煙草




「どうしてあなたも悟浄も煙草を吸っているんですかねえ」
 コーヒーのサーバーを手に、唐突に八戒が口をひらく。その台詞に、口に煙草を銜えたままいつもの仏頂面で新聞を読んでいた三蔵は、いぶかしげな視線を彼へと向けた。
 その三蔵の視線に気づいて、八戒はにこりと微笑んだ。どこか含みを感じさせるいやな類の笑みに、三蔵は柳眉をよせてじろりと八戒をにらみつける。
 いったい、何を言い出すのかと思えば。
「禁煙しろ、なんてぬかしたらコロスぞ」
「そんな事、言うだけ無駄でしょう? 言ってきいてくれるような方々なら、とっくの昔に言ってますよ。そうじゃなくて、ですね」
 一旦言葉をくぎって、八戒は三蔵用と自分用のマグカップにそれぞれコーヒーを注ぎ、三蔵用のカップを彼の前の机上に置いた。入れたてのコーヒーの濃厚な香りがたちこめる中、八戒は自分用のカップを手に再度三蔵へと向き直った。
「ただ単純に、どうして煙草を吸っているのか疑問に思っただけです。ほら、よく言うじゃないですか。口寂しいからとか」
 三蔵もそうなんですか、と笑顔で尋ねられ、三蔵はますます嫌そうに顔をしかめた。八戒の質問の真意がいまいちつかめない。
「そんなこと、お前に関係ねぇだろうが」
「うーん、僕としては関係なくもないんですけど。悟浄のアレはともかくとして、三蔵の場合あまりおいしそうに吸っている風でもないですし」
 三蔵の向かいの席に腰をおろし、コーヒーをすすりながらじっと見据えてくる八戒に、三蔵はそれまで吸っていた煙草を苛立たしげに灰皿へと押しつけた。何か言いたげな八戒の視線をまともに浴びながら吸い続けることのほうが面倒だ。三蔵はそう結論づけると、おもむろに彼の入れてくれたコーヒーへと手をのばす。
 そう。
 時折、三蔵が煙草を銜えていると、八戒は今のような思わせぶりな、それでいて諦めを孕んだような何とも言いがたい視線を向けてくる。気づいてはいたが、面倒だから放っておいた。だが。
 いつもより、その視線をきつく感じるのは三蔵の気のせいなのか。コーヒーを口に含みつつ、眼鏡越しにちらりと八戒を見ると、目が合った途端彼は困った風な笑みを浮かべて目を細めた。
「何ですか、三蔵?」
「俺が煙草を吸おうがどうしようが俺の勝手だろ。だから、お前にどう関係があるっていうんだ?」
「…そう返されると思っていましたけどねえ」
 八戒は苦笑まじりにつぶやくと、手元のマグカップへと視線を落とす。
「まあ、確かにあなたの勝手ですけどね。ただ、――煙草を吸っている時のあなたは僕を見ていないでしょう。それが少し、気にいらないだけです」
 くだらないことですけど。そう自嘲まじりに言い切られ、三蔵は思わず目の前の彼を凝視した。
 まったく、――本当に何を言い出すのか、この男は。
 三蔵は呆れた様子を隠しもしないで、これ見よがしに深いため息をついた。不本意ながら、八戒が言いたいことが解ってしまったから、余計に呆れた。
 確かに、煙草を口にしている時の三蔵はたいてい何か考え事をしていることが多い。その姿を見て、八戒は三蔵が自分の事以外に意識を向けていると、そう思ったのだろう。あながち間違ってはいないと思う。だが、そこで八戒のことをまったく考えていなかったかというと、そんなことはなかった。しかし、それを八戒に解れというほうが無理な話だろう。
 三蔵にとって煙草とは、どちらかというと好きで手を出しているというよりも、精神安定剤的な意味合いのほうが強い。煙草がないと生きていけないという程愛飲しているわけでもないが、それでなくても最近は吸わずにはいられないことばかりで、明らかに一日に消費する煙草の量が増えたことも三蔵自身自覚していた。
 一種の中毒みたいなものだ。あの、重い濁った紫煙が肺の奥を満たす一種独特の感覚は、一度深みにはまったら止められなくなる。
 ……まるで、目の前の男のようだ。そう心中でつぶやき、三蔵はくつりと喉を震わせて嗤った。まったく、くだらない。でも、一番くだらないのは判っていて囚われている自分だと三蔵は思った。
