なごり雪




   1





 ――初めて目にしたその紅は、あまりにもあざやかだった。
 そう、まるで……あの時流した、彼女の赤のように。






 北国の春は遅い。
 新学期――四月もとうに半ばを過ぎたというのに、朝の気温がいまだ零度前後など、東京ではありえない気候である。
 今朝も、春とは思えないほどの肌を刺す寒さにぶるりと痩躯をふるわせながら、八戒はおぼつかない動作で軽自動車を走らせていた。
 車窓からわずかに入る風が、八戒の濃茶の短髪をさやさやと揺らす。
 男性にしてはひどく整った相貌に、一日の始まりにまったくそぐわないほど、どこか陰鬱な気配をにじませている。八戒は少しずれた眼鏡のフレームをおもむろに手で正してから、安全運転につとめながら前方を見つめた。
 ――この通勤の景色も、東京のものとはまったく違う。
 四方とも地平線が見えるなだらかな牧草地が、延々と続いている。時折、民家や畜舎らしき建物が点々と見えるだけで、片道ほぼ三十分の道中で、人や車とすれ違うことも滅多にない。
 もちろん、道路は片道一車線。勤務地までの間に、信号はひとつもなかった。
 つい半月ほど前まで、八戒が暮らしていた日常とかけ離れすぎている、それ。
 東京では車を運転する必要もなかったから、免許をとってから数年間、ペーパードライバーだった。だから、縁あってここ――北海道の東の果ての町にある県立高校にこの春から臨時教師として赴任することになって、必要にかられて運転する羽目になったのだが、ここまで対向車がいないとかえって気が楽だ。それだけはありがたかった。
 慣れない所作でハンドルを握りながら、八戒は軽く嘆息する。
 ようやく勤務先の県立高校が見えてきた。今日もまた、この町での、慣れない一日が始まる。自分で決めたこととはいえ、今までとあまりにも環境が変わりすぎて、かなりナーバスになっている自覚はあった。
 それでも、ここから早々に逃げるわけにはいかない。
 八戒は物憂げな表情のまま、校内に駐車すべくハンドルを切った。その時、視界の端に映った金糸の存在に気づいて、さらにため息を洩らす。
 なんとか車を駐車スペースにおさめ、八戒は後部座席に置いていた黒鞄を手にし、運転席からおりた。そして、足早に、先ほど目にした見事な金色の髪を持つ主へと駆け寄る。
「――おはようございます、三蔵」
 三蔵、と声をかけられた美丈夫の青年は、ちらりと背後を見やった。
 声をかけたのが八戒だと認識した途端、わかりやすく警戒を解く。そして、朝もまだ清々しい時刻だというのに、端整な白皙に刻まれた見事な仏頂面を隠しもしないで軽く相槌をうった。
「……ああ」
「今日も早いんですね」
 まだ七時ですよ、と八戒が苦笑まじりに言うのに、三蔵はあきれたような目付きで八戒を見た。
「そういうお前こそ、毎日きっちり七時前出勤じゃねえか」
「だって僕はここでは新任、しかも道外者ですしね。勉強することはいっぱいありますよ。でも、三蔵はかれこれ三年目でしたっけ? それでも早いんですね」
「……だからこそ、やることが溜まってんだよ」
 忌々しげな物言いでありながらも、彼――玄奘三蔵がこの学校にどれだけ深い愛着を持っているか、八戒はよく知っていた。
 八戒はこっそり苦笑を深めると、彼の横に並んで校舎に入る。ふたりともまず向かう先は職員室だ。
「そうだ、八戒」
 職員室にさしかかろうとしたところで、ふいに三蔵が声をかけた。
「はい?」
「少しはここにも慣れただろ。今日あたり、部活担当を紹介する」
 三蔵の言葉に、八戒は軽く目を瞠った。
 つまりは、今日の放課後、八戒がこの一年間顧問として担当することになる部活動がなにであるかがわかるらしい。
 八戒は小さく微笑むと、わかりました、と返事をする。ふたり揃って職員室のドアをくぐれば、かなり広いその室内には、すでに出勤している教師が何人かいた。ここの高校の教師たちは揃いも揃って驚くほど勤勉だ。
「そうしたら、六時限目が終わったら、三蔵に声をかけますね」
「ああ」
 三蔵は軽く右手をあげると、そのまま自席に向かった。
 八戒も彼と別れて、自分にあてがわれている席につく。手にしていた鞄を机のうえに置いて、そっと息を吐き出した。
 ――今日もまた、八戒ひとりだけ、日常が始まる。
 毎日のことながら、そのことにひどい罪悪感を覚える。その思いが今も重く、八戒にのしかかる。
 けれども、それはなんとか表には出さないようにして、八戒は憂いを帯びた表情で古びたグレーの椅子にゆっくりと腰をおろした。
 その様子を、三蔵が少しだけ離れた位置からなんともいいがたい表情で見つめていることなど、気づく由もなく。



