ここでようやく、八戒の中で地理上の位置関係がはっきりした。
 得心がいったとばかりに、口許をゆるめる。
「僕、関東でもこんなに大きな海や島って見たことなかったんで……本当に凄い、ですね」
「まあなんでもスケールが大きいのが北海道の売りだかンな」
 わずかに唇端をあげて、悟浄はおもむろにハイライトを咥えた。
 その仕種がまた、妙にはまっている。一瞬でも見惚れた八戒は、あわてて視線をはずした。
 そして、再度前方を仰ぐ。
 鉄製の柵の向こう――ほんのわずか数メートル先は行き止まりになっていた。その下は断崖絶壁で、完全な立ち入り禁止区域になっている。
 実際、見事な景観だが、観光地にするにはいささか危険な地形ともいえた。だからこそ、地元の人間しか知らないのだろう。こんな素晴らしい景色を悟浄とふたりだけで独占できるのは、確かに贅沢なことだとは思う。
 八戒は、おのれの胸元にある柵の上側をぎゅっと握りしめた。
 大人なら簡単に乗り越えられる程度の高さ。
 たとえば――このままこの柵を乗り越えたら。
 あの高さの崖から足を踏みはずそうものなら、そのまま海に転落してお終いだろう。
 普通なら、そこでまず恐怖心が先立つものだ。その先のことなど考えもしないだろう。
 だが――
 八戒はぼんやりと前方を注視して、柵の向こうの絶壁に思いをはせる。
 もしもいま、このままこの柵を乗り越え、あの向こう側へと足を向けたなら。
 “彼女”と再び、あいまみえることができるだろうか――
 それは甘美な誘惑だった。八戒はさらにぐっと、柵を掴む手に力をこめる。

 そうだ、このまま身をひるがえせば、彼女のもとへ――

 その、刹那。
「――ッ!」
 ふいに、背後からきつく――驚くほどきつく抱きしめられた。
 あまりにも突然のことに、八戒はその姿勢のまま固まってしまう。
(……いったい、これは――)
 頭が混乱していて、状況がすぐには理解できない。八戒は大きく息をつめたまま瞠目した。
 ふと鼻腔をくすぐった苦い香。それがハイライトの匂いだと気づき、ようやく自分は悟浄に抱きしめられているのだと認識する。
 そこでようやく現状を理解した。
 だが、それでも、なぜこういうこと――悟浄がおのれをきつく抱擁している――になっているのかまるでわからなかった。
 八戒は漸う、小さく身じろぎをした。すると、八戒を後ろから拘束していた悟浄の腕の力がさらに強くなる。うすい胸元を後ろから回ったたくましい双腕でかなりきつく抱きすくめられ、八戒は思わず息をつまらせた。
 ――苦しかった。
 彼の抱擁がとてもとても苦しくて、八戒はせつなげに痩躯をよじった。
 それでも、悟浄の腕はそのままだ。
 いっこうに解く気配のないことにさらなる息苦しさを感じて、八戒は長いため息を洩らした。
「悟、浄……っ」
「……もう少し、このままで……いさせてくれよ」
 懇願する響き。彼の声は低くかすれていた。
 その声音はいままで聞いたことがないほど、ひどく痛々しげな――それでいてせつない響きのものだった。どきりと、八戒の胸が大きく跳ねあがる。聞いているほうが痛く感じるほどのせつなさに、胸奥を鷲掴みにされた心地がした。
 ――どうして。
 八戒はますます混乱した。いつの間にか、八戒の胸中は、彼女ではなく悟浄でいっぱいになっていた。
 悟浄のそれは、ただの友人に対するものとはあきらかに違っていた。だが、恋人同士に対する甘やかなものや、性的なものともまた異なっていた。
 それよりも、もっともっと、深い感情がこめられた抱擁に思えた。
 それは、八戒の心をどうしようもなく震わせた。だからこそ、どうしていいのかわからなかった。わからないから、どうすることもできなくて。
 そのまま、彼の顔が伏せられ、おのれの肩口あたりに埋まった。そこから感じた悟浄の体温に、知らず息がつまる。心臓がひどく早鐘をうっていた。それでもどうすることもできない。全身が熱くなって、呼吸も苦しくなる。
「――」
 なんの言葉も発しない八戒を、悟浄はさらにぎゅうと、逃がさないと云わんばかりに強く強く抱きしめてくる。
 彼の腕を甘受したまま、八戒は茫然と、ただその場に立ちつくすことしかできなかった。








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