カサブランカ




「――すみませんが、」
 ここ数日でいやでも聞き慣れてしまった青年の声が、それまで店の奥で黙々と手作業をしていた悟浄の耳奥にふいに飛び込んできた。
 悟浄は作業をしていた手を止めて、ゆっくりと顔をあげる。
 小さな店の入り口に佇む、一人の青年。
 まだ社会人になってそれほど年数はたっていないと思われる容貌でありながら、不思議なまでに落ち着いた感のある男だった。濃茶色の短髪に、硬質なフレームの眼鏡をかけ、かっちりとしたスーツ姿というのが、余計にその印象を強めているふうではある。
 青年は笑顔をたやさぬまま、静かに悟浄を見つめていた。
 ただの客にしては、毎度のことながら悟浄のほうがなんともいえない居心地の悪さを感じる。悟浄はその笑みに対抗するように口許に笑みを貼り付けると、これまたいつもの調子で決まり文句を口にした。
「いらっしゃいませ。――何か御用で?」
 悟浄の問い掛けに、青年は小さく目を細めた。
 それは彼がいつも見せる、感情がまったく見えない微笑。
 その表情を目の当たりにするといつも、悟浄の胸中がわけもなくざわつく。そんな己自身に内心で舌打ちしつつも、悟浄は苛立たしさをごまかすように自らの笑みを深めた。
「それとも、いつもので?」
「……ええ。お願いします」
 これもまた、いつものやりとりだ。
 予想通りの展開に、悟浄は相手に気づかれないよう、たまらず息を吐き出した。それでも、手だけはいつものように動かし続ける。そして、あっという間に、真白なカサブランカ一輪だけを透明フィルムで綺麗にラッピングされたものが出来上がった。
「毎度」
 青年の手に、一輪のカサブランカが渡された。
 青年は物憂げに微笑みながら、それでもどこかいとおしげな表情で腕の中のカサブランカを見つめる。
「ありがとうございます」
 財布から代金分の小銭をきっちり取り出して、青年は悟浄に直接硬貨を手渡すと、客とは思えぬほど丁寧にお辞儀をした。そして、大事そうに一輪の花を抱えて店を後にする。
 その後ろ姿をぼんやりと見送り、悟浄は今度こそ大仰にため息をついた。
「……ヘンな客」
 その変な客が気になって仕方がない自分のことは棚上げして、悟浄はふう、と息を吐きながら天を仰いだ。
 悟浄は駅前の商店街より一本だけ道が外れた路地の一角で、小さな花屋を営んでいる。
 年齢はまだ24歳だというのに自分の店を構えることが出来ているのも、ひとえに十代の頃から本業のほう――フラワーアートディレクターとして才覚を現し、その一線で活躍している実績があるからといえた。本業だけでも十分生活をしていけるだけの収入はあるのだが、元々花に関わることが好きな悟浄にしてみれば、空いた時間を利用してフラワーショップを開くこともまた、自然なことだった。
 とはいえ、本業のほうでそれなりに忙しい悟浄が店頭に立っていられる時間は、意外に短い。開店時の30分程度と、早くて夜の19時以降といった具合で、悟浄が不在の間は見習いのアルバイトに店番をしてもらっている状態である。
 近隣が繁華街ということもあり、他所の花屋より閉店時間を二時間ばかり遅めにしていることも幸いしてか、悟浄が店に入る夜の時間でもそれなりに売上があるのはありがたかった。
 そして、22時の閉店目前にいつも現れるのが、先ほどのサラリーマン風の一人の青年だった。
 確か一週間前にいきなりやってきてから、毎晩、何故かカサブランカを一輪だけ購入していく、奇妙な青年。しかも、最初の第一声は「――本当に紅い花はないんですね」という、悟浄の心の琴線に思い切り触れてくるそれだったから、余計に印象的なのかもしれない。
 しかも、男にしてはかなり造作の整った顔立ちをしている――有態にいえば美人の範疇に入るのだろう――こともあり、カサブランカという随分と派手な花を手にしていてもなんの違和感もないどころか、むしろ似合っていると言っても過言ではなかった。
