なごり雪




   4





 週の半ばで平日の夕方ともなると、予約でも入っていない限り、悟浄が経営するヘアーサロンは、ほぼ開店休業状態に近かった。
 そしてこの日の夕方も、来店者はいなかったから、悟浄はカウンターに立ったままぼんやりとしていた。
 八月に入り、本格的な夏を迎え、外気温もそれなりに上がってきたから、動けばそれなりに暑くなる。この地では、ほんのひと月ほどの夏場のためにわざわざ冷房器具を設置したりはしないから――その分、極寒の長い冬に備えて暖房器具はしっかり完備している――、仕事以外ではあまり動きまわりたくないというのが本音だった。
 時間的にも当日予約は入りそうにないし、今日も閉店時間がきたらさっさと帰途につこうと、悟浄がレジの精算を始めようとしたときだった。
 目にも鮮やかな金色をまとう青年が、仏頂面で入店してきた。
 突然の来訪者に、悟浄はちっと内心で舌打ちする。せっかく今日は早々に帰れると思っていたのに、金色の青年――三蔵の来訪で、その思惑がはずれてしまった。
 だが、彼の突然の来店は、今に始まったことではなかった。多忙を極める彼は、そのわずかな時間の合間をぬって、悟浄の店まで散髪に来るようにしている。つまり毎回、時間ができたら来店するというスタンスをとっているため、三蔵が事前に予約を入れることはまずなかった。
 悟浄もそのあたりの事情は承知しているから、三蔵が飛び込みで来店しても別段驚きはしない。今回はたまたま仕事をする気が殺がれていたところに彼が訪れたから、気分的にがっかりしただけだ。
 しかし、これも仕事を割り切って、悟浄は胸中で諦めのため息をこぼしつつ、三蔵へと視線を向けた。
「いらっしゃいマセ」
 顔見知りの気安さから、なれなれしい口調で挨拶する悟浄をじろりと一瞥し、三蔵はまっすぐに腕を伸ばして、手にしていた大きな革鞄を悟浄の前に差し出した。
「――いつものヤツだ」
「へえへえ、かしこまりました」
 客とはいえ三蔵もまた、勝手知ったるとばかりに、どこまでも不遜な態度を崩さない。
 悟浄は目の前に突き出されたそれを受け取り、慣れた所作で棚にしまいこむと、美容師の顔で三蔵に向き直った。
「――さて。じゃ、いつも通り、シャンプー・カットで、ね」
 念のために口にして確認すれば、三蔵はその通りだと云わんばかりに、ふんと鼻を鳴らした。
 彼らしい返事に内心で苦笑しつつ、悟浄は仕事を開始するべく、三蔵を案内することから始めた。


