(――本当に、困った子ね)
それは、ひどくなつかしい響きだった。
八戒の心の深遠をゆさぶる、まるで子守唄のような――
そのひとは、けぶる白靄のむこうに、ひっそりとたたずんでいた。
八戒はいまだはっきりとしない意識のまま、視線だけを前方へと向ける。
ひどく現実感にとぼしいここが“どこ”なのか、八戒には今ひとつわからなかった。気がつけば“ここ”にいた。そう、ここがどこなのかはっきりしない、景色さえも不鮮明で、ただ限りなく白に近い蒼白い薄靄でおわれた、空間。
足元には砂利のような感覚。けれど、それが本当に砂利なのか、この靄のなかでは確かめるすべもなかった。
なにもかもが、ひどくおぼつかない感じがする。
そう――自分の存在さえも。
ぼんやりと思案しながら、八戒はそっとおのれの両手をあげてみた。肘をゆるく曲げ、ゆっくりと白皙の貌を伏せる。そして、自分の掌の表面をじっと見据えた。
やはり、現実感がまったくない。
ということは、これは夢なのだろうか、と、八戒はぼんやりと思った。すべてが奇妙なまでにうすいヴェールにつつまれているような、曖昧な心地。夢にしては、意識だけははっきりしていることがどうにも不自然な気がするのだが、それでも現実ではないのなら“夢”でしかないのだと、おのれに言い聞かせてみる。
その時、ふと、前方から視線を感じた。
八戒は、ゆるゆると面(おもて)をあげる。
そういえば、前方に――どうにも距離感がはっきりしないのだが――“誰か”がいる気配だけはずっと感じていた。白い空間のなかで、その気配だけが鮮明だった。
八戒がそこに意識を集中させた。すると、うすい靄におおわれるように、そこだけがだんだんと浮かびあがってくる。
そして、そのなかから姿を現したのは――
「……花喃」
違えようもない、そのひとは。
八戒が憶えている最期の姿のままで、確かに今、目の前にたたずんでいた。
現し世では決してまみえることのない、いとしいひと。
ならば、ここはやはり――“夢”なのか。
(――困った、子ね)
眼前の彼女が、そっと口許をゆるめた。
(こんなところまで……来てしまって)
八戒の胸奥に直接響いてきたそのささやきに、思わず瞠目する。
「花喃……どうして」
夢にしては、彼女の存在がよりリアルに感じられる。
おのれの目の前に、確かな彼女がいるような……そんな感覚。
現実なら決してありえないそれに、問いを投げ掛けた八戒の声もかすかにふるえていた。
ふ、と、彼女が目を細めて、ひっそりと微笑んだ。その笑みに虚を衝かれた八戒は、ふいに彼女に近づこうと足を踏み出した。
「……!?」
だが、思うようにおのれの足が前には動かない。そのことに驚愕している八戒の耳に、ふたたび彼女のやわらかなささやき声が聞こえてきた。
(……ダメよ)
「……どうして?」
八戒は焦りをにじませた声音で問い返す。
今も足を動かそうと必死になっても、一向に足はそこから動いてくれなかった。まるで、その場に固められてしまったかのごとく動けない。
せっかく、彼女が、今、目の前にいるのに。
そう、せっかくおのれの手の届くところにいるのに。
夢ならば、どうして自分の思い通りに身体が動かないのか――そんな激しいジレンマに神経が焼き焦げそうなほどだ。
その時、彼女はさらに苦笑を深めた。微動だにしないで、ただじっと、八戒を凝視したまま、静かに微笑む。
(ここから先は、――来てはダメよ)
――彼女はなにを言っているのだろう?
八戒はふと瞠目した。そもそも、これは本当に夢なのか、ここで初めて疑問に思った。
「……花喃……?」
――そうだ。
今まで、自分は“なに”をしていた?
なにか……とても重大な局面にたたされていたのではないか?
つまり、これは“夢”でもなんでもなく、本当は――
八戒は動きを止めて、その場に立ち尽くした。大きく目を見開いて、彼女を凝視する。
それでも、眼前の彼女は、ただひっそりと微笑んでいた。
せつなそうに――それでもどこかふっきれたような微笑で。
(あなたは、まだ……“ここ”に来たらダメよ。……だって)
言いながら、彼女はそっと小首をかしげた。それは、以前、八戒がよく目にした――なにかをこらえようとしている時に見せる彼女の癖だった。
(……哀しませては、ダメよ)
ひどく遠まわしな言い方だけど、彼女がなにを云わんとしているのか、八戒には如実に伝わってきた。だからこそ、苦笑を浮かべずにはいられなかった。
「……それを、君が言うのは……反則だよ」
あの、最期の瞬間を思い出しながら、八戒は泣き出しそうな、それでいて困ったような笑みを浮かべる。
八戒、いや悟能がどれほど哀しむのかわかっていてもなお、あの最期を選んだ彼女の口から、こうした言葉が語られるのは正直、ひどく複雑だった。だから、苦笑するしかなかった。
それでも。彼女の想いも、今なら少しはわかるつもりだから。
八戒はくすりと、口許に微妙な笑みを刷いた。そのまま、目の前の彼女を見つめる。
「……ごめん、花喃」
(……なにが?)
「今回もいっしょにいけなくて……ごめん」
――この言葉に、今の八戒の想いのたけをすべてこめて。
すると、彼女はゆるやかに唇をほころばせた。そして、ひどく困ったように……笑った。
(―― ッ!)
急速に意識を引き上げられた八戒の視界いっぱいに広がったのは、深紅。
綺麗な紅。生そのものの、色。
そう、おのれは――生きている、のだ。
「――八戒ッ!」
悟浄の悲痛なまでの絶叫がおのれの耳奥に届いた途端、八戒は大きくむせかえりながら、自分に覆い被さっている男の顔を見上げた。
そして、彼の、今まで見たことのないその表情を見た刹那、おのれの脳裏に、やさしくてせつない声がこだまする。
(……哀しませては、ダメよ)
その声に引かれるまま、眼上の彼――悟浄に向かい八戒は息も絶え絶えにささやいた。
「………なんて顔してるんですか」
「…うっせぇバカ」
その時、彼は、困ったように笑った。
「もう喋んな。」
まるで――彼女のあの、笑みのように。
FIN