カサブランカ




「しけた面してんな」
 閉店時間間際に現れた、聞き慣れた低い男の声に、悟浄は気だるげに視線だけを入り口へと向けた。
 見知った顔ではあるものの、待ち人とは違う人物の来訪に、悟浄は内心で落胆しつつ深々と嘆息した。
「三蔵サマが直接店に来るなんてめずらしーんじゃね?」
 揶揄する口振りに、三蔵と呼ばれた男は、眉間に深い皺を寄せて不遜げに鼻を鳴らした。
 眩いばかりの金糸に紫暗の瞳という色彩を纏ううえに、顔の造作もおそろしいまでに整った実に凄みのある美丈夫だ。悟浄よりも一つ上の年齢ながら、既に会社を経営している、業界内では若いながらそれなりにやり手で通っている男だった。
 悟浄とはいわゆる幼馴染、といった関係が一番近い。この店でアルバイトをしている孫悟空とともに三人で、幼い頃はよくつるんでいたものだった。
 偶然仕事のフィールドが重なったこともあり、今なお公私ともに深い付き合いが続いているのも、腐れ縁というべきか。
 三蔵は勝手しったるとばかりに、ずかずかと店の奥まで入ってきた。そして、立ったまま作業をしている悟浄の横に置かれた簡易椅子に我が物顔で腰掛ける。
「……お前なあ」
「うるせえ。用がなけりゃ、わざわざこんなとこまで来るかってんだ」
「へーへー。で、そんなお前がわざわざここまで来た、大層な用ってナニ?」
「……仕事の話だが」
 三蔵の声音が、判りやすく神妙なものに変化した。
 その変化に敏感に気づいた悟浄は、切れ長の紅眼を軽く眇める。
「あらたまって、ナニ」
「駅から少し離れたところに、大型の商業ビルが出来ただろ?」
「ああ、……パ、なんとかっていったっけ? つい最近、そういやでっけえのが出来てたな」
「そこのオーナーがお前の作品を見て、いたく気に入ってな。来月にある最初の大きなフェアーにあわせて、ビル全体の要所要所をフラワーアートで飾り付けてほしいと言ってきている」
「へえ」
 話を聞く限りでは、かなり大口の依頼である。これは悟浄にとっても大きなチャンスといえた。だが、だからこそ、三蔵がわざわざ悟浄に直接話をしに来たということに、大きな意味があるに違いない。
 悟浄は短く息を吐き出すと、彼にその続きを促した。
「で? 話はそれだけじゃねえんだろ?」
「ビンゴだ。先方が指定してきた条件は『紅い花』だからな。……どうする?」
「そークるか……」
「仕方がねえ。『母の日』がテーマだからな。紅い花は外せないだろうよ」
 なんとなくそんな気はしていたのだ。悟浄は思わず天を仰いだ。
「お前のソレも、大概根が深いからな。だが、いい加減吹っ切ってもいい頃だと思うが」
 三蔵は、まっすぐに悟浄を見据え、諭すように言い放つ。
 あいかわらず彼らしい、容赦ない言い草に、悟浄は自嘲ぎみに唇を歪めた。
「それこそ仕方ねえじゃん。簡単に吹っ切れるようなら、いまだにみっともなく引き摺ったりしてないって」
「判っちゃいるがな」
 悟浄の返答が、不本意ながらも予想通りだったのだろう。幼馴染ゆえに悟浄の凄絶な過去を知る三蔵は、これ見よがしに嘆息した。そんな彼の態度に、悟浄も苦笑で返すしかなくて。
 悟浄は物心ついた幼い頃から小学校高学年で育ての母親を亡くすまで、その育て親である義母から激しい虐待を受けて育った過去がある。