 幼なじみで顔見知りとはいえ、三蔵の金髪をカットするときは、互いに終始無言であることがほとんどだった。それは、三蔵が、そういったたわいもないおしゃべりを好まない性質であることを悟浄も重々承知しているからである。たいてい、悟浄が口を開けば、最悪の場合、口論まがいのやりとりに発展することも間々ある話で、仕事中にそれは避けたほうがいいだろうという賢明な判断からだった。
 今日も、三蔵が雑誌を読んでいるかたわら、悟浄が黙々とカットを続けるといういつものスタイルで作業をしていた。
 しかし、今日は違った。ふいに悟浄のほうが、その沈黙をやぶった。
「なあ」
 話しかけられたことに驚いたのか、三蔵は意外そうに、壁に設置された大きな鏡越しにちらりと悟浄を見やった。
 そのうかがうような目線にこたえるよう、悟浄は軽く口の端をあげる。
「……なんだ」
「その……八戒の、コトなんだけど」
 悟浄の口から“八戒”の名前が飛び出した途端、目に見えて三蔵の眉間に皺が刻まれた。
 紫暗の双眸を冴え冴えとすがめ、前面の大鏡を通して悟浄を見つめる。
 奇妙な圧迫感を感じて、悟浄はひるむように息を飲み込んだ。だが、ここで退いてなるものかと、鏡にうつる三蔵を見つめ返す。
「――で?」
 三蔵は手にしていた雑誌を、鏡の下の壁についている小さな棚に置いた。
 その仕種にうながされて、悟浄は逡巡しながらも口を開いた。
「あ……っと、八戒って……東京でナンかあったの、か?」
 おのれを見る三蔵の視線があまりにも鋭いことに、悟浄は少々面食らっていた。どうにも過剰反応すぎやしないだろうか。しかもそのキーワードがあきらかに八戒であることに、悟浄の胸裏になんとも苦いものがこみあげてくる。
「……“お前”だったのか」
 長い長い沈黙のあと、三蔵は苦々しげに嘆息した。
 悟浄から視線を外し、伏し目がちにつぶやく。
「ナニが」
 彼の意味不明の物言いに、悟浄はあからさまに疑問符をとばす。
 三蔵は再び、これ見よがしに大きくため息を洩らした。そして、おもむろに顔をあげて、鏡越しに悟浄を見据える。初めて間近でみる、ひどく真剣な紫の眼差しに、悟浄は知らず息を飲んだ。
「――三蔵?」
「ただの好奇心や、生半可な気持ちだけなら、八戒には拘わるな」
「……どういう意味だよ、ソレ?」
 なんとも重々しい忠告。
 ただの後輩に向ける態度にしては、いささか仰々しすぎではないか。なぜ、三蔵がこうもあからさまに牽制するのか、悟浄には訳がわからない。なんの説明もないままでは、納得がいかなかった。
 苛立ちはそのままに、悟浄は鏡の中の彼を睨めつけた。
 その視線を真っ向から受け止め、三蔵はゆっくりと紫暗の瞳をすがめる。
「――中途半端に奴と拘わると、悟浄、お前も引きずられる」
 その覚悟はあるのかと、三蔵は今まで見たなかで、もっとも真剣な表情で問うた。
 思ってみなかったことを言われ、悟浄は思わず紅眼を見開いた。鋏をもつ手がとまる。
 三蔵は、悟浄の凄絶な生い立ちの詳細を知っている。つまり、八戒の核心に近づけば近づくほど、悟浄の内的な傷にも触れざるをえなくなると、そう言いたいのだろう。
 たとえば――この紅、とか。
(なんて――醜い!)
 差し出したおのれの小さな手を、何度も何度も振りはらった、女。
 この、紅のせいで、何度も何度も。否定しか、されなかった。
 それでも、悟浄はただ、彼女の愛情がほしかっただけなのだ。
 それでも、ほんのわずかでもいいから、ただ愛されたかったのだ。
(アンタなんか!)
 そう言って、最期の最期まで振りはらい続けた女は、最期の瞬間みずから紅にまみれながらも、最後まで悟浄を否定した。
 おのれの紅のせいで、欲しかったものはなにも得られず、結局家族をすべて失ってしまった。
 ――だから。
 悟浄がまとうこの紅は、今もなお、おのれの心に深い傷を刻んでいる元凶そのもの。そのせいか、この年齢になってもなお、悟浄は心の奥の奥に大きなトラウマを抱えたままだ。それだけ、少年時代にうけた心の傷が大きいといえた。
 八戒へ不用意に近づけば、悟浄がそれらの傷に障るかもしれないことを、三蔵は忠告しているのだろう。そして、そのことで、八戒にも多かれ少なかれ影響をおよぼす可能性が高いのだと。しかも、それは八戒にとっても、よくない方向性のものなのか。
 八戒が抱えている“なにか”を知らない以上、すべては推測でしかない。
 けれども、あながちその予想は間違ってはいないだろうと、悟浄は思った。
 八戒、そして悟浄のことを本気で想っているからこその、三蔵の忠告であることは、痛いほどわかる。それは本当にありがたかった。
 だが、悟浄のなかでは、すでに答えはでていた。
 そう、この三ヶ月間悩みぬいてようやく気づいた、おのれの気持ちの答えと同じ――
「悪ィけど……手をひく気はねえから」
 悟浄は、うっすらと口許を歪めた。
 もう、あとにはひけないし――ひく気も、なかった。
 その思いをはっきりと告げれば、三蔵の双眸がほんの一瞬、見開かれる。だが、すぐにそのなりをひそめて、短くため息を洩らした。
「ったく……どうしようもねえな」
 あきれを多分に含んだ物言いに、悟浄も苦笑するしかない。三蔵に言われなくても、そんなことは自分が一番よくわかっていた。けれど、八戒とのことも、悟浄のなかではもうなかったことにはできないし、する気もなかった。
 それならば、自らの想いを、三蔵にはっきりと伝えたほうがいいと思ったから。
「うるせえよ」
 自ら悪態をついて、悟浄はふたたび鋏を動かし始めた。
 三蔵は再度嘆息して、おもむろに白貌をあげる。
「だが、――お前なら、本当にアイツを変えられるのかもな」
「三蔵?」
 ふ、と三蔵の唇が、意味深な笑みを刻んだ。そして、鏡越しに悟浄と対峙して、ゆっくりと口を開く。
「お前の気持ちに免じて、さっきの質問に答えてやる」
 そう言い放って、三蔵はおもむろに語り始める。悟浄も仕事の手をとめないで、神妙な面持ちでその言葉に耳を傾けた。


