カサブランカ




 八戒が暮しているマンションは、悟浄の店から意外と近かった。
 一見して築浅と判る外観の、五階建てマンションの一階で暮しているという。ある程度高さがあるマンションなら上の階に入居したがるものではないかと問うた悟浄に、八戒は笑いながら「急な引越しで選択の余地はなかったから」と、なんとも意味深長な返答をよこした。
 これには、悟浄もこれ以上追求するのもはばかられたし、何よりその答えはこれから向かう彼の部屋の中にあるような気がした。
「散らかっていますが、どうぞ」
 玄関の鍵を開け、扉を開いた彼に促され、悟浄は神妙な面持ちで玄関内に一歩足を踏み入れる。初めてとはいえ、同性の家にあがるのにここまで緊張するなど、悟浄にしてはありえなかった。それは、ここが八戒の家だからなのか。そういう意味でも、悟浄にとって特別過ぎる存在の彼。
 それがどういう意味での特別なのか、深く考えることは放棄したまま、悟浄はそろりと靴を脱いで、室内にあがった。玄関のすぐ傍にミニキッチンがあり、短い廊下の先に、向こう側の部屋に続くと思われる扉が見える。よくある一人暮し用の間取りそのままの作りの部屋のようだ。
 悟浄が見分していたその後ろで、玄関の扉が閉まる音がした。その、刹那。
「――?」
 ふいに、悟浄の鼻腔に飛び込んできた、独特の甘い香。
 それは悟浄にとって、確かに慣れ親しんだ香りのひとつだ。そう、それはまさにカサブランカの花の香りそのもので。
 しかし、後ろの八戒が手にしている一輪だけで、これほどの強烈な香りを発しているとは到底思えない。
 ということは、だ。
 この香りはいったいどこから……?
「悟浄、どうしたんです?」
 玄関をあがったところで動かなくなった悟浄を訝しむように、八戒が後ろから覗き込むように尋ねてきた。背後から、しかも至近距離に彼の顔があったことに内心でひどく驚きながらも、悟浄はことさら落ち着いた素振りで口を開く。
「ああ、……あのさ」
「はい」
「なんか、すげえ甘ったるい匂いがするのは気のせい?」
「さすが悟浄、花の香りには敏感なんですね」
「……は?」
 なんとも意味不明な返答に、悟浄は知らず眉宇をしかめた。計算ずくなのかそれとも天然なだけなのか、さっぱり判らない。
 胡乱げな声をあげた悟浄に向かい、八戒はゆったりと微笑んだ。翠の双眸が綺麗な半月を描く。
「ほら、ここにたくさんあるから――」
 そうささやきながら、八戒は生活空間たる部屋へ続くと思われる扉をそっと開いた。
 その瞬間、悟浄の紅眸に飛び込んできたのは、狭い室内に所狭しと置かれた、数十本ものカサブランカの切花の群れだった。
「――……っ!」
 あまりの光景に、悟浄は大きく息を飲み込んだ。
 思わず扉の位置で呆然と立ち尽くす。
 六畳程度のフローリングの室内には、簡素なパイプベッド以外の家具は一切置かれておらず、その代わりに、空いた空間にカサブランカの切花を生けたいくつものガラスの花瓶が点々と床に直接置かれている。
 悟浄とほとんど年齢が変わらないであろう男がここで一人で暮すには、奇異としか言いようがなかった。
 しかも、ここにあるカサブランカの数はざっと見ても30はあり、どう考えても悟浄の店で購入した数よりもはるかに多い。
「……コレって」
 悟浄は呆けたまま、抑揚のない声音でつぶやいた。
 想像を超えた事態に頭がまともに働かない。
「――このカサブランカは『彼女』なんです」
「……彼女?」
 突然の彼の告白に、悟浄は弾かれたように自らの横に並び立つ男を見つめた。
 八戒はというと、悟浄に顔を向けることなく、室内に咲くカサブランカの花をうっとりと眺めたまま言葉を続ける。
「ええ。……僕を置いて先に逝ってしまった――最愛の姉、です」
「――」
 悟浄はぎょっと目を瞠った。
 それはつまり、カサブランカに亡き姉の姿を重ねているというのか。
 いくら生前、並々ならぬ愛情をその姉に抱いていたとしても、肉親に寄せる家族愛にしてはいささか度が過ぎていやしないか。
