予感とか、前兆とか。
今まで、そういったありもしないはずの非現実的なことなど、信じたことはなかったけれど。
今思えば。
あの時、確かに感じたあの気持ちが、「予感」なのだ、と。
そう、今なら、思える。
けれど。
――今、気づいても、もう遅いのだ。
彼女が遺した“あの一言”の、ように。
「もしも、私が双子じゃなくても、私の事、愛してくれた?」
あまりにも唐突に投げかけられた言葉に、悟能は思わず食事をしていた手を止めた。
左手に食器を、右手に箸を握ったまま、少々唖然とした表情で、食卓をはさんで向かい合わせに腰掛けている最愛の女性(ひと)――花喃を凝視する。
「どうしたんだい、いきなり」
見つめる視線の先で、にこりと、邪気のない、けれどどこか思わせぶりな笑みを浮かべて、花喃はじっと悟能を見ていた。いつの間にか、食事をしていた手を完全に止めていたようで、彼女の手元には箸がきちんと食卓上に置かれていた。
それに合わせて、悟能も徐に器と箸を食卓に戻す。
「ああ、悟能は食べてて。でないと、お仕事に遅れちゃうわよ」
悟能まで食事を中断してしまうかたちになったことに、花喃はあわてて手を差し出して、食事をするように勧める。けれど、なんだかすぐには再開する気にはなれなくて、悟能はちらりと眼前の彼女を見やった。
花喃が突然、突拍子もない質問を投げかけてくることは、今に始まったことではない。
初めて出会った時からずっと、悟能が彼女にいだいている印象そのままに、今、こうして想いを寄せ合い伝え合い誓い合いともに暮らすようになってもなお、変わることのない花喃の奔放さを、悟能はとても好ましく思っていた。
もちろん、悟能の彼女に対する想いは、そんな一言で片付けられなどしない。
やっと巡り合えた、あらゆる意味での半身。愛しくて愛しくてどうにかなってしまいそうなほど、愛しくて。こうして彼女が傍にいてくれるだけで、こうして彼女とともにいられるだけで幸せだと、心底思えるほどに愛しくて。
――花喃さえ、いれば、他にはなにもいらない。
そう思い続けて、ようやく今、手に入れることが出来たささやかな日常。
そうして、今朝も、いつも通り二人で朝を迎えて、いつも通り悟能の出勤前に二人で朝食をとっているところだった。そんななか、ふと花喃が漏らしたその一言が、やけに悟能の胸にすとん、と、落ちてきた。そんな感じだった。
花喃の唐突さは、いつものことだ。
なのに、どうして、今朝に限ってこんなに気にかかるのだろう。
すぐには食事を再開しない悟能に向かい、花喃は苦笑ぎみに目元をほころばせた。そして、そろりと手を伸ばして、再び自分用の箸を手に取る。そのまま、ちょんと、目の前に置かれた目玉焼きを箸の先で突付いた。
「実はね、この目玉焼きの卵、ひとつの殻の中にふたつ入ってたのよ。びっくりでしょ?」
ふと、自分と酷似した、けれど悟能よりはずっと綺麗な花喃の面が向けられた。くすくすと笑み零しながら、ただ悟能を見ている。
悟能は曖昧に微笑みながら、その笑顔に促されるように食事を再開した。こんな時に発せられる、花喃の無言の圧力に勝ったことなど、悟能は一度もなかった。こういうところがまた、彼女に惹かれてやまないのだと自覚しているからこそ、こんなやりとりすら、今の悟能にはいとおしい。
だが。
「でも、そこでどうして“目玉焼き”なんだい花喃?」
花喃の言いたいことが、いまいちよく判らない。
悟能が軽く小首を傾げながら、花喃に尋ねる。すると、彼女はますます笑みを深くした。
「これって、私たちみたいだなぁ、って思ったの」
「…確かに、そうかも、だね」
ひとつの卵のなかに、ふたつの命。
まるで、ひとりの女の腹から、同時に生まれ出でた悟能と花喃のようだと。