 しかし――その内容の壮絶さに、悟浄は返す言葉もないまま、ただ黙って聞くことしかできなかった。



 ※  ※  ※



 三蔵への仕事も終えた閉店後、悟浄はすぐに帰宅しないで、店内に備え付けてあるカット用の椅子に腰掛け、ぼんやりと宙を見つめていた。
 八戒が抱える心の傷の重さを知って、どうにもやるせなさだけがつのる。
 三蔵もあれで、かなり大まかな説明しかしていないと言っていたが、それでもかいつまんで聞いただけにしても重すぎる内容だった。確かに、出会った当初から八戒の不安定さは際立っていたが、それも納得できてしまうほどのものだった。
 悟浄の過去の壮絶さも大概だと思うが、八戒はそれ以上かもしれない。しかも、つい直近のできごとだ。精神的にまいってしまうのも道理だろう。
 悟浄は中空を見つめたまま、いたたまれない心地に思わずため息を吐いた。
 それでも――彼に対する気持ちは、変わらなかった。
 それでも――八戒が好きだと、思った。
 そう、初めて彼と出会ったときからずっと悟浄の胸裏にわだかまっていた不可解な感情の名前にようやく気づいたのは、つい先日のこと。
 八戒を“そういう意味で”好きになっていた。
 今から思えば、きっと一目惚れだったのだろう。今まで誰にも心動かされることはなかったのに、よりにもよって、初めて本気で好きになった他人(ひと)が八戒とは、人生なにがあるか本当にわからないもんだと、妙に感心してしまったほどだ。
 しかし、同時に、深い絶望感をいだいた。
 どうして、おのれは、またしても手の届かない相手を選んでしまったのか。
 相手は同性で――しかも、どう見ても、ただならぬなにかがあるのが見え隠れしている。一筋縄ではいかない相手であることは最初からわかっていた。それでも、ひとたび自覚した以上は、おのれの気持ちに忠実に行動してきた。できれば、八戒にもっと近づきたかった。彼のことをもっと知りたいと思った。
 けれど、ことあるごとに、八戒に少しでも踏み込もうとして、そのたびにわかりやすく拒絶される。
 決して、八戒が悟浄の存在自体を拒絶しているわけではないことはわかる。だからこそ、その理由をずっと知りたいと思っていた。おそらく、彼の過去に起因するものだと踏んでいたからこそ、三蔵の来店がまさに渡りに船だったわけだが――
 悟浄はふたたび嘆息した。
 それでも――八戒を想う気持ちはとまらない。
 自分に、彼を変えることができるとか、そんな大それたことはとうてい思えなかった。
 だが、それでも――八戒が欲しい気持ちはとまらない。
 ふいに、八戒の綺麗な笑顔を思い出し、悟浄はひっそりと唇をつりあげた。
 悟浄は、彼の笑顔が一番好きだった。自分だけに向けられる、あの微笑みがとても好きだった。あの、作り笑いではない素顔の笑みをもっともっと見たいと思う。
 それならば、今、自分にできることをしたいと悟浄は思った。なにより、できるだけ、彼のそばにいたいと思った。
 そして、八戒が少しでも笑ってくれるなら、それでいいから。
 我ながら健気なことだと、悟浄は自嘲ぎみに笑った。笑わずにはいられない、そんな気分だった。








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