 悟浄の生い立ちは、いわゆる父親が愛人に産ませたという庶子だった。それが紆余曲折を経て、実の親ではなく血が繋がらない義母の元へ預けられることになるのだが、それから不慮の事故で彼女が亡くなるまでの十年近くもの間、義母から直接、言葉と力の両方の暴力を与えられ続けてきたのだった。
 悟浄にしてみれば、物心がついて傍にいたのは義母だったから、ただ純粋に彼女の愛情が欲しかった、ただそれだけだった。けれど、彼女にしてみれば、悟浄は愛しい男を寝取った女が産み落とした憎い結晶でしかない。しかも、滅多に見られない紅髪紅眼という悟浄の姿が、彼女の狂気に拍車をかけた。
 ことあるごとに、幼い悟浄に向けて浴びせられた、赤への呪詛。
 そして、それでも彼女に愛してもらいたいからと、悟浄が贈り続けた紅い野花を、何度も何度も拒絶した義母。
 それが結局、成人した今なお、悟浄に昏い陰を落としているのは確かだった。ずっと、悟浄にとって、『赤』というものは忌まわしくも切ない過去を呼び起こす禁忌の色だった。だから、その色について話題にされることも、ましてや髪の毛といった己の赤に触れられることも駄目だった。
 こうして花に関わる仕事についてもなお、紅い花だけはどうしても取り扱う気にはなれないまま、今日まできていた。
 それで困ったこともなかったし、悟浄自身、過去のトラウマを思い出してまで紅い花を取扱う気はさらさらなかった。
 ――しかし。
 あの、彼の部屋での一件以降、ばったりと悟浄の前に姿を現さなくなった八戒のことを思い出す。
 あの時、悟浄は彼に向かい、何度も「いつ吹っ切れるんだ?」と口にした。今思えば、いまだ過去の大きなトラウマを抱えたままの悟浄に、そんなことを言うだけの資格があったのか。
 ひとの想いとは、強ければ強いほど、そう簡単になかったことには出来ないと、悟浄自身よく判っていながら。自らの感情に振り回されて、まったく回りが見えなくなっていたのは八戒だけでなく、悟浄も同じなのだ。
 だからこそ、まさに今、一歩踏み出すべき時なのかもしれない。
 そして、そのチャンスは今、悟浄の目の前にある。
 悟浄は肩で大きく息を吐いた。意を決して、三蔵へと向き直る。
「俺、その仕事、請けるわ」
「――本当にいいんだな?」
 三蔵の鋭い視線にも怯むことなく、悟浄はしっかりとした口調で「ああ」と返答した。
 その答えに三蔵は満足げに微笑んで、ゆっくりと立ち上がる。
「それなら、早々に先方には返事をしておくが、……やっとその気になったか」
「まぁね。お前の言う通り、そろそろ吹っ切らなきゃ、だな」
「いったいなんの風の吹き回しだか」
 軽口を返しつつも、三蔵はにやりと口端をあげた。そして、用は済んだとばかりに早々に店を後にする。
 彼の後ろ姿を見送りながら、悟浄はふ、と唇に軽く笑みを刷いた。それまでの陰鬱な気持ちが払拭され、晴れ晴れとした心地だった。
 この仕事をきちんとした形で仕上げ、終わらせることが出来たなら、その時こそは八戒と正面から向き合える、そんな気がした。だから、過去の自分から逃げないだけの勇気を出して。
 ――まずは、その一歩から。




