誓約




 かりかりとペンを走らせる音が、雑然とした室内に響く。
 めずらしく机について、面倒くさそうに顔をしかめつつ、天蓬は報告書を書いていた。時折たいして手入れをしていない己の髪をかきむしりながら、次から次へと煙草を咥えつつ。
 いつもなら捲簾に書かせるものを、たまたま彼がいないうちにすぐにでも提出せねばならない急ぎの事案だからという上司の命令により、天蓬は不本意ながら手をつけていた次第である。
 こういう面倒な報告書を書きたくなかったからこそ、元帥という地位を手に入れたというのに。
 ここにはいない、下界に遠征に出ている部下でありながら上官である軍大将の悪びれない笑顔を思い浮かべ、天蓬はますます不機嫌そうに眉宇をしかめた。
 今回の出征は、その程度からして小隊ひとつ分で十分、との上の判断により、捲簾が直接率いる一小隊だけが降りることとなった。
 遠征ぎりぎりまで、捲簾の部隊か、それとも天蓬率いる部隊のほうを派遣するかでもめたものの、最終的には捲簾の要求が通り、かわりに天蓬は苦手なデスクワークをする羽目になった、とそういうことで。
 こういう仕事をかわりに引き受けてくれるであろう天蓬の副官は、今はいない。今回の任務に必要だから、と、彼だけは捲簾が随行させたからだ。返す返すも、最後の最後で折れてあの男を行かせるのではなかったと激しく後悔しながら、それでも天蓬は一応自分の果たすべき役目をこなすために厭々ながらもひたすらペンを走らせ続ける。
 だが、それもいい加減苦痛になってきた。
 一旦手を止め、まだ半分しか書けていない紙をじっと凝視しつつ、天蓬は深々と嘆息した。
 この落とし前は、捲簾が帰ってきてから倍返し、と天蓬が自分のことは棚に上げて不穏なことを思った、その時。
「――失礼します、閣下!」
 激しいノックの音と、部下のどこか焦燥感にあふれた掛け声がほぼ同時だった。
 あわただしい態度を隠しもしない将兵に、天蓬は何事か、と胡乱げに顔を上げる。
「どうしました」
「今、捲簾大将以下遠征軍が帰還しましたが、――此度の遠征で、大将が重傷を負われ、意識不明の重体だそうです。そして、たった今急ぎ医務棟に搬送されたとのことですっ!」
 部下の言葉に、天蓬は大きく目を見開いた。
 あの、――男が。
(――重傷、だと?)
 部下の様子からして、その傷の程度がかなり深刻なのは、見て取れた。しかし。
「判り、ました」
 心中の動揺とはうらはらに、天蓬はおそろしく冷静な口調で返事をする。かたり、と、事のほかゆっくりとした動作で政務椅子から立ち上がった。
「報告ご苦労様でした。指揮官がその状態なら、次官は誰でしたっけ、……ああ、もしかして泰軌ですかね」
 己の副官の名を上げながら、天蓬はきびしい表情を面に貼り付けて、まっすぐ歩き始める。
「はい、此度の次官は泰軌中将です」
「それなら、泰軌に僕のところへ報告に来させるように。ああ、僕はこれから竜王閣下のところに行きますから。その前に、すぐに来るように、と」
「かしこまりました!」
 天蓬の指示をうけて、あわただしく立ち去った下士官を見送ることなく、天蓬は白衣の裾をなびかせながら部屋を後にした。いつもよりは早足で、自分の上司である西海竜王のもとへと向かう。この度の遠征の成果自体は、既に彼の元には報告が入っているはずで。そして、天蓬は、立場的にもその詳細を知る権利があるわけだ。
 どのみち、元帥という立場として、捲簾が重傷で動けないのならば、彼にかわり戦果の報告をしなければならない。
 少し離れた竜王の政務室へと向かう道すがら、天蓬はぎり、と苛立たしげに奥歯を噛みしめた。
 とにかく、腹立たしかった。何もかもが。
 天蓬のいないところで、重傷を負い、生死の境をさまよっているらしい捲簾の迂闊さ、と。
 何より。
 その報告を聞いた途端、信じられないくらい動揺した己の心、と。
 そして、今なお。
 意識していなければ震えがくるほど、叫び出しそうなほど動揺している己自身、が。
 ――腹立たしくて、仕方がなかった。





