カサブランカ




「お疲れサン」
 ティン、とグラスが合わさった高い音色が小さく響く。
「はあ、どうもお疲れ様です」
 カウンター席の一番奥の端に、二人並んで席につく。狭い室内の照明はほとんど落とされていて、テーブルに点々と置かれたランプの淡い光がしっとりとした大人の空間を演出している。
 BGMはゆったりとしたクラシック。バーというには少々上品な雰囲気すら醸し出しているその店に、今日の大仕事が終わった後、八戒を誘ったのは悟浄だった。
「結局、最後までしっかり手伝わしちまって悪かったな」
 悟浄にしては珍しくスコッチウイスキーをロックであおりながら、横に腰掛けている男へと話し掛ける。
「元はといえば貴方にぶつかってしまった僕が悪いんですから、当然ですよ」
「そうかあ? ま、確かに手伝ってもらってすげえ助かったんだけど」
 そう、――結局、あれから無事に代替の花を現場まで八戒に届けてもらった後も、手伝いたいという彼の言葉にしっかり甘えて、最後まで色々と手を貸してもらったのだ。元々器用で、しかも頭がよいのだろう。悟浄の指示を的確に要領よくこなす八戒に随分と助けられ、予定より一時間も早く作業が終了したのだった。
 そこで、お礼の意味もこめて、飲みに行こうと彼を誘ったのも、悟浄にしてみれば自然な流れだった。時間的にも居酒屋よりはバーだろうと、悟浄が気に入っているこの店につれてきたのだった。
 どちらかというと、悟浄よりも八戒のほうがこのバーの雰囲気にあっていた。それをどこか満足げに思いながら、悟浄はハイペースでグラスを空けた。
「悟浄さん、お酒、強いんですね」
 そういう八戒も、なかなかいいペースで飲んでいる。確か、悟浄と同じものを頼んでいたはずだから、結構アルコールの度数は高いはずなのだが。
「アンタこそ。…っつーか。『悟浄さん』はヤメテ。気持ち悪ぃし」
「はぁ……でもそうしたらなんて? 『沙さん』も駄目でしたよね?」
 見かけによらず、なかなかすっ呆けた返答をする男だ。
 悟浄はわずかに目を瞠り、困ったように口先を尖らせた。
「……そー言ったらフツーは、呼び捨てでいいのねーとか思わねえ?」
「ああ、すみません。そういうものなんですね」
 勉強になりました、と笑う彼を意外そうに眺めて、悟浄はますます瞠目した。
「アンタ、面白いな」
「そうですか? 面白くない男だとは、それこそもう聞き飽きたぐらいに言われますが」
 やはり愛想よく笑いながら、真面目な口調で切り返される。
 それまで勝手に悟浄が抱いていた青年へのイメージがことごとく覆されることに爽快感すら覚える。悟浄は愉しげに口の端をあげた。普段目にしていた、客としての彼よりも、目の前の彼に好印象を持った。
「うん、面白れーんじゃね? 俺は『悟浄』でいいから、アンタのことも……『八戒』でいい?」
 彼の名前を口にする時、何故か一瞬だけためらいを覚えた。だが、あえて気にしないようにして、悟浄は相手の様子を窺うように問い掛ける。
 八戒は悟浄がその名を口にした途端、かすかに目を瞠った。その時、初めて眼前の彼の双眸が深い青緑色をしていることに気づく。悟浄はその翠に惹かれるように、思わずじっと彼の瞳を凝視した。
「もちろん。――……悟浄?」
 八戒の訝しげな声音で我に返る。悟浄はぱっと視線を外すと、決まり悪げにそのまま宙に泳がせた。そして、手にしていたグラスをわざと回して、グラス内の氷をカラカラと鳴らした。
「あ、あぁ……八戒の目、緑色なんだなーって」
「……気持ち悪いですか?」
 予想外の彼からの返答に、悟浄はすぐに言葉を返せなかった。
 黙って八戒を見つめ返した悟浄に向かい、彼は困ったように微笑む。
「珍しい色だから、気味悪がられることが多くて。……貴方のように、綺麗な赤ならよかったのかも」
「そんなことはねぇよ」
 悟浄は残りの酒を一気にあおり、即座に同じものを追加でオーダーした。空になったグラスをいささか乱暴に、カウンターのさらに上部の出っ張ったスペースに置いて、横目でちらりと八戒を見やる。
「……悟浄」
「アンタの緑はキレーだと思うけど、俺のはどーだかね」
 くく、と、たまらず自嘲の笑みがついて出た。そして、ふいに思い出す。
 確か、彼が初めて悟浄の店に訪れた時に口にした、あの一言を。
「なあ、訊いてもいい?」
 コトリと、悟浄の前に酒の入ったグラスが置かれる。それをすぐさまあおって、悟浄は凝る蟠りを吐き出すように深いため息を漏らした。