 ※  ※  ※



 猪八戒は、今春から北海道の東端にある県立高校に臨時教員として赴任してきた二六歳の青年である。
 それまでは、大学院を卒業後、その優秀な成績を買われて東京都内の超有名私立進学校に勤務していた。だが、そこに着任した二年の間に、勤務先の学校が発端となり、八戒の人生を大きく揺るがす重大な事件が起きてしまう。
 その結果、生きる気力さえも失いかけていた八戒に、一時的に北海道まで来ないかと声をかけたのが、八戒と同じ大学院に通っていた一年先輩である玄奘三蔵だった。
 その事件をきっかけに、まるで抜け殻のようになってしまった八戒は、このままでは自ら命さえも絶ってしまうのではないか。それほどの深い絶望の淵にあった八戒を見るに見かねたのだろう。東京からはるか遠く離れた、北海道、しかもその最果ての地ともなれば、少しは八戒もいい意味で変わるのではないか。三蔵はそう思ってのことだった。
 八戒と三蔵は、関東地方にある国内でも有数の教育学部がある国立の大学院で、その優秀さでもって『双璧』と言わしめていた仲だった。八戒は理系、三蔵は文系と専門がはっきり分かれていたことも幸いしてか、ふたりは学生時代の間、非常に仲がよい友人同士であった。
 三蔵は院を卒業と同時に、地元である北海道に戻り、自らの出身高校で現代国語と古典を専門に、一部社会科関係の教師も担当していた。三蔵が関東を離れ、八戒も東京で私立高校の数学教師になってからも、時々連絡をとりあったりしていたことが今回の誘いにも繋がったといえる。
 そう――三蔵から、在籍している北海道の東端にある県立高校の非常勤の数学教諭として、一年間の契約で赴任してほしいと言われたのは、ついひと月前のこと。
 ちょうど数学教諭の空きがあるのに、常勤教諭の数が足りないため、その高校には正規の教師の配属がなく、非常勤のなり手を探していた。八戒は中学・高校の数学教諭免許をもっており、また例の事件が原因となって、新卒で赴任した私立校を休職したばかり。タイミングがいいとはまさにこのことだった。
 けれど、八戒もすすんで、この北の地に来たわけではない。
 あくまでも、他ならぬ三蔵からの誘いだったから受けただけだ。
 そうでなければ、八戒自身、縁もゆかりもない北国まで来ようはずがなかった。まったく知らない土地で、知り合いも三蔵だけ。また都会でしか暮らしたことのない八戒にとって、なにもかもが不便であることも目に見えている。
 それでも、八戒がこの町へやって来ることにしたのは、やはり――つらかったからなのかもしれない。
 あのまま、東京にいれば、いやでも思い出す。いやでも実感させられる。
 それならば、遠く離れた、八戒のことなど誰も知らない土地でしばらくすごすほうがまだマシなのではないか。そう思って、すべてをほうり出して、ここまで来た。
 そう――逃げてきたのだ。
 逃げてなにかが変わるわけでもない。でも八戒は、そうするしかなかった。
 幸いなことに、ここでの猶予期間は一年ある。その間に、少しはおのれも落ち着いて、先のことを考えるだけの余裕もうまれるかもしれない。そんなわずかな望みをかけて、八戒は慣れない土地での日常をすごしている。
 とはいえ、今の自分の状態では、とても変わることができるとは思えないけれど。
 ひとはそう簡単には変われないことをしみじみと実感しながら、八戒は日々、物憂げにすごすだけだ。
 そのさまを生徒の前では見せないだけ、上出来というしかなかった。