 ――バタンッ!
 天蓬が怒りにまかせて、力いっぱい個室の扉を開ける。派手な音を立てて開かれたそれに、その部屋の主である捲簾が、ぎょっと目を見開いて音のしたほうへと顔を向けてきた。
「天蓬?」
 寝台に上半身を起こして、怪訝そうに見つめ返す捲簾を、天蓬はますます冷えた視線で見据えた。
 確かに。
 剥き出しの上半身には、肌がみえないくらい白い包帯がぐるぐる巻きにされ、傷だらけの左腕には何の液体だか判らないものが点滴されていて。頭部にもまた包帯が痛々しげに巻かれている。その状態だけで、捲簾が大怪我を負ったことくらいは、十二分に判る。
 だが。
 意識不明の重体だ、と、聞かされていたにもかかわらず、いや聞いた矢先だというのに、何故捲簾はこんなにも元気そうなのか。
 泰軌から事の詳細を聞き、西海竜王に報告を済ませて、天蓬は即医務棟へ足を運んだ。その間、いったい天蓬が何を思っていたかなど、死んでも誰にも知られたくないほどの焦燥と激情を抱えつつ、ある種の覚悟をもってここまで来たというのに。
 報告を聞く限りでは、てっきり集中治療室に運びこまれるほどの重傷だと思っていた。なのに、医務棟に着いた途端捕まえた顔見知りの医師に捲簾の状況を聞いた途端、――怒りで、一気に天蓬の頭がいっぱいになった。
 医務棟に運びこまれた時は確かに意識はなかったが、それは強い脳震盪を起こしていただけで、たまたま目覚めるのに時間がかかっただけだ、と。ただし、外傷と打ち身はかなり酷い状態だから、個室で寝かせているけれど捲簾本人は意識もはっきりしているし、いたって元気だと。そう、聞かされた瞬間、天蓬はあまりの怒りに、逆にすっと頭の芯が冷え切るような心地さえ、した。
「ナニ、お前、もしかしてめっちゃ怒ってる?」
 ものすごい勢いで部屋に飛び込んできたはいいものの、そこから一歩も動くことはないまま、無言で、感情も何も一切を殺ぎ落としたような表情で見つめ続ける天蓬をちらりと見て、捲簾はばつが悪げに視線を泳がせた。
 そんな捲簾の態度が、天蓬の怒りにますます火をつける。
 天蓬は、漸う動き出し、ゆっくりと捲簾のいる寝台まで近づいた。あいかわらず言葉を口にすることはないまま、静かに捲簾を見下ろす。じっと、互いの視線が交錯した。
 その、刹那。
「――おわっ!」
 それまで口に咥えたままだった煙草を――本来なら医務棟は禁煙なのだが、誰も天蓬の雰囲気に呑まれて注意すら出来なかったらしい――徐に手に取り、天蓬はまっすぐに捲簾の右足太もも目掛けて、火のついたその先を押し付けようとした。その、天蓬の突拍子もない行動に咄嗟に気づいた捲簾が、既(すんで)のところで煙草をかわす。かわりにその先端を受け止めた寝台が、じり、と焦げて鈍い燻し音をたてた。
 白い敷き布の上に、黒い小さな焦げ痕が出来る。
「てめェ、ナニしやがる!?」
「何って、見たそのまんまです」
 なんで避けるんですか、と、天蓬が悔しそうに言い募ると、目に見えて捲簾が大きく息を吐いた。
「お前ねぇ…、こんなのまともにくらっちゃ、火傷すんだろーが」
「自業自得ですよ、貴方の場合」
 吐き捨てるように言う天蓬の言葉に、捲簾はさらに深々とため息をもらした。空いているほうの腕で、己の短く切りそろえられた髪を、くしゃりとすき上げる。
 そんな捲簾の仕種を、天蓬は黙って見ていた。だが、ふいに込みあがる想いに、きゅっと小さく下唇を噛む。思わず眇めた双眸が、鈍くきらめいた。
 こんなにも。
 こんなにも、捲簾に囚われている自分など、気づきたくはなかった。
 彼がもしかしたら目の前からいなくなるかもしれないと、そう思った時のあの胸中に渦巻いたどうしようもない想いに、気づきたくなんかなかった。
 それなのに、この男は、天蓬の葛藤などどこ吹く風、と云わんばかりに飄々としていて。それが無性に腹立たしかった。だから、まるで八つ当たりのような態度を取ってしまった。
 そう、判っている。これは、完全に八つ当たりだ。
 捲簾に、思っていた以上にずっとずっと深く深く惹かれていることに気づかされて、動揺して、ひとりで腹を立てて。けれど、捲簾はちゃんと今、天蓬の目の前にいて。
 どうしようもなく安堵したからこその、八つ当たり。
 捲簾が呆れていることは、天蓬にもはっきりと伝わっていた。だからといって、天蓬がしおらしく謝るとは思ってもないだろう。捲簾のため息に、そんな彼の思いが見え隠れしていて、天蓬は彼に気づかれないよう心中で嘆息した。
 捲簾は再度苛立たしげに前髪をかき上げると、つ、と、天蓬を見上げてきた。思いのほか真剣な面持ちの彼に、天蓬は短く息を呑む。だが、捲簾が口を開く前に、天蓬はわざと吐き捨てるように言った。
「本当に馬鹿、ですよね、貴方」
「――ああ?」
 ぴくりと、捲簾の片眉が跳ね上がる。それを目の端に捉えながらも、天蓬はさらに言葉を続けた。