「何を、ですか?」
 八戒は先ほどから、まったく酒に手を出さなくなっていた。まだ大丈夫でもわざと飲まないのかそれとも既に限界なのか、その真意は定かではないが、少なくとも酔いが回り始めた悟浄と違い、あきらかに素面に見える。
「初めてうちの店に来た時にさ……なんであんなコト、訊いたワケ?」
「あんなこと、ですか?」
 まだ一週間しかたっていないのに、覚えていないわけでもないだろうに。それともわざととぼけているのだろうか。八戒の要領を得ない返事に苛々しながら、悟浄はむっと口許を歪める。
「『本当に紅い花はないんですね』っつったっけ? のっけからナニ言ってんだ?って思ったからさ」
 確かに悟浄の店には、売り物としても、また展示用としても、紅い花はひとつもない。
 それはもちろんわざとなのだが、――この界隈では悟浄の店に紅い花が置かれていないことなどすっかり有名になってしまっていたから、それをわざわざ口にする客など誰もいなかったのだ。もちろん、そのことを知らない新規の客が訪れることもあるが、普通はあえてそういったことを口にしたりはしない。
 それなのに、初めて来店した時の八戒の口調は、悟浄の店に紅い花がないことを知っていて、あえてその事実を確認した、といったものだった。だから、ことさら気になったのかもしれない。
 悟浄の纏う赤が話題にあがったからこそ、ずっと気になっていたこのことを、あえてここで訊いてみたいとそう思ったのだ。
 悟浄はさらに酒を飲んだ。そろそろ本格的に酔いが回ってきたが、それでも飲まずにはいられない、そんな気分だった。
「実は僕、貴方に会ったのは、あの日が初めてではないんですよ」
「――は?」
 思ってもみなかった返事に、悟浄は紅瞳を丸くした。
「もしかして俺たち、どっかで会ってた?」
 商売柄、人の顔を覚えることは得意な悟浄をして、初来店より前に八戒と顔をあわせた記憶はまったくなかった。怪訝に眉をしならせる悟浄に、八戒は微苦笑を浮かべる。
「いえ、正直に言えば、僕のほうが一方的に貴方のことを知っていたというか。ええと、確か一ヶ月ほど前、貴方、駅地下のエントランスの階段のところを真っ白な花だけでコーデネイトされていたでしょう。あの仕上げの作業を実はずっと見ていてですね」
「……へぇ」
「あそこは階段も白いから、そんな白い空間の中に悟浄の赤がひときわ映えていて綺麗だな、と素直に思いました。そう、まるで……血のようにあざやかで、何より綺麗で」
「――」
 その言葉に、ぞくりと、瞬時に鳥肌がたった。
 うっとりとした口振りでとんでもない台詞をさらりと口にした男を、悟浄は呆然と見つめた。
「そこで、貴方が花屋をしていると聞いたので、それなら一度行ってみたいと思ってようやく見つけたのがあの日だったんです」
 くすり、と八戒の唇が綺麗に弧を描く。
 それは先ほどまで悟浄が対峙していた彼とあきらかに醸し出す雰囲気が違っていた。むしろ、毎晩悟浄の店に訪れる時に感じる、どこか危うさを内包した、憂いを帯びたもの。
 情緒不安定、といってしまえば、そうなのかもしれない。けれど、八戒にはその一言だけでは済まされないような何かがあるような気がした。
 悟浄がこう見えて、今なおその心に大きなトラウマを抱えているように、彼――八戒という男もまた、癒えぬ疵を抱えているのか。
 常ならば、間違いなく拒絶してしまうだろう赤に関わるその言葉に対して、驚きは覚えても、いつものような嫌悪感を覚えない己自身が不思議だった。それは悟浄にとって、八戒が特別だからなのか。とはいえ、出会ってまだ、たった一週間たったばかりの男に対して抱くには、あまりにも不可解な感情だった。
「……つうか、誰に聞いたんだ? 俺が花屋だって」
 悟浄はゆるゆると息を吐き出しながら、彼からそっと顔をそらした。 「確か、三蔵さんと言われましたか……、その場でちょうど声を掛けられて、それで知りました。ただお店の場所までは教えてくれなかったので、探すのに少々時間がかかってしまいましたが」
 ――三蔵かよ、と、悟浄は内心で嘆息する。
 玄奘三蔵は、悟浄にフラワーアートの仕事を斡旋してくる広告代理店のオーナーだった。悟浄がこの仕事を始めてからの付き合いだから、いい加減に気心もしれている。決してウマが合うとはいえないが、それでも公私ともにいい形での付き合いが続いていた。
 八戒が言うあの仕事は、三蔵から回ってきた依頼だったから、彼も作業現場に最後まで居合わせていたのは確かだった。