 花――特に百合のような一輪でも存在感が強い類のものを持って似合う男など、そうそういるものではない。
 そんな彼が何のために、毎日同じ花を、それも一輪だけ買いにくるのか。
 その行動だけで十分興味が惹かれるうえに、さらに初めて来店した時に彼が口にした、紅い花云々の台詞といい、それでも結局買っているのは真っ白なカサブランカという、何もかもが意味不明なところがいやでも悟浄の好奇心を煽っていた。
 これがただの好奇心だけかと言われたら、少々気にしすぎている自覚はある。
 この商売を始めて、たった一人の客に対してここまで気に留めるなど、悟浄にとっては初めてだった。色々な意味で気になることが多すぎる客であることは確かだが、あまり他人に意識を向けることのない悟浄にしてみれば、意外なことこのうえない。
 けれど、それも仕方がないし、と悟浄は誰にともなくひとりごちた。
「オンナなら迷わず口説くんだけど、さ」
 いくら美人で気になってても、ヤローじゃあねえ、と自らに言い聞かせるようにつぶやいて、悟浄はおもむろに大きく腕を伸ばして深呼吸をした。時計を見れば、ちょうど閉店時間になっている。くだんの青年はいつも閉店時間直前に来店するから、大抵彼を見送ったら閉店する、というのが悟浄の日課になりつつあった。
「んじゃ、今日も終わりっと」
 それでも、青年との日々のやりとりが当たり前になりつつあることをなるべく意識しないようにしながら、悟浄は店を閉めるべく片付けを始めた。
 視界に入る、店内に残された売り物のカサブランカを見て、それでも脳裏にあの男の姿が過ぎることに戸惑いを覚えながら。




 ゴールデンウィークも目前となると、日中は気温もそれなりに暖かくなってきた。
 そうなると、商売用の花の移動にも気を使う。温度の変化次第では、せっかく蕾の状態から開花時期を調整して選んだつもりでも、肝心の見せ場の時期よりも早く花が開いてしまったりと、悟浄にとってよろしくない結果になりかねないからだ。
 だから、今日のように夕方からセッティングの予定が入っているほうが、悟浄にとってはありがたかった。 ゴールデンウィーク用に、駅前に建っている大型百貨店がその玄関の両脇を花でデコレイトして欲しいという依頼で、こういった大型商業施設からの依頼は大抵が夕方から夜にかけて一気にセッティングすることがほとんどだった。
 規模の割に他の依頼よりも作業時間が短い分、悟浄にとってはきつい仕事である。他所なら半日かけて行うところを、ほぼその半分の時間で仕上げないといけないのだ。かなり段取りよく作業を進めないといけない。
 それでも、元々が夜に強いタイプだからか、夜間の短期決戦的な依頼は嫌いではなかった。ただ唯一うざったいと思うのは、まさに今のような状態だと、悟浄は諦めぎみに嘆息しながら足を動かす。
 場所的に、すぐ近くまで車で乗りつけることは不可能であるため、ある程度の量が必要な、飾り付け用の花を運び込むには台車を使ったり、なかには自ら手で抱えて丁重に運び込んだりする。
 そして、今まさに、悟浄は両手いっぱいに花を抱えて、目的地まで歩いていた。
 こういう時、時間的にも通勤、通学途中の人ごみと重なることもあり、嫌でも人目を引くらしい。
 悟浄がエプロンを着けていかにも花屋といったいでたちをしていれば違ったのかもしれないが、彼は店頭に立つ時ですらそれらしい格好などしたことは一度もなく、黒いシャツに皮ズボンだったりとアウターショップの店員ではないかと思わせるような洒落た衣装ばかりを身に着けていた。
 しかも、ここでは珍しい紅髪紅眼の持ち主だったから、そんな彼が花なんぞを抱えて駅前を闊歩していては、人々の好奇の目が集中することもいた仕方がないことといえた。
 それでも、己が纏う紅の外見に深いコンプレックスを持つ悟浄にとって、他人の不躾な視線など鬱陶しいことこのうえなかった。
(――なんて、)
 ふと悟浄の脳裏に浮かび上がる、過去の残像。
(なんて――醜い、赤!)
