なごり雪




   3





 予定していた時間より三十分ほどすぎて、ようやく今日の仕事もあがりとなった八戒は、職員室を出るなり鞄から携帯電話を取り出した。
 見れば、メールの着信ランプが点っている。
 八戒は足早に駐車場へと歩きながら、携帯メールを確認する。
 果たして、その送り主は悟浄そのひとだった。確か、今日は彼の店が休業日だから、大方呑みの誘いなのだろう。先月末に初めて彼と酒を呑み交わしてから、悟浄のほうから折りにつけて八戒を呑みに誘うようになった。八戒も彼とならかまわないと思ったので、都合がつけばその誘いにのるようになり、このひと月の間で何回か酒の席をともにした。
 そして案の定、メールの内容は、時間があるなら今晩ビアガーデンに呑みにいこうとあった。あまりにも予想通りの展開に、八戒は思わず笑みをこぼす。
 今日は部活動につきあって結構な汗もかいたし、悟浄とならビールを呑みまくるのも悪くはない。
 八戒は口許にやわらかな笑みをたたえたまま、諾と返信するために携帯メールを打ち始めた。


 北海道のように冬の寒さが厳しく雪深い地域では、温暖な地域の学校と異なり、夏休みの期間は短く、その分冬休みを長くしている学校がほとんどである。もちろん、秋の終わりから早くも積雪が見られるこの地域でも、当然夏休みのほうが短い。
 七月に入って、この地方でも一気に気温があがり、体感温度は関東の夏と変わらなかった。
 ただ、この夏らしい暑さも、あっという間にすぎるという。そのせいだろうか。ここの高校の教師や生徒たちの間に、あの夏休み前特有の浮き足立った感はまったく見られなかった。
 八戒だけが、今までの経験から、ほんの少しそわそわしているだけのようである。それには、こっそりと苦笑するしかない。
 今までなら七月下旬ともなれば夏休みに入り、通常の授業をすることはなかった。だから、この時節にこうしてまだ普通に教壇に立って授業をしたり、放課後に部活の監督をしたりしているサイクルに慣れなくて、なんとも不思議な気さえしてくる。
 短い夏休みの始まりまで、あと一週間ばかり。もちろん、授業はなくとも部活動があるから丸々休暇というわけにはいかないが、それでもここ北海道に来てから初めて、まとまった休みがとれる。
 ――いったん、東京に帰るべきなのだろうか。
 最近は、春の頃より幾分明るさをとり戻しつつあった八戒の相貌に、うすい翳がおちる。
 いっそ踏ん切りがつくまでは、帰らないほうがいいのかもしれない。かといって、まったくの放置もよくはないだろう。せめて、お盆にあわせて訪ねたほうがいいのだろうが。
 それでも、気持ちが動かない。
 わかってはいるが、しかし――
 自分の車までたどりついたところで、憂いを帯びた表情のまま、八戒はのろのろと運転席に乗り込んだ。胸中で何度も、だれにともなく言い訳をくり返しながら、いったん車を置きに自宅へと向かう。
 せめて、この後に悟浄と会うまでには、気持ちを落ち着かせないと、とおのれに言い聞かせて。