 いつの間に八戒に声を掛けていたのか。悟浄は憮然としながらも、面を伏せたまま話を続ける。
「で? 紅い花を期待して来たんだ? 残念だったな、俺、紅い花を取り扱わないんでユーメイなんだけど」
「ええ、三蔵さんからもそう聞いていたんですが……、でも僕は、紅い花を期待して貴方のお店に行ったわけではないんですよ」
「じゃあナンで」
「多分……貴方から『あの花』を受け取りたかったんだと思います」
 ――いったい、何を言っているのだろう。
 悟浄は思わず固まってしまった思考を、どうにか動かそうと試みるが、八戒が何を言いたいのかさっぱり判らない。
 否、本当はその言葉の意味を、理解したくないのかもしれない。彼の云わんとすることの意味を判ってしまったら、悟浄の中で何かが変わってしまう。そんな得体の知れない予感が、ひしひしと悟浄の胸裏を過ぎるのは、きっと気のせいではないはずだ。
 悟浄は、掌中のグラスをぎゅっと握り締めた。その掌にじんわりと湿ったものが滲む感触がする。それはあきらかに嫌な汗だった。
「あの花って……カサブランカのコト?」
 それでもなお、訊かずにはいられなかった。
 自ら話を繋いでしまったことにかすかな後悔を覚えながらも、悟浄はグラスに視線を落としたままで。八戒のほうを見ることが出来ないでいた。
「ええ。貴方から受け取れば、きっと吹っ切れるかな、と思って」
「……」
 ますます、彼の言いたいことが判らない。
 そもそも、あのカサブランカになんの意味があるのか。それを、悟浄から受け取ることで、八戒は何を吹っ切ろうとしているのか。肝心なところが何ひとつ見えない。
 さらに、悟浄の本来の質問に対する回答にさえもなっていない。
 これにはさすがに、返答に窮する。悟浄は苦り切った表情を浮かべて、肩まで伸ばした長い前髪をくしゃりと掻きあげた。
 ここで疑問点を悟浄から訊くべきなのか逡巡していると、悟浄の様子がおかしいことに気づいたらしい八戒が、おもむろに口を開いた。
「すみません。いきなりこんなことを言われても困りますよね」
「……まあ、な」
「自分でも、これではまるで、貴方を口説いているみたいだなあって」
「そうだな、確かに口説かれてるみてぇ………………はぁ?」
 あはははは、と困ったように笑う男の顔を、悟浄は今度こそ呆然と見つめ返した。
 あまりの爆弾発言に、一気に酔いが押し寄せてくる。そんな感じだった。




 八戒と初めて飲んだ翌日、二日酔で派手に痛む頭を抱えて、悟浄は花屋の奥にぼんやりと腰掛けていた。
 あまりにも酷い頭痛に、余程仕事を休もうかとも思ったのだが、今日は幸いにも本業の仕事が入っていなかった。それなら自分の店で店番だけしていればいいか、と、悟浄は重い頭を引き摺るように出勤してきたのだった。
 幸か不幸か、金曜日にも関わらず、訪れる客はほとんどいなかった。本来ならそれなりにかきいれ時である夜になっても、客足はない。珍しくもほとんど開店休業状態に、今日ばかりはありがたいと思いつつ、ちらりと時計を見やる。
 あと十数分もすれば、閉店時間を迎える。
 ということは、もうすぐ八戒も現れるのだろう。
 そう思った途端、ふいに昨晩の彼のことを思い出し、悟浄は大きなため息をついた。
 ――不思議な男だと、つくづく思う。
 そして、そんな彼のことが気になって仕方がない自分自身が一番不可思議だと、悟浄は思う。
 いくら顔が美人で悟浄の好みだからと言っても、相手は男なのだ。それに、昨晩のようなやりとりをすれば、普通ならまず引くはずのところを、引くどころかますます気になっている。そんな己の心境が一番不可解だ。
 今、この状態で八戒と顔を合わせても、いったいどういう顔をしたらいいのか悟浄には判らなかった。まったく自分らしくない。らしくないからこそ、余計に戸惑いを覚えるのも確かで。
 悟浄はさらに深く吐息した。出来るならもう、今晩は来ないでくれてもいい、そう思ったまさにその時だった。
「――こんばんは」
 たった今、悟浄が思っていた男の声が、店の入り口から聞こえてきた。
 いつも通りの時間に、違わぬタイミングで現れた男を、悟浄は正面から見つめる。
「……いらっしゃい」
 どこか気の抜けた態の悟浄に、八戒は小さく微笑んだ。それは苦笑に近い笑みだった。青緑色の目を軽く細め、悟浄を見つめ返してくる。