 忘れられない、女の泣き顔と、そして――。
「――ッ!」
 悟浄が意識を現実からそらした、ほんの一瞬の間、ふいに前方から衝撃を感じた。その勢いでよろめいた身体を咄嗟に立て直そうとしたが、それでもぶつかった時の衝撃のほうが強すぎたのか、悟浄の努力はむなしくも叶わなかった。
 まずい、と思いつつも、悟浄の身体だけでなく、腕の中の花までが床に投げ出されてしまう。
 途端、ばさりと、タイル張りの通路一面に広がる大量の切花。そのいくつかは、無残にも花弁が散らばってしまっていた。その有様に、通路に尻餅をついた格好となった悟浄は茫然と息を飲む。
「……ジョーダンだろ……」
 ありえねえ、と、悟浄はその姿勢のまま思わずつぶやいた。これが最後の運び込みだったのだ。突然の思わぬ失態に、現状も忘れて呆けるしかなくて。
「すみませんでしたっ!」
 だが、悟浄を現実に戻したのは、ここで聞くにはおそろしく意外なはずの、聞き慣れた男の声での謝罪の言葉だった。
 悟浄が我に返ったその時、眼前で必死になって散らばった花を集めていたのは、そう――毎日カサブランカ一輪を買いに来る例の青年だった。
 あまりにも意外すぎる再会に、悟浄は知らず瞠目した。
「……ア、アンタ――」
「本当にすみません。これ、仕事で使われるものでしょう?」
 スーツ姿の青年は、長身を屈めて、散乱した小さな花弁も丁寧に拾っていた。ここでようやく、悟浄にも現状を把握するだけの余裕が出てきた。悟浄は周囲のあからさまな視線から逃れるように、伏し目がちにのそりと立ち上がり、青年がまとめてくれていた花の束を手にしてみる。
「うーん……このままじゃ使えねえのも有り、か……」
 無残にも花弁がほぼ落ちてしまった花がいくつかあり、このままではどのみち商品にならないものもかなりある。とはいえ、替わりの花を店まで取りに帰るには、同じ駅前とはいえ悟浄の店はちょうど駅のホームを挟んで反対側にあり、ここから歩くとなると結構距離がある。どう考えてもそんな時間はなかった。
「あの、こうなったのは僕のせいですし、なんでもお手伝いします」
 悟浄の思考を遮るように、聞き慣れた男の声が割って入る。
 その言葉に、悟浄はゆっくりと面をあげて、青年の顔を見た。
 毎晩カサブランカを買いに来る時に見せる、物憂げな――現実感のない表情ではなく、同じ顔でありながら、目の前の彼からは現実味を帯びた、真摯な謝罪の気持ちを感じる。
 彼の言葉を信じてもいいかと、そう思えた。
 それならば、最良の策はひとつ。
「…じゃあ、お言葉に甘えて手伝ってもらってもいいか?」
「もちろんです」
 青年はきゅっと口許を引き結んだ。悟浄はちらりと、眼前の男を流し見ると、おもむろに、手にしていた花の束をすべて彼に渡す。
「俺はもう現場に行って作業を始めないとまずいからさ、俺の代わりに、替わりの花を店まで取りに行って、で、現場まで運んでほしい。俺の店、知ってるよな?」
「え、ええ」
「そしたら、店のアルバイトに――悟空っていうんだけど、そいつにアンタのこと伝えとくから、奴から受け取ったそのままをこの先にあるデパートの一階玄関まで持ってきてくれる?」
 頼むと決めたら、悟浄も相手にはお構いなしで矢次早に指示を告げる。青年は神妙な面持ちで大きく頷いた。
「判りました。タイムリミットは何時ですか?」
「出来れば少しでも早いに越したコトねえんだけど、一時間後なら大丈夫だよな? あ、アンタの名前は?」
 携帯電話で店に電話をしようとボタンを押しかけて、悟浄はふと思いついたように面をあげた。そういえば、この男の顔はよく知っていても、名前を知ることはついぞなかった。
 まさか悟空にそういう客がいる話をしているとはいえ「カサブランカの男が行く」とも言えまい。
「猪八戒、です。貴方のお名前もお伺いしておいていいですか?」
 いちいち口調が丁重な男だ。悟浄とあまりにも正反対の訊き方に、苦笑するしかない。
「俺は沙悟浄。悟空にはアンタが名乗ればオッケーなように話つけとくから、ひとまずこのまま花持って店まで行って」
「了解しました。それでは急いで行って、戻ってきます」
 猪八戒と名乗った青年は深々と頭をさげ、両手いっぱいに花を抱えて足早にその場を後にした。
 その後ろ姿を一瞬だけ見つめ、悟浄も依頼現場に向けて歩き始める。
 商売道具が台無しになるハプニングではあったが、巻き込まれた相手がくだんの青年であったことは不幸中の幸いだったのか。
 後は彼が無事に花を届けてくれることを祈るのみ、だ。
 意外な縁になんとも複雑な心地を抱きながらも、悟浄はここでようやく携帯電話に向き直り、自分の店に電話をかけ始めた。








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