 その悟浄の疑問は、しっかりと顔に出ていたのだろう。八戒は曖昧に微笑みながら、腕に抱えていた一輪のカサブランカを、透明フィルムの上からいとおしげにそっと撫でた。
「確かに彼女は血が繋がった――しかも双子の姉でしたが、僕たちは家族以上にお互いを愛し合っていました。……軽蔑、しますか?」
 自嘲ぎみに、八戒はくすくすと笑う。悟浄は短く嘆息した。ここでようやく、彼から視線をそらす。
「いや……そーゆうのも、アリだろ」
「世間的には無しだと思いますが」
 八戒はさらに嘲笑を深めた。自らを卑謗するような響きのそれに、悟浄の眉がしなる。
「よせよ、そーゆう言い方」
「……ありがとうございます。悟浄はやさしいですね」
 手にしていた一輪のカサブランカを、八戒は腰を屈めてそっと自分のベッドの上に置いた。そして、その姿勢のまま、ちらりと上目使いに悟浄を見つめてくる。
「そんな貴方だから……つけ込みたくなってしまうんですよ、きっと」
「八戒」
 くすり、と意味深に微笑んで、八戒は再び上体を起こした。
「姉は一年前、ある事件に巻き込まれて、僕の目の前で殺害されてしまいました。両親は既に亡くしていましたから、僕にとっては彼女があらゆる意味ですべてだった……なのに、そんなささやかな幸せの時間さえも、あっけなく壊れてしまって。それ以来、僕は一人で生きていくことさえも、どうしたらいいのか判らなくて」
「……カサブランカに、最愛の姉貴を重ねることで、精神の安定をはかっていた、と」
 何故、その彼女の代わりがカサブランカなのか、悟浄に知る由はないのだけれど。
 彼の重々しい告白に、悟浄は胸奥に凝る息をゆるゆると吐き出した。なんとも複雑な――やるせない気持ちだけが悟浄の胸に凝っていく。
「ええ、……カサブランカは元々彼女が好きだと、そう言っていたんです。その花言葉を知って、さらに彼女そのものだと、そう思いました。だから、常にカサブランカの花束を買って部屋に飾ることで、彼女が傍にいてくれると思い込んで――それに縋っていたんですね、僕は」
「……カサブランカの花言葉って?」
「『雄大な愛』……まさに彼女はその心で、僕のすべてを愛してくれました。今も……こうして、ずっと」
 八戒の双眸は、カサブランカを見つめながらもどこか遠くを見つめているようだった。
 こんなに近くにいるのに、おそろしく彼を遠くに感じる。自分ではまったく手の届かないところにいるような錯覚に、悟浄はふいに強い焦燥感を覚えた。たまらず右手を伸ばし、八戒の腕をしっかりと掴む。
「……悟浄?」
「で? それで、なんだって俺の店では一輪ずつしか手にしなかったんだ?」
 それは、今までの話を聞いたうえでの、悟浄にとって最大の疑問だった。
「――一ヶ月前、初めて貴方を見た時に思ったんです」
「ナニ、を」
「こんなにも綺麗な赤を纏う貴方から、カサブランカを手渡されれば、僕も……吹っ切れるのかなと。初めて貴方を目にした時には彼女が流した鮮やかな血の色に見えたけれど、それが綺麗な赤だと、そう思えるようになったならきっと、と」
 八戒は、それまでカサブランカに向けていたのと同じ、いとおしげな微笑を口許に刻んだ。そして、空いたほうの手で、そっと悟浄の紅髪に触れる。
「……ッ」
 ふいに、悟浄の身体が判りやすくこわばった。そのことに即座に気づいた八戒が、申し訳なさそうにその手を引っ込める。
「すみません……迷惑でしたね」
「イヤ、……そーゆうんじゃ、ねえんだけど」
 確かに、他人にこの髪を触れられるのは苦手だった。たとえ情を交わした相手にさえも、触らせることはなかった。それなのに、唐突に八戒に触れられて驚きはしても、嫌悪感はなかった。その事実がますます悟浄を混乱させた。
 しかも、悟浄がこんなにも忌み嫌う赤に――深い意味を持たせているらしい彼に、常ならば迷わず拒絶するはずのことを口にされても、拒む気はまったく起きなかった。むしろ、そうまで深い想いで悟浄に関わりながら、何故今もなおカサブランカにだけ心を寄せているのか。そんな理不尽な憤りが、悟浄の胸裏をうずまく。
 いつまでもカサブランカに囚われたままの八戒。
 それならば、彼にとって、悟浄はいったいどんな存在なのだろう?