 ※  ※  ※



 悟浄が指定してきたビアガーデンは、この町で唯一の大型スーパーマーケット――といっても、都会のそれに比べたらかなり規模は小さいが――の屋上で開かれているものだった。
 この町で一番大きく、かつ繁華街に位置していることもあり、店内はかなり盛況だった。その一角の席に、ひときわ目立ついでたちで待っていたのが悟浄だった。
 八戒の姿を見つけるやいなや、気づきやすいようにだろう、大きく左腕をあげる。真っ黒のサングラスにアロハシャツとかなり派手な格好を目にした途端、八戒は困ったように視線を泳がせるしかなかった。
 これが似合っているのだから、始末におえない。
 八戒は仕事帰りのままここに来たから、半そでのカッターシャツにきちんとネクタイもしめたスラックス姿。なのに、悟浄がああも派手派手しいとなると、同席することに少々気恥ずかしさを覚える。
「――お疲れサン」
 それでも、八戒は恥ずかしそうに軽く頬を朱に染めながらも、悟浄のもとに向かった。そして、八戒がすぐそばまで来たところで、悟浄は楽しげに笑いながら声をかけた。
「……こんばんは」
 八戒は彼の向かいに座り、ちらりと見やる。
 目があうと、悟浄はますます笑みを深くした。
「いきなり悪かったな。都合、よかったのか?」
「それは大丈夫ですけど。……あ、ジョッキ生ひとつで」
 すかさずオーダーに来た店員に注文を通し、八戒は悟浄と向きあった。
「や、ナンか、怒ったりする?」
 八戒が口許を引き結んでいるから怒っているように見えるのだろう。顔色をうかがうように神妙に訊いてくる彼に、八戒のほうが根負けした。
「怒ってませんよ。ただ、呆れただけです」
「ナニが」
「貴方のその格好に、ですよ」
 八戒の言葉に、悟浄はおや、と器用に片眉をあげた。ふいに、にやりと唇をつりあげる。
 その笑みに、どきりとした。八戒は思わず息を飲み込む。
「――イイ男だろ?」
「そういう台詞は、女性相手に言ってください」
 焦る自分に気づかれないよう、八戒はさらりと視線をそらして、ちょうど運ばれてきた生ビールのジョッキを受け取った。なみなみと注がれたジョッキから白い泡が流れ落ちて、八戒の手を濡らした。
「……まずは、乾杯な」
 悟浄もビアジョッキを手にして、八戒へと掲げた。
 乾杯、と互いにジョッキの縁をあわせてから、ビールをあおる。
 ちょうどいい加減に渇いていたから、冷えたビールの喉越しがたまらない。ふたりとも一気に半分ほど呑みほして、盛大に一息ついた。
「――仕方ねぇじゃん。コレが俺の夏の普段着だし?」
 コレ、とサングラスを外しながら、悟浄はおどけたふうに自分のシャツをつまむ。八戒は微苦笑を浮かべると、大人げなかった自分の態度を少し反省した。
「……すみません。それこそ貴方の自由なのに、口出ししてしまって」
 まさか謝られるとは思っていなかったのか、悟浄は一瞬、紅眼を丸くした。
 決まり悪げに、軽く舌打ちする。
「や、そこで謝んなくてもイイって。俺もちっとばっかり気ィ抜きすぎたし。――ま、もうあとは気にせず呑も呑も。八戒、ビールもいけるクチだろ?」
 この話題は終わりとばかりに、悟浄はことさら明るい口調で次のオーダーを通す。
 彼の気遣いをありがたく思いつつ、八戒はそっと息を吐いた。
 せっかく、悟浄が誘ってくれたというのに、こんなことで気まずくなってはそれこそ申し訳ない。
 気をとりなおして、八戒もようやく、やわらかな笑みを浮かべた。そして、メニュー表を見ながら豪語する。
「僕にとって、ビールは麦茶みたいなもんです」
「――言うねえ、お前」
「褒め言葉と受け取っておきますよ」
 心底感心したふうの悟浄の声音に、八戒も苦笑を深めるしかなかった。