 昨日までとあきらかに違う、彼が見せる親密な態度に、悟浄のほうもそれまでの微妙なぎこちなさを払拭するかのように笑みを深めた。
「昨日は色々とありがとうございました」
 それでも丁寧な口調はあいかわらずなままだ。気にはなったが、あえてそのことは口にはしないで、悟浄は軽く肩をすくめた。
「こっちこそ。アンタは二日酔、ダイジョーブだった?」
「おかげさまで。そういう悟浄は……もしかして」
「そ、見事に今日は撃沈ってカンジ?」
「それはご愁傷様でした。今日は早く休んだほうがいいですよ?」
 客として来ている彼に気遣われるのも不思議な感じがする。少なくとも、昨日までなら絶対にありえない彼との会話に、自然と口許も緩む。
「サンキュ。で、今日は?」
 やはり今日もいつもと同じく、カサブランカ一輪なのだろうか。昨晩の会話のせいで、今まで以上に、八戒がカサブランカにこだわる理由が気になっていた。
 八戒は、形よい唇にゆったりとした笑みを刷いて、ゆっくりとカサブランカが数本入った花瓶を指差した。
「はい。――これを一本、お願いします」
 そして今日もまた、いつもと同じオーダーだった。
 カサブランカを目にした時に一瞬見せた、彼のあまやかな笑み。その微笑を目の当たりにして、悟浄の胸裏に重い鉛の塊がずしりと埋め込まれたような、そんな錯覚すら覚えた。
 瞬時に胸奥に走ったその痛みをこらえるよう、悟浄はわずかに眉宇をしかめた。これではまるで、カサブランカに嫉妬しているみたいだ。そう思えば、ますます居たたまれない気がした。
「……もしかして、かなり二日酔が酷いんですか?」
 心配そうに尋ねる八戒の声音に、悟浄は我に返った。
 今はまだ仕事中だ。それを一瞬でも忘れかけたことに自己嫌悪しながらも、まずは目の前の注文をこなすことが優先とばかりに、悟浄は手慣れた動作でカサブランカ一輪をラッピングする。
「や、二日酔のほうはそんなでもないから。……はい」
 透明フィルムに綺麗に包まれたカサブランカ一輪を、八戒に手渡す。
 八戒は丁寧な仕種でそれを受け取ると、そっと視線を落とし、いとおしそうな笑みを浮かべて、その花を見つめた。それは先ほど見せた表情と同じだった。
 つきりと、悟浄の胸中に鈍い痛みが走る。知らず悟浄は苦しげに紅眼を眇めた。
 そんな悟浄の様子に気づいているのかいないのか、八戒はいつも通り、代金分の硬貨をきっちりと、悟浄へと渡す。掌に硬質の金属がのせられる感覚をぼんやりと意識しながら、悟浄はおもむろに口を開いた。
「――なあ、」
「はい?」
 悟浄の問い掛けに、八戒は律儀に答えながら白皙の貌をあげた。
「なんで……カサブランカなんだ?」
「――」
 思ってもみない質問だったのか、悟浄の口からその言葉を聞いた途端、八戒は判りやすく瞠目した。あきらかに返答に窮している様子が手に取るように伝わってくる。
 彼のうろたえぶりに、今この質問を投げ掛けるには時期早々だったのか、と苦いものが悟浄の胸裏をかすめる。おそらく昨晩のやりとりからしても、彼の不安定さの鍵はこの花だと悟浄も気づいていたからこそ、その意味さえ訊くことが出来ればと、そう思っての問い掛けだった。
「あ、……その、悪ぃ」
 思わず悟浄の口から謝罪の言葉がついて出た。それをきっかけに、ひと時表情を無くしていた八戒の白皙に、感情の色が戻る。彼は微苦笑を浮かべて、正面から悟浄を見据えた。
「なんでしたら、これから僕の家に来ませんか?」
「……え」
 今度は悟浄のほうが大きく瞠目する番だった。
 思ってもみなかった展開に、馬鹿みたいに八戒を見つめ返すしかない。
「一人暮らしですから、遠慮はいりませんよ。それに何より……カサブランカ、なんでしょう?」
 悟浄の胸中を見透かすような、彼の言葉。
 八戒に深入りしないでおくなら、ここははっきりとその申し出を断るべきなのだろう。だが、その危機感よりも、今の悟浄は彼を知りたい気持ちのほうが強かった。ほんの少しだけ迷いつつも、己の気持ちに正直になれば、おのずと答えはすぐに出る。
「これから店閉めるから。……少しだけ、待っててくれる?」
「ええ、構いませんよ」
 にこりと、穏やかに微笑む八戒の眼鏡の奥の双眸が、ゆっくりと細められる。
 その笑顔に、何故か底知れぬ居心地の悪さを感じて、悟浄はその視線から逃れるように閉店準備に没頭した。








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