 ※  ※  ※



 その日の放課後、八戒が部活顧問担当として三蔵から紹介されたのは、意外にも男子バレーボール部だった。
 体育館で練習にはげむ十数名の男子生徒をながめつつ、八戒はなんとも怪訝な視線を三蔵におくる。
「……僕、バレーボールなんて、指導できないですよ?」
 ざっと見るかぎり、バレー部専属のコーチらしき人物の姿は見えない。ということは、教員が部活指導をおこなう必要がある。しかし、八戒は学生時代の体育の授業でやったきりで、バレーボールのことなどまったくわからない。つまり、実技指導ができないのである。
 それで部活顧問もないだろうと三蔵に訴えると、彼はふんと、大きく鼻を鳴らした。
「指導なんざしなくてもいい。実技に関しては、こいつらの自主性にまかせてるしな。お前は、ただ俺に代わって監督だけしてればいい」
「はあ……って、三蔵?」
「だから、お前は見ているだけでいい」
「そういうことですか……」
 ようは、元々三蔵が顧問である部活の面倒をおしつけられているだけの話らしい。
 八戒は大仰にため息をついた。
「三蔵、これはどういうことです?」
「俺は今年度、道教委の監査委員になっちまったんだよ。つまり、その仕事の都合でどうしても時間的に抜けることも多くなる。その分、お前が俺の代わりに、こいつらについていてくれればありがたい。さっきも言った通り、バレーの練習は勝手にやるから、お前が口を出す必要はねえ。それなら、お前でもできるだろ」
「……確かに」
 実は、三蔵の伯母である観音が、事実上道教委の実権を握っており、おそらくこの人事もその絡みなのだろう。彼女も三蔵の有能さをわかっていて、わざと面倒な役職を押し付けているようで、また三蔵本人も観音にだけはどうにも頭があがらないらしい。
「俺も、お前なら大丈夫と思って頼んでんだ。じゃ、あとはよろしく頼む」
 三蔵は言いたいことだけ言いおくと、さっさとその場から立ち去った。あまりの展開に八戒としてはもう、唖然とするしかない。
 それでも、あの三蔵が、八戒ならと託していったのなら引き受けるしかないではないか。
 八戒はふたたびため息をこぼした。とりあえず、やるしかないと腹をくくって。



 ※  ※  ※



「八戒って、三蔵の大学の後輩なんだ! スゲーなっ。めちゃ頭いいんだ」
 悟空という名の二年生の男子バレーボール部員から感嘆の声があがる。
 それに曖昧に微笑みながら、八戒はわずかに目を細めた。
「全然すごくはないですよ。大学では三蔵のほうが有名でしたし」
「美人だけど容赦ねえから?」
「……そうですね」
 あまりにも的を得た指摘に、八戒は苦笑を深めた。
 孫悟空はこの高校の二年生だが、とある事情により三蔵が後見人をつとめていることもあり、彼ととも暮らしている。だから、八戒もこの町に来た始めに、彼についての話だけは聞いていたのだが、実際に顔をあわせたのはバレー部の顧問代理として挨拶をした今日が最初だった。
 悟空たちバレー部員も、おそらく三蔵から事前に話を聞いていたのだろう。突然あらわれた臨時教員にまったく驚くこともなく、すぐさま八戒を受け入れてくれた。そして、本日の部活終了後、真っ先に八戒のもとに飛んできたのが悟空だった。
 今も校内の廊下を並んで歩きながら、たわいもない会話を続けていた。
 悟空にしてみれば、保護者である三蔵の後輩ということで、八戒に興味があるのだろう。屈託のない笑みを惜しみなく浮かべて、楽しそうに話している。
 悟空に限らず、この高校の生徒は、八戒が今まで見てきたどの生徒たちよりも伸びやかで生き生きとしていた。東京にいた時は、こんなふうに、気軽に生徒たちと会話をすることもなかった。
 東京というキーワードから、ふいに思い出したくないことまで思い出してしまい、八戒は思わず顔を曇らせた。知らず深いため息が洩れる。
 わかりやすく八戒の雰囲気が暗澹たるものに変化したことに気づいたのか、悟空が小さく息を飲んだ。その場をとりつくろうように、あわてて口を開く。
「あ、そうだ。八戒って、北海道自体初めてなんだよな?」
「え、……ええ」
「なんかわかんないこととか、訊きたいこととかあったら、遠慮なく言って? ここって勝手が違うだろ?」
 店の場所とかさあ、と、なんとか八戒の顔色を元に戻すよう、話題を変える。
 悟空の台詞に、八戒はふと瞠目した。瞬時に思い当たることが胸裏をよぎり、あっと声をあげる。
「ちょうどよかった。それならぜひ、教えてほしいお店があるんですよ」
 こころなしか、八戒の声音に明るさが戻っていた。それに安堵した悟空も表情を明るくする。
「え、どこどこ? どんな店?」
 悟空の問いかけに、八戒はゆっくりと口を開いた。