 もともと、八戒は、あまり人つきあいは得意ではない。
 だれにでも当たりさわりのない笑顔でそつなく接するから誤解されがちだが、八戒自身は、他人と懇意につきあうこと自体が苦手だった。だから、学生時代を通じて、友人と呼べる存在もほとんどいない。唯一の例外が玄奘三蔵ぐらいで、あとは、必要にかられて仕方なくつきあうといった程度。
 それなのに、まだ出会って三ヶ月しかたっていないというのに、悟浄とふたりでこうして親身に酒を呑み交わしている。そのことが、自分でも意外に思えた。
 こんなふうにだれかと差し向かいで何回もつきあったことなど、三蔵と――あとは彼女、くらい。
 そんな自分が、訪れたばかりの町で、知りあったばかりの彼――悟浄と、すでに何回か会っている。しかも、悟浄とこうして会って、話をしたり酒を呑んだりすることを楽しいとさえ思っている。悟浄とはなぜだか最初から会話に困ることもなかった。同い歳という気安さもあったのかもしれない。それでも、他の人間とは、まず長時間会話が成り立たないのが常だったから、ますます意外だった。
 つまり、それだけ、悟浄のそばは心地よかった。
 この北の地に来た当初から心にかかえている重すぎる鬱屈も、彼とともにいるときには忘れていられるほどに。
 ――どうして“彼”なのだろう?
 ビールを片手に、悟浄とたわいもない会話を続けながら、八戒はぼんやりと思う。
 どうして、悟浄となら、こうしていっしょにいることを楽しいと――何よりうれしいと、思えるのだろう。八戒はそんな自分の気持ちが一番不可解だった。こういった気持ちは、彼女を失くしてからはもう二度ともつことはないと、そう思っていた。
 なのに、悟浄といると、暗く沈みこんでいたはずの心が動く。
 まるで、凍てついていた氷が、その熱さでもってじんわりと融かされていくかのごとく――
「――八戒?」
 ふいに呼びかけられて、八戒ははっと我に返った。
 見れば、怪訝そうに、悟浄がおのれの様子をうかがっている。八戒はばつが悪げに、内心でこっそりりとため息を洩らした。どうやら考え事がいきすぎていたらしい。
「ああ、なんです悟浄」
 八戒はあわてていらえを返すと、ジョッキの底にわずかに残っていたビールを呑みほした。ドン、と勢いづけて空の器をテーブルに置く。
 悟浄はそのさまをじっと見つめていたが、ふと口を開いた。
「だから、夏休みっていつ、って」
「……夏休み?」
 八戒はきょとんと、緑瞳をしばたかせた。
 いまさら、彼はなにを訊いているのだろう。高校の夏休みなどわざわざ訊かなくても知っているだろうに。八戒は胡乱な表情もそのままに、さらに続けた。
「そんなの、来月の初めからお盆明けまでに決まってるでしょう。もう忘れちゃったんですか、貴方?」
「ちげーよっ。高校の夏休みなんざ、覚えてるっつーの! 俺が訊いてんのは八戒の夏休みだよっ」
 悟浄は必死で弁明するように言い募った。
 彼の言葉の内容を理解した途端、八戒は思わず瞠目する。
「は? 僕ですか?」
「そ。夏休み中、全部ってワケにはいかないんだろうけど、先生も何日かは休みなんだろ?」
「はぁ、ま、まあ……」
 まさか自分の話題をふられていたとは思わなかった。
 八戒はますますばつが悪そうにつぶやく。
「……確か、土日以外で、お盆前に四日ほどまとまってもらえそうですかね」
 部活の道大会が終わるまでは、どのみち八戒に休みはない。それが盆前に終わるから、その後に少しだけ連続休暇をもらえることにはなっていた。八戒にとって、唯一の夏休み期間である。
「ふーん。その間、ナンか予定有り?」
「いえ。……今のところは、特には」
 ――一応、東京に帰るべきかどうか、まだ結論を出してはいないから。
 八戒は内心で深々と嘆息しなから、追加で運ばれてきたビールを気だるげに呑んだ。せっかく悟浄と会っていたことで一時的に頭の隅に追いやっていたことを思い出し、ふいに気分が沈む。
 悟浄は、ちらりと軽く上目遣いに八戒を見やった。おもむろに煙草を取り出し、慣れた仕種で唇に銜える。
「ならさ、俺の休みと重なる日にさ、どっか行かねえ?」
「…………え?」
 すぐにはなにの話をしているのが理解できなくて、八戒は間の抜けた声をあげた。
 どこかに行く、とは、つまり。
「……それって……僕と悟浄で、ってことですか?」
「……他にナンかある?」
 八戒ってかなり天然?と、わかりやすく苦笑いを浮かべる悟浄を、八戒は呆然と見つめた。
 ――どうしてなのだろう。
 その時、八戒の胸裏に浮かんだのはひとつの疑問。
 その疑問は、初めて呑みに誘われた時から、八戒の胸に引っかかり続けていた。それは、彼と会う機会が増えるごとにしだいに大きくなっていたのだけれど、あえて気に留めないようにしていた。
 そう、なぜ――悟浄はこうして、ことあるごとに八戒に声をかけるのか。彼のような地元の人間が、わざわざ他所から来た男にこうも気をかけてくれるのか、八戒にはさっぱりわからなかった。
 それでも、嫌なら八戒のほうから断ればいい。それでも、結局悟浄と会うことを選択しているのは他ならぬ八戒のほうだ。だからこそ、余計に疑問だったのだ。
 深い緑色の双眸が、自分でも説明のつかない感情でゆれている。
 すでに、友人――ならば、ここまで悩んだりはしないだろう。悟浄と自分の関係はまだそこまで親身ではないと思う。出会って数ヶ月目にしては随分と気安い間柄になったとは思うが、まだ知り合いの範疇だと思うのだ。
 しかし、彼とのすすんだ関係を言葉にあらわすとして、友人というスタンスに、なぜが違和感を覚えた。自然にそう思えなかったおのれに、八戒は内心でかなり狼狽した。
 自分は悟浄になにを期待しているのか、ますますわからなくなる。
 すっかり黙りこくってしまった八戒に、悟浄もどう対処していいか、思いあぐねているようだった。「あー」とか「うー」などとうめいていたかと思うと、苛々とした動作で煙草の先を灰皿にグリグリと押しつける。
「――メーワクなら、別に、」
「……どうして、ですか?」
 ふいに八戒は口を開いた。
 口許にあわい笑みを刷いて、ひっそりとつぶやく。
「ナニ、が?」
「どうして悟浄は、僕に声をかけてくれるのかなって」
「どうして、って言われてもな……」
 八戒の問いかけに、悟浄はあきらかに困窮していた。それもそうだろう。同性を友人感覚で気軽に誘ったつもりが、こんなふうに追究するように訊かれては、普通ならまず引かれるに違いない。
 悟浄は、ふと、大仰にため息を洩らした。とまどうような紅の双眸が、じっと八戒を見据える。
「そりゃ……会いたいから、かな」
「――」
 思いがけない悟浄の言葉に、八戒は目を瞠った。
 どこか言いあぐねるような口ぶりで、悟浄は再度息を吐き出す。
「なんてーの、八戒と会ってたら楽しいってか新鮮ってゆーか、その……」
 だから、と照れたように目許を赤く染めながら、悟浄はがりがりと自らの紅髪を掻き乱した。
「だーっ! こーゆうの苦手なんだっつのっ、ったく!」
「……悟浄」
「ガキじゃあるまいし、こーゆうの口にすんの恥ずいじゃん! ……わかれよ、もう」
 八戒から目をそらしつつ、悟浄は口先をとがらせた。まるで拗ねているような態度。いつもどこか余裕すら感じさせていた彼のあわてぶりに、八戒はひどく微笑ましい気持ちになった。同世代のひとを前にして、こんな気持ちにさせられたのは初めてだった。
「……すみません、悟浄。そして……ありがとうございます」
「へ?」
「正直に答えてくれてありがとうございます、悟浄。貴方のような地元のひとが、どうして僕なんかにつきあってくれるのか、ずっと不思議だったんです。その……今まで、三蔵以外のだれかと懇意につきあうこともなかったし、だれからも声をかけられることもなかったので」
「……そうなの? 八戒なら、だれでも声をかけたいと思うんじゃねえ?」
 八戒はうつむき加減で、うっすらと自嘲した。そんなこと、今まで言われたこともなかった。
「全然そんなことはないですよ。近寄りがたいとしか、言われたことはないですし」
「へえ、……マジで意外」
 悟浄の表情が、ここにきてようやく晴れてきた。彼はふたたび煙草に火を灯して口に銜えた。
 なんとか一時流れていた気まずい雰囲気が払拭できたところで、八戒は漸う、つめていた息をそっと吐き出した。そして、そういえば悟浄の誘いの返事をまだきちんとしていなかったことに気づき、口を開こうとした、その時。
「なんか……もったいないよな」
 ゆったりと紫煙を吐き出しながら、悟浄がしみじみとつぶやく。
「なにがです?」
「だって、――こんなにキレイなのにさ」
 ちらりと、八戒の顔を見つめながら、悟浄は意味深に笑った。その、なんともいえない微妙な笑みに、八戒は思わず息を飲む。