 そして悟浄のとっての八戒とは――。
「なあ、――それっていつになったら吹っ切れるの?」
 そこまで考えて、悟浄は湧き上がる衝動のまま、詰問するように八戒に訊ねた。
「……いつ、とは?」
「だから、俺からカサブランカを受け取ってるうちに吹っ切れるかも、っつっただろ。それって、いったいいつ? いつまでカサブランカの彼女だけを想い続けるんだ?」
「悟浄、…貴方、いったい」
 突然まくし立てるように言い募り始めた悟浄を、八戒はその瞳にあからさまに疑問の色を浮かべて見つめ返してくる。それでも、一度口にしたらもう止まらなかった。どうしてこんなにも急く心地に駆られるのか判らないままに、悟浄はぎりと、彼の腕を掴んだ手の力を強めた。
「いい加減に、俺も見ろってんだよっ」
 ここまで言い切って、悟浄はようやく自分が何を口走ったのかを自覚した。そして、己自身が今まで気づいていなかった本当の胸のうちに気づいて、愕然とする。
 だが、眼前の男の翠の双眸が、大きく見開かれているのを目の当たりにして、悟浄は思わず息を飲んだ。
「あの……それって、まるで……口説いてる、みたいですけど」
 八戒は目に見えて狼狽していた。その態度に煽られ、悟浄はなおも言い募る。
「みたいじゃなくて、口説いてんだよ……っ!」
 そんなこと判れよ、と、一方的に言い切り、悟浄はそのまま踵を返した。無言で八戒の部屋から出て行き、一息にマンションのエントランスまでたどり着いたところで、その入り口付近でふいにしゃがみ込む。
「……だっせえ……」
 それまでの己の醜態を思えば、思わず喉を突いて出るのはこの一言だけだ。
 ここにきて、ようやくすべてを自覚したことに、ただただ呆れるしかない。
 そう、――こんなにも、最初から彼のことが気になっていたのも。彼のことを事あるごとに特別だと、そう思えたのもすべて、初めからそういう意味で彼に惹かれていたのだ。
 いわゆる一目惚れだったのだと、漸う気づかされた。
 ひとたびそうと気づいてしまったら、すべてがしっくりくる。そう思えば、今までわけが判らずみっともなくあがいていた自分が、とんでもなく滑稽に思えてくる。
 とはいえ、いったん自分の本当の気持ちを認めてしまったら、逆にどうしたらいいのか判らなくなってしまい、結局八戒の元から逃げ出してきてしまった。これでは、いくら悟浄が自分の気持ちに気づいたとしても、それはそれで前途多難な気がする。八戒も、いきなり同性から口説かれても困るだけだろう。
かといって、今から彼の部屋に戻るだけの勇気は、今の悟浄にはなかった。
 こんな別れ方をした後、次に八戒と、どう顔を合わせたらいいのか。
 それよりも――明日以降、彼は悟浄の店に再び訪れるのだろうか。
 悟浄は短絡的な己の行動を呪いつつ、大仰に肩を落とした。明日からのことを思うと、鳩尾付近がきりきりと傷む心地がした。








>NEXT

inserted by FC2 system