「泰軌からすべて聞きました。貴方、泰軌たちが止めるのも聞かないで、皆でかかってもどうにもならなかった巨大な式神の懐に、ひとりで飛び込んだんですってね。確かに、ひとりで敵を惹き付けたほうがうまくいくこともありますけど、はっきり言ってそれで吹っ飛ばされて大怪我していたんじゃ、話にならないですよ」
「てめェに言われたかねーな」
「結果オーライですけどね。その作戦は確かに成功して、敵は倒せました。けれど、どう考えてもそれは無謀以外の何ものでもないでしょう」
「……そん時の指揮官は、俺だ。で、そん時は、俺がひとりで囮になることが最善の策で、勝算があると踏んだから遂行した。それによって負った怪我は、俺の不注意以外の何モンでもねぇ。そのことを軽率だって怒ってんのなら、謝る」
 天蓬とちゃんと目を合わせて、いさぎよく頭を下げた男を、天蓬はますますきつく見据えた。まるで、射殺しそうなほど、きつくきつく。
 己の胸裏を渦巻くこの想いごと、突き刺さるように、きつく。
 ふいに、捲簾が顔を上げた。途端、天蓬を射抜くほどの険しい視線に、ぎくりと顔をこわばらせる。天蓬の想いを見透かしたように、捲簾は目を細めた。
「吹っ飛ばされてから地面に叩きつけられるまで、時間にしたらあっという間だったんだけどな。でも、吹っ飛んでる間、俺的にはスローモーションみたいだった。すげぇ、ゆっくりで。で、その間、思ってたことはさぁ、――悔しいけど、お前のことだった」
「――」
 捲簾の告白に、天蓬はこれ以上ないくらい、大きく目を瞠った。
 この男は、いったい、何を。
「捲簾、」
「お前にキスしてぇとか、お前に触れてぇとか、――このまま、お前に会えずに死ぬのだけはぜってー嫌だなとか、そんなことばっかり思ってたな」
 空いているほうの腕が、天蓬の左腕をそろりと捉えた。それを呆然と、天蓬は見た。
 何を、言っているのだろう、――捲簾は。
 絶句した天蓬をいぶかしく思ったのか、捲簾の眉宇がわずかにひそめられた。
「おい、天蓬、――ちゃんと聞いてっか?」
 聞いて――ない。
 ちゃんと、捲簾の言葉が、正しく理解出来ない。
 まさか、捲簾が、天蓬を同じように求めていたなんてことが。そんなことが、すぐには理解できなくて。すぐには信じられなくて。
 天蓬は、ふと、少し視線を下げて、捲簾の端整な面をまじまじと見つめた。
「判ってますか、捲簾」
 ぽつりと、天蓬がつぶやく。それに、捲簾は切れ長の眦を軽く眇めた。
「ナニが」
「そんなことを言っても、僕が嬉しがらせるだけなんですよ」
「……天蓬、」
 今度は、捲簾のほうが絶句する番だったらしい。
 天蓬から、肯定の言葉が返ってくるとは思ってなかったのだろう。茫然と、天蓬をただ見つめる彼に、天蓬はくすり、と、ここに来て初めて笑みを浮かべた。そして、ゆっくりと身を屈めて、いとしい男の唇に己のそれを重ねる。
 触れるだけの、接吻。
 固まったまま動けない捲簾から、天蓬はそっと離れると、再びゆうるりと口の端を上げた。朱唇が艶やかに笑みを形づくる。
「キス、したかったんでしょう?」
「…天蓬、お前」
「触れたいと、そう、思ってたんでしょう? ――僕に」
「ああ」
 ふいに捲簾が天蓬の手を強く引いたかと思うと、そのまま彼の腹の辺りに天蓬の身体が倒れ込んだ。あからさまに包帯の巻かれた上に乗り上がるかたちとなったことに、天蓬があわてて身を起こそうとする。それを、捲簾のたくましい腕が逃がさない、と云わんばかりに押し込めた。
 天蓬は、瞠目したまま、満身創痍な彼の体躯に乗り上がる。
 思わず、息がつまった。
「ちょ…っと、捲簾」
 貴方怪我を、と言いかけた天蓬の鋭利な顎を手で捉え、捲簾はそのまま己のほうへと天蓬の白貌を引き寄せた。自然と、捲簾と見つめ合うかたちになる。
「ったく、………お前って、やっぱりこえぇ奴。そんなに俺を煽ってどーすんだよ」
「お互い様ですよ、それは」
 天蓬は彼の傷にさわらないよう、ゆっくりと身を伸び上がらせた。上半身だけを捲簾にあずけ、顔と顔、その至近距離まで近づく。
 こんなふうに、近づきたいと。
 こんなふうに、触れたいと。こんなふうに、触れて欲しいと。
 戦うことで生きることの意味を感じるといった、どこまでも天蓬に近しい、この男とともに在りたいと。
 ――この男のすべてが、欲しいのだ、と。
 胸中をよぎるこの狂おしいまでの想いを伝えたくて、天蓬は捲簾に見せつけるように笑みを深めた。
「なぁ」
 そろりと、捲簾の掌が天蓬の頬を撫で上げる。眼前の天蓬に向かい、にやりと不敵に笑う捲簾に、天蓬は思わず目を瞠った。
「お前に、触れてぇ」
 この想いを確認し合うために。
 はっきりと己を求めてくる捲簾の視線のきつさに、天蓬は微笑んだ。
 それは、歓喜の笑みだった。