「――美容院ってどこにあるんですか?」

 八戒はにこにこと笑いながら尋ねる。
 その質問に、悟空はなんとも不可思議な表情を浮かべた。



 ※  ※  ※



「美容院、で通じなかったのにはびっくりですねえ……」
 その週の日曜日に、軽自動車を走らせながら八戒はしみじみとつぶやいた。
 この町に来てから、そういえばまったく理容院や美容院を見かけることがなかったので、近いうちに三蔵あたりに確認しようと思っていた。そろそろ髪も伸びてきて、うっとうしいと思っていた頃合である。その矢先に悟空からタイミングよく申し出があったのをいいことに訊いてみたものの、“美容院”ではなんの店をさしているのか、彼にはまったくわからなかったのだ。八戒がきちんと説明をして漸う納得してくれたものの、“散髪屋”でないと話が通じないのは驚きだった。
 とはいえ、よくよく話を聞いてみれば、実際に八戒が想像していた、いわゆる都会でよくある美容院というものは、この町には存在していなかったらしい。あっても、悟空の言う通り、こじんまりとした散髪屋が三軒ほどあるだけ。そんななか、三年前に、ようやくこの町にも美容院というべき店がまえのヘアーサロンが一軒だけできたのだと、悟空が教えてくれた。
 そこで、八戒は教えてもらったその店をめざして運転していた。
 だいたいの場所まで来たら、道沿いの何もない牧草地の一角に一軒だけぽつんと洒落た店が建っているからすぐにわかる、と言われていた通り、目的らしき店はすぐにわかった。一応、悟空に店の名前も確認してみたものの、「英語だったから覚えていない」と即答されてしまった。だから、あらかじめ確認した店の位置と建物の雰囲気だけを頼りにここまで来たが、おそらく前方に見えている、この田舎と全然そぐわないモダンな建物の店に間違いないだろう。
 店の前にある無駄に広い駐車スペースに車をつけ、ゆっくりと座席からおりる。その店の名前は『Cozy』とあり、前面ガラス張りの店内をそっとうかがえば、確かにそこは都会でよく見る、今どきな造りになっているヘアーサロンだった。
 この店だけを見ていたら、広大な北の大地のなか、まるでここだけが切り取られたように都会的だ。そこだけがひどく北国らしくない。それもなんだか不思議な気がした。
 八戒はおもむろに、木でできた店の扉に手をかけ、店内へと入った。
「あの――……」
「いらっしゃい」
 店の奥から店員らしき若い男が姿をあらわした。その姿を見た途端、入店の挨拶を口にしかけた八戒の目が大きく見開かれる。
(……なんて、)
 あざやかで綺麗な、紅――。
 ふいうちで視界に飛び込んできた深紅に、八戒は知らず息を飲んだ。
 その男は、驚くほどにあざやかな深紅をまとっていた。
 長くつややかな紅髪を肩まで伸ばし、その双眸までも深い紅色である。歳の頃は八戒と同世代に見えた。一見軽薄そうだが、とても精悍な顔立ち。
 なにより、その紅のあまりのあざやかさに、八戒は凍りついてしまったかのようにそこから動けないでいた。






 ――その時、八戒の脳裏に広がっていたのは、かつて見た深紅。
 あの時、無情にも八戒の目の前でじわじわと広がっていった彼女の赤、そのものだった。








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