朧月夜




 ふと、体にまとわりつくようなまったりとした大気の気配が気になって、八戒はおもむろに碧瞳を開けた。
 今日は街にたどり着く前に夜を迎えたため、必然的にジープのなかでの就寝となった。だから、男四人が所定の場所で眠りについていたのだが、ちょうど眠りが浅くなっていた時だったのだろう。ささいなことで目覚めやすい八戒は、常とは違う違和感に目が覚めてしまったようだった。
 案の定、夜にしてはめずらしく靄(もや)のような湿ったひんやりとした空気が辺りをとりまいていた。近くに河でもあるのだろう。そう思って八戒はふと助手席に目を向けると、普段ならそこで就寝しているはずの人物の姿がない。
 いつの間にジープから離れたのだろうか。多分、八戒同様周囲の気配の変化に敏感な彼のことだ。八戒よりも先に、この靄に気がついて目を覚ましたに違いなかった。
 八戒は後ろで眠る二人を起こさないように、そっとジープから降りた。そして、より湿気を感じる方へと歩を進め始める。
 この先に河があることはなんとなく見当はついたし、なぜかそこに三蔵がいるであろうことも想像がついた。八戒は妙な確信でもって、ゆっくりと目的地を目指した。
 ものの数刻歩いたところで、あまり夜目のきかない八戒の視界に、ぼんやりと一面の黄色がとびこんできた。
(――黄色…?)
 その黄色の大群が何なのかさっぱり検討がつかなくて八戒は首を傾げる。それを目標にして、八戒はさらに先を目指した。すると。
「――!」
 川縁一面に広がる黄色の洪水――。その圧倒的な色の洪水に、八戒は思わず息を呑んだ。
 そこは確かにそれなりに大きな河だった。その両岸にところ狭しと咲き誇る満開の菜の花たち。そして、その川岸にただ立ち尽くす黄金色の最高僧。
 三蔵は八戒に気づいていないのか、その横顔はきびしく、ただまっすぐに前を見据えている、そんな感じだった。進むべき道を迷うことのない、その強さは時にあまりにまぶしすぎて八戒を苛むこともあるけれど、今はその姿から目をそらすこともままならない。
 その、黄色と彼とのコントラストから目が離せない。
 不意に川面に映る満月の光が反射して、三蔵の金糸をよりいっそうかがやかしく照らし出した。思わず八戒は目を見開いて、件の最高僧を凝視した。
 どうして、自分と同じ場所にいながら、彼はこんなにもかがやかしいのだろうか?
 急に彼と自分との間にものすごく距離を感じて、八戒は下唇を噛み締めた。こんなにも、手を伸ばせば届くところにあるのに、かの存在は八戒にとって眩しすぎた。ふとその眩しさから目をそむけるように、すうっと眦をすがめる。
 すると、突然三蔵が弾かれたように体を反転して、八戒のほうへと視線をとばしてきた。八戒の姿をとらえた瞬間だけ大きく目を見開いたが、すぐにいつもの仏頂面に戻ってしまう。
 途端、三蔵をとりまいていた荘厳な雰囲気があっという間に霧散してしまい、もったいないと八戒は苦笑した。あれを黙って見ていたと知ったら、三蔵は嫌がるだろうが。
「いつからいた」
 三蔵は渋面を浮かべて、ゆっくりと八戒に近づいてくる。八戒は菜の花畑の手前の堤防のうえに立って、彼がたどりつくのを待つことにした。
「たった今ですよ。目が覚めたら靄がかかっていたんで、なんとなく貴方が河にいるかと思って来てみたんですけど」
 にっこり笑顔でそう告げると、三蔵はますます顔をしかめた。
「…人のことを黙ってじろじろ見てるんじゃねえよ」
「わざと、じゃあないんですけど。あまりに三蔵がきれいだったんで見惚れてました」
「――はあ?」
 何言ってやがるんだ、と案の定三蔵は思い切り嫌そうな顔をした。
「月明かりの下で貴方の髪がきらきら輝いていて、目が、離せなかったんです」
 そして、菜の花のおりなす黄色の洪水とあいまって、それは幻想的でもあった。だから、どこか彼が遠い存在に思えたのかもしれない。
 そんな八戒の思いを見透かすように、三蔵はふんと鼻でわらった。そして、苛烈な紫暗の双眸を容赦なく八戒へと向けてくる。
「どうせろくでもないことを考えていたんだろうがな。…欲しけりゃ手を伸ばせはいいだろうが」
「――え?」
 いったい三蔵は何を言いたいのか。そう八戒が問い返そうとした時、近づきざま三蔵はぐいと強い力でもって八戒の右腕を引いてきた。その勢いで、八戒は三蔵の懐へとおさまる。そして、ふわりとした口づけが唇におりてきて、八戒は目を瞠った。
 八戒が驚いた表情を浮かべたまま、三蔵は軽くそれを触れ合わせただけですぐに離れた。そして、きつい眼差しでもって彼を見据えてくる。
「俺はここにいるだろうが。判ったか」
 八戒の迷いを判ったうえの三蔵の行動に、八戒はうっすらと笑みを刷いた。こうして、出会った時から、そして今もなお、彼は容赦ない力で八戒を導くのだ。――三蔵は「ここ」にいると、ちゃんと判らせるために。そうすることによって、八戒をその力でもって「ここ」に縛りつけていた。
 常に、足元をすくわれそうになって足掻いている、――八戒を。
「…はい」
 八戒は返事を返して、三蔵を見つめ返した。彼の背後に見える溢れんばかりの菜の花の黄色も、そして彼を後光のように照らす霞がかった満月も、やはり三蔵をより引き立たせるように鎮座しているように見えた。けれど、八戒は確かめるように三蔵へと手を伸ばす。そして、右手で彼の左腕をつかんだ途端、破顔した。
 彼はちゃんと「ここ」にいる。そう、――八戒が手を伸ばせば触れることのできる距離に。
 それを合図に、三蔵は再度八戒を引き寄せると、今度は最初から深く口づけてきた。それにこたえるべく、八戒も彼の体へと腕をまわす。
 ――互いの存在をここにつなぎとめるために、きつくきつく。








FIN

「いんぺりある・あいず」様へ寄稿。

inserted by FC2 system