花喃の言葉に、悟能はまじまじと、己の前に置かれた目玉焼きを見た。自分のそれは殆ど手をつけていて、既に皿の中身はなくなりかけていたけれど。
「そしてね、思ったんだ。こんなふうに、ふたつの卵を悟能と私のに分けてる時に、――もしかして、私たちが双子じゃなかったら、どうなっていただろう、って」
にこりと、花喃が笑った。
悟能は、ゆっくりと、目の前の彼女を瞠目した。
「そんなの、決まってるじゃないか」
頭でその言葉の意味を理解する前に、口は勝手に開いていた。
悟能は、笑みを絶やさぬまま己を見つめ続ける花喃に向かい、はっきりと言い募る。
「どんな状況でも、僕には花喃だけだよ」
そう、――君だけだ。
君だけを、愛している。
悟能は胸中でそうくり返しながら、花喃を見つめ返した。
「うん、判ってる。判ってるわ悟能。ごめんね、突然」
花喃がすまなさそうに、ほんの少しだけ口許に苦笑を漏らした。彼女の返事に、悟能は内心でため息をつきつつ、最後の一口を食べた。そして、ごちそうさま、と挨拶をしながら箸を置く。
「いいんだけどね。ただ、どうしたのかなあ、と思ったから」
そろそろ出勤せねばならない時間が迫っていた。悟能は花喃を見つめたまま、椅子から立ち上がると、にこりと彼女に微笑んでみせた。
花喃が安心するように。彼女から習った――微笑を、ひとつ。
すると、花喃は一瞬だけちいさく目を瞠ったが、すぐにふうわりとその唇に笑みを象った。それはやけに、儚げに見える笑顔だった。
「ほんの少し、気になっただけ。さあ、悟能、もう出掛けないと先生が遅刻しちゃ駄目だよ」
花喃はあわてて椅子から立ち上がると、のんびりと仕度をしている悟能に向かい、急かすように言った。
悟能が仕事に出掛ける時、花喃は必ず見送りをしてくれた。いつも、というわけではないけれど、その時の雰囲気でいってらっしゃい、と軽く口づけを交わす時もある。だから、今朝も花喃に背中を押されながら、悟能はいつの間にか玄関先まで来ていた。
なんだかうまく花喃にはぐらかされた気がしないでもないけれど。
でも、特に気にすることもないかと、そう思いながら、悟能はいつも通り、玄関の扉を開ける前に、見送りに来てくれている最愛のひとに向かってにこりと笑った。そして、軽くその頬に唇を寄せる。
「じゃあ、行って来るね花喃」
「いってらっしゃい、悟能」
軽く触れるだけのささやかなキスは、すぐに離れる。
再度花喃に微笑みかけ、悟能は玄関の扉を開けた。そのまま、いつも通り、もう一度笑顔で扉の向こうにいる花喃を見て、――そして。
ふと、扉が閉まる直前に見た彼女の表情に、ほんのわずかだけ、意識を止めた。
(――……)
気の、せい、――かな。
そう思いつつも、悟能はそれでもバタンと、いつも通りの仕種で扉を閉めた。
たった今、胸裡を過ぎった想いに、ほんの少しだけいぶかしく思いながらも、足はまっすぐに仕事場である私塾へと向かい始める。
でも、どうして。
いつもはこんなふうに思うことなど、ないのに。
悟能は胸中でそう呟きながら、ちらりと花喃のことを思った。
そう。
扉が閉まる直前に見た彼女の笑顔を見た瞬間、何故か。
もう一度キスをしたいと、思ったことなんて、今まで一度もなかったのに。
でも、何故か。
――本当に、もう一度だけ触れたいと、思ってしまったんだ。
このことを今日帰ってすぐに話したら。
『やぁね、悟能ったら』
と、きっと君は嬉しそうに笑うに違いないだろうけれど。
悟能はその時の花喃の笑顔を思い浮かべて、ふいに口許に笑みを浮かべた。
だから、――待っていて花喃。
すぐに、行くから。
FIN
『花降里』企画参加作品。悟能×花喃です。