「くだらねぇな」
 自分自身に言い聞かせるような三蔵の言葉に、八戒はゆっくりと顔をあげて三蔵を見つめ返した。そして、うすく微笑む。
「ええ、判ってはいるんです。…ただ僕も勝手だから、どうしても気になるんですよ。こんなこと、あなたに言っても仕方ないんですけど」
「まったくだな。そんなに気になるんなら、お前も吸ったらどうだ?」
 三蔵は八戒が煙草を嗜むところを見たことがなかった。だから、存外に自分は止める気などさらさらないという意味も込めて、八戒に言葉を投げかける。すると、八戒は一瞬わずかに目を瞠ったが、すぐに微苦笑を浮かべて、それまで手に持っていたマグカップをことりと机の上に置いた。
「僕は煙草はいいです。…手を出したことがない訳じゃないんですけど、あれはクセになるでしょう。だから、止めました」
「…厭味か、それは」
「あははは。そう聞こえました? でも、僕は弱いから、…一度はまると抜け出せなくなると思って。お酒と違って、酔える分溺れちゃいそうだなあと」
 自分の感情をもてあましてどうしたらいいのか判らないといった表情を浮かべて、八戒は翡翠の双眸を三蔵へと向けた。その感情に揺れる視線を三蔵は逸らさず受け止める。それへ、八戒はふわりと笑みをこぼした。その笑みは、ひどく三蔵の心を捉えた。
「僕はもう十分あなたに溺れているから、――それだけでいいです」
「――」
 あんな表情で、こんな台詞を言い切られて、三蔵は全身がざわりと泡立つような眩暈にも似た酩酊感を覚えた。そして、彼に気づかれないように小さく舌打ちをする。煙草より何より、この目の前の男が一番――たちが悪い。
 だが、このたちが悪い男を手放す気などさらさらなかった。煙草なんかよりも、もっと重くて、三蔵を深みにはまらせたまま、それでいてなお凶悪な笑みを絶やさぬまま自分を追いつめてくる――彼を。
 三蔵は不意にマグカップを机上に置くと、その勢いのまま八戒の右腕を引き寄せ、口づけた。彼の体温に触れた途端、八戒の肌の熱を思い出して、より一層深く口唇をあわせる。ぐいと右手で彼の後頭部を掴み引き寄せると、八戒が苦しげに息を呑むのが伝わってきた。
 このところ野宿続きで肌をあわせる機会がなかったから、一度触れ合わせてしまうと、熱が上がるのは早かった。机をはさんだ距離のあるもどかしい接吻に、三蔵のほうが気にいらないと一旦口唇を離す。最初から容赦なく一気に熱をあおるような口づけに、八戒のほうもすぐに息が上がったようで、目元をうっすらと朱に染め、少しうるんだ瞳でうらめしげに三蔵をにらんだ。
「…何ですか、いきなり…」
 しかし、それは、三蔵の目には凄絶な色香をはなつ表情にしか映らない。三蔵はすっと眦をすがめ、くつりと口の端を上げた。そして、強引に八戒の躯を寝台へと押し倒す。あまりの展開に驚いた八戒が目を見開いたまま、自分を組み敷く男を凝視した。
「あの、三蔵、」
「…お前が悪い」
「…はい?」
「だから、責任とれよ」
 そうささやいて、三蔵は八戒の耳朶を甘咬みする。それに反応して八戒はぴくりと躯を震わせたが、しょうがないですねぇと、わざとらしくため息をついてみせた。
「何が『だから』なんですかねえ…、ふっ…」
 八戒の両腕が三蔵の背中へと回される。それを彼の了解の合図と受け取った三蔵は、眼下の男へと意識を沈み込ませた。
 ――果たして、より深く溺れているのはいったいどちらなのか。
 ただ一つ言えるのは、三蔵が、決して煙草を止めることも、そして八戒を手放すこともないだろうということだけ。でも、今はそれだけで十分――。
 三蔵は自嘲の笑みを浮かべて、八戒へと口づけを落とした。――これから、彼のすべてを奪い尽くすために。








FIN

「をさをさしからず」様へ進呈。

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