 ――どうして、こんな顔で、こんなことを言うのだろう。

 ふいに、八戒の胸奥に、つきりとしたにぶい痛みが走った。そこからじわじわと息苦しくなって、どうにも胸がつまる。
 だが、その理由(わけ)を考えるのも知るのもこわかった。だから、八戒はおのれの胸のうちにこごるそれを打ち払うように、悟浄へと微笑みかける。
「――男にそんなこと言っても褒め言葉にはなりませんよ?」
「ははっ、そーいや、そーか」
 悟浄はわずかに唇端をあげて、くく、と喉を鳴らした。どこか自嘲ぎみのそれに、ふたたび八戒の胸がちりりと痛む。
 悟浄の言動よりも、おのれの心情のほうがよっぽど不可解だった。



 ※  ※  ※



 結局、八戒の夏休みのうち、彼の休みと重なる日に悟浄と会う約束をして、その日は別れた。
 街灯がほとんどない、閑散とした夜道を歩いて帰宅しながら、八戒はおもむろに夜空を見あげる。
 東京の街中では決して見ることのできない、三六〇度の絶景パノラマだ。
 しかも、今晩は晴れた新月だからか、満天の星々が空いっぱいに煌めいている。それはまるで、今にも降ってきそうなほどの見事な星空だった。
 ――これで、夏休みに東京に帰るという選択肢はなくなった。
 そのことにどこか安堵している自分と、その結果“彼女”には心底申し訳ないと思うふたりの自分が、胸中でせめぎあっている。
 そして、なによりも。
(――悟浄……)
 どうして、彼はおのれに「会いたい」と思ってくれるのか。
 その理由を訊くことも考えることも、今の八戒にはこわかった。そこでなぜ「こわい」と思うのか、その理由さえも考えたくはなかった。
 しかし、八戒自身もまた、悟浄に会いたいと思っている。悟浄と会うのは楽しい。そして、彼に誘われることも、彼と会えることもうれしいと思っている。
 だが、そう思っていることを自覚すると、こわくなるのだ。なぜかはわからない。けれど、いてもたってもいられないほどにこわくなる。
 まばゆい星空を見つめたまま、八戒は深々と嘆息した。
 このままでは、自分にとっても、彼女にとっても、そして悟浄にとってもよくはないのだろうけど、今はこれ以上深く考えたくはなかった。

 けれども――考えれば考えるほど、胸奥の苦しさは増すばかりだった。








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