 悟浄が手掛けた、新しい商業ビルが母の日に向けて企画したフラワーアートを全館にデコレーションするという大掛かりな仕事も、好評のうちに終了となった。
 おかげで、翌月のジューンブライドに向けても同じようなコンセプトでお願いしたいとビルのオーナーから依頼を受け、元々それなりに多忙だった悟浄の身辺が、あからさまに多忙となった。
 これもあの時、いつもなら己の意固地なこだわりで素気無く断っていたはずの仕事を、ちゃんと引き受け、真っ当したからに他ならない。それでも、そのきっかけとなったのは、よくよく考えれば八戒との出会いだったと思う。そう思えば、余計に、彼に会いたいと悟浄は思った。
 とはいえ、八戒のほうから悟浄の店に訪れなくなって、早くもひと月近くがたとうとしていた。
 悟浄のほうは八戒の自宅を知っているのだから、彼に会いに行こうと思えば自分から足を延ばす、という選択肢もあるのだが。けれど、最近は本業のほうが忙しすぎて、悟浄のプライベートな時間を捻出することが難しくなっていた。
 だからこそ、悟浄はどんなに忙しくても閉店前の30分間だけは、必ず毎日自分で店番をするようにしていた。もしかしたら、この時間帯なら、八戒が訪れるかもしれない。それを期待しながら、悟浄は今日も閉店前のわずかな時間を自分の店で過ごしていた。
 ふと時計を見れば、22時まであと五分となっていた。
 今日も空振りかな、と諦めたように、悟浄は小さく笑った。このまま八戒との縁は切れてしまうのかもしれない、そんな弱気な思いが少しだけ胸裏を過ぎる。
 その時、だった。
「――こんばんは」
 久しぶりに聞く、少し高めの甘いテノールの声音。
 その声が聞こえた途端、悟浄は弾かれたように声のしたほうへと顔を向けた。
「……八戒」
 ほぼ一ヶ月ぶりに見る彼は、変わらずスーツ姿のまま、困ったように笑いながら店の入り口のところに立っていた。その姿をぼんやりと見つめるだけの悟浄に向かい、八戒はさらに微苦笑を深める。
「お久しぶりです。……今、いいですか?」
「あ、ああ」
 悟浄が奥から店先まで出てくると、八戒と正面から向き合うかたちとなった。
 会いたいと、あんなに思っていたのに。いざ、本人を目の前にすると、なかなかうまい具合に言葉が出てこない。
「そういえば、あのパルセールビルのフラワーアートは悟浄が手掛けたんですね。紅い花がメインだったのに、でも貴方らしい作品で綺麗でしたね」
 悟浄が逡巡している間に、八戒のほうが口を開いた。しかも、特別な思いがこもった仕事のことを褒められ、悟浄は照れくさそうに視線を泳がせた。
「……よく知ってるな」
「作業中の貴方を偶然見かけたんです。それで、元気そうで何よりと」
「そっか」
 悟浄はふ、と小さく息を吐いた。そのまま軽く深呼吸をして、再び八戒を正面から見据える。
「あの、さ」
「はい」
「今日も……カサブランカを買いにきたのか?」
 八戒の口許から、笑みが消えた。
 その様をしっかりと見つめながら、悟浄は返事を待った。
「いいえ。今日は、貴方に会おうと、そう思ってここに来ました」
「――」
 思ってもみなかった彼の言葉に、悟浄は知らず紅眼を瞠った。
 八戒はかすかに苦笑を浮かべ、静かに悟浄を見つめ返してくる。
「このひと月の間、僕なりに色々と考えましたよ。それで、僕の中できちんと答えが出たら悟浄に会おうと、そう思って、彼女のことも全部ひっくるめて考えました」
「……そうか」
「貴方が言う通り、貴方からカサブランカを渡されたら彼女のことも吹っ切れる、というのも、結局は僕の中での大義名分にしか過ぎなかったわけで。自分と向き合って、やっと気づきました。僕は――恐かったんです」
 そう言って、八戒はそっと目を伏せた。
「……ナニが?」
「彼女のことを忘れられないのに、いつの間にか本気で貴方のことばかり考えるようになった自分が恐くて、貴方のことを逃げ道にしていたんですよ僕は」
 そこまで一息に言い切って、八戒はほぅとため息を零した。
「……今度こそ、軽蔑しましたか?」
 嘲笑を浮かべて、悟浄に確認するように問い掛ける八戒を、悟浄はどうしようもなく抱き締めたくなった。軽蔑どころか、むしろ嬉しくて、心が躍る。どう聞いても、これは八戒からの告白に聞こえるのは悟浄の気のせいではないはずだ。
「イヤ。むしろ、すっげえ嬉しいかも」
「……そうですか?」
「ああ。だって、ようは俺のコト、好きってことだろ?」
 単刀直入な悟浄の物言いに、八戒の白貌が瞬時に紅く染まった。眦を赤らめながら睨みつけられても、悟浄にその効果はなかった。むしろ、そんな顔を見せられたら、煽られるだけだというのに。
 悟浄はにっと口の端をあげた。悟浄のほうこそ、彼に伝えたいことがある。それは、まさに今この時だと悟浄は思った。
「八戒……コレ」
 ふいに悟浄は、それまでに準備しておいたものを八戒へと差し出した。
 それは、綺麗にラッピングされた一輪のカサブランカ。
 目の前に差し出されたものを、八戒は驚きに瞠目しながら凝視した。何故、ここで悟浄がこの花を八戒に渡そうとするのか判らないと、その白皙の貌にはっきりと描かれていた。
「……悟浄、いったい」
「これは、俺の気持ちだから」
 八戒の翠の双眸がますます見開かれる。構わず、悟浄は言葉を続けた。
「今までは、八戒が彼女のために買ったものを俺が手渡していたけど、これは俺が八戒に渡したいモンだから。だから、俺の気持ち」
 悟浄の真意は、八戒に届くだろうか。
 いや、届いてほしいと祈るような気持ちで、カサブランカを彼の前に差し出す。
「……もしかして、花言葉とかけてたり、します?」
 八戒は俯きがちに、いまだ悟浄の掌中にあるカサブランカをじっと見ていた。八戒がすぐに受け取らないのは、まだ悟浄の真意が伝わらないからなのか。
「ん、それはご想像におまかせします」
「…都合よく受け取っちゃいますよ?」
「ドーゾ。そのほうが、俺も嬉しい」
「……貴方って人は……」
 ふいに八戒は、それまで伏せていた面をあげた。そして、悟浄の手から一輪のカサブランカを受け取りながら、泣き笑いのような――それでいて悟浄が見惚れるほどに綺麗な笑みを浮かべる。
 その表情が何よりの答えだった。









 その時、カサブランカの花が、ふわりと風に揺れた。
 まるで、何かが去りゆくような――かすかな余韻だけを、残して。








FIN

香月吟様との合同誌『La vie qui a la fleur』に掲載。

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