 ひとしきり接吻を交し合い。互いの息が上がるほどきつく求め合って、絡め合って、吐息さえも奪い合って。そんな唇だけのはげしい交歓の後、はずむ息を整えながら、天蓬はようやく捲簾から身を離した。
 さすがに、自分の怪我の具合が判っている捲簾も、それ以上は求めてはこない。
「怪我してなけりゃあなぁ…。もったいねぇ」
「それこそ自業自得です。僕のいないところで勝手なことをした罰とでも思って下さい」
「ナンだよ、それ。まぁ、俺もさすがにここでスルってのは趣味じゃねぇからいーけど」
「捲簾…」
 僕は別にかまわないですけど、と喉まで出掛かったが、それはあえて口にしなかった。
 それよりも、今、言うべきことはもっと別のことで。
「捲簾」
 天蓬はきちんと床に立ち、あらためて正面から捲簾を見つめた。
「僕の前以外で死ぬのは、許しませんから」
 まっすぐに捲簾の眼を見据える天蓬を、同じ強さで見つめ返してくる捲簾の眼差し。
「そりゃあ、こっちの台詞。――違(たが)えんな、よ」
 それは、――誓い。
 二人だけの、違(たが)うことなき誓約。
 二人ともが、互いの立場上、必ずしもかなえられることはないかもしれないと、判ってはいても。
 それでもなお、口にしたかった、本当の想い。
 二人は互いに顔を見合わせると、ひっそりと笑み崩れた。そして、再び自然に顔を寄せ合い、軽く、それでいて厳かに唇を合わせた。




 まるで、誓いの接吻の、ように。








FIN

「時代廣場」様に寄稿。※『天上の蟻』発表よりはるか昔に書いたためオリキャラが出ています。

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