月蝕




 ひたひたと、音もなくせまってくる。
 ゆっくりとゆっくりと、僕のすべてを呑み込もうとする――「月」が。









 不意に入り口の扉の向こうに何かの気配を感じて、猪悟能はことさらゆっくりと顔をあげた。
 右足を抱え込むような姿勢で寝台の上に腰掛けていた彼は、うつろな視線をその扉へと向ける。
 だが、意識してその方向を凝視すると、今しがた感じた気配が嘘のように霧散していた。
 それを感じて、悟能は再び抱え込んでいる右膝へと顔をおとした。
(…僕は何を待っているのだろう…?)
 そう心中で呟き、悟能はくく、と自嘲の笑みをもらした。そんな風に考える自分に嫌気がさす。
 こうして大罪人としてこの寺院に連れてこられてから、それなりに日にちが過ぎていた。日めくりや時計すら存在しないこの檻の中で一日を過ごす悟能には、既に月日の感覚はなかったから、実際この寺院に来てからどれほどの日数が経過しているのかよく判らない。ただ、それなりに時間がたったことぐらいしか。
 もうそろそろ最終的な自分の処遇が決定する頃だろうと、悟能はぼんやりと思った。今でも、自らが犯した行動に対してまったく後悔などしていない。だが、自分がした事が世間一般で言うところの大罪であることは判っているから、それ相応の罰を受ける覚悟はあった。例え、その罪を「死をもってあがなう」処遇が下されたとしても当然の結果だと思う。
 むしろ、そうまでして取り戻したかった彼女はもうどこにもいないのに、自分だけ生きていてもつらいだけだと悟能は思っていた。
 そう、――思っていたのに。
 悟能はゆるゆると息を吐き出し、もう一度扉をじっと見つめた。
 悟能が待っているのは、断罪の結果か、それとも唯一この部屋に自由に出入りすることができるあの最高僧か。
 ふと、脳裏に件の最高僧を思い浮かべ、悟能はゆっくりと碧瞳を伏せた。そうすると、より鮮明に彼の姿が浮かびあがる。あんなに輝かしい、孤高な存在を、悟能は今まで見たことがなかった。
 結局跡形もなかった百眼魔王の城跡を後にして、彼と悟空と三人で寺院へと向かう道すがら、「裁きの天使が綺麗なのは本当だったんだなあ」と他人事のように考えていたくらいだ。基督教系の孤児院で育った悟能は、時折そんな話を聞かされては馬鹿げていると一蹴したものだった。だが、彼――三蔵を見ていると、まるで血に濡れた悟能を、その厳しさでもって断罪する裁きの人に思えた。そう思うと、なぜか救われた気がした。彼に裁かれるのであれば、こんな自分の最期も悪くはないとさえ思った。
 それなのに、ここに連れてこられてから、彼は悟能を生かそうとするのだ。事あるごとに。
 彼の口からはっきり「生きろ」と言葉にされたことはなかった。けれど、生き続けることにさして執着を覚えることができない悟能がその食の細さから倒れる度に、何かと彼は世話を焼いた
 彼の立場上、悟能にかまかけているような時間など殆どないことぐらいは判る。しかし、事あるごとに彼は悟能の前に姿をあらわし、そして、その強さでもって悟能をここに引きとめようとする。
 まるで、勝手に死ぬのは許さないと云わんばかりの、射るような眼差しでもって。
(――何故、)
 どうして三蔵は悟能をここへとどめようとするのだろう?
 どうしてこんな自分にかかわろうとするのだろう?
 彼ほどの光かがやく存在が、どうして――こんなにも血に濡れて、その罪からひとですらなくなってしまった自分を。
 何度考えても答えは出ない。こうして、今もその理由を見つけようとしてみたが、やはり悟能には判らなかった。
 悟能は深々とため息をつきつつ、それまで閉じていた瞳をゆっくりと開いた。
 いつの間にか夕刻にさしかかっていたらしく、明かりひとつも点けていない室内はかなり薄暗くなっていた。元々さして視力が良くない上に右目は義眼をはめているから、このぐらいの暗さが悟能にとっては一番見えにくい。
 こんな逢魔が時はいつも、すべてが暗くぼんやりと浮かび上がり、昏い昏い淵がせまってくるような錯覚をおぼえた。でも、夕刻のそれはまだ錯覚だと思えるからいい。
(問題は、――月だ)
 悟能はひっそりと呟いて、ちらりと鉄格子付の窓を見遣った。まだ時間的にもこの部屋の窓越しから見えることはない月を思い浮かべ、悟能は苦しそうに眉宇をよせた。
(――怖い…)
 日に日に大きく丸くなっていくそれを見ていくことが、悟能は怖くて怖くて仕方がなかった。怖いのなら見なければいいと頭では判っているのに、どうしても目が離せない。その恐怖に怯えながらも、目をそらせない自分の弱さがたまらなく嫌で、――でもいっそのこと、それに身をゆだねてしまえば楽になれるかもしれないのに、と思う自分もいる。
 だが、悟能にとっては三蔵も同じだった。
 だから、怖い。その存在に引き摺られてはいけないと、自分にはそう思う資格すらないのに、彼から目が離せない。彼から差し伸べられる腕を振り払えない。例え、それが同情からくるものだとしても、すがってしまいたいと思えるほどには。
 悟能は再度三蔵の姿をぼんやりと脳裏に浮かべ、くつりと喉を震わせて嗤った。こんな状況でなお、こんなにも浅ましい自分に呆れを通り越して嗤いがこみあげてくる。
 悟能は嗤いながら再び抱え込んでいる右膝の上に顔をおとした。
 ――もうすぐ訪れるであろう夜から逃げるように。




 気がついた時には、部屋の中は完全に闇に包まれていた。
 悟能はそれまで伏せていた顔をゆるゆると上げる。いつの間にか、入り口の扉の前には、わずかばかりの食事をのせた盆が床に置かれていた。どうやら誰が室内まで運んでくれたらしいが、それすら気づかなかったことに悟能は思わず苦笑した。
 しかし、今はまったく食欲がなかったから、もったいないと思いつつも悟能は扉の真前に置いてあるその盆を端に除けるべく、のろのろと寝台から立ち上がった。途端、ふらりと視界がぐらつくのに、悟能はぶれる左目に思わず手を当てた。そして、ゆっくりと一息つく。
 不意に悟能の視界の端を、窓越しに見える丸い月がかすめた。真っ暗な室内を煌々と照らす望月に、悟能は思わず息を呑む。まるで呑み込まれそうなほどの大きな大きな満月に、ぞくりと胸の底から恐怖感が押し寄せてくる。
(怖い)
 こんなにも怖いと思うのに、悟能は大きく目を見開いて、ただその月を見つめていた。頭のどこかでもう止めろ、という声が聞こえるのに、それでも目が離せなかった。それどころか、その望月に引き寄せられるかのように、悟能は再び寝台の上に身を乗せて、そのすぐ横に位置する鉄格子付の窓を引いて全開にした。
 こうすると、直接入ってくる月明かりによって、他の光源がない室内がよりいっそう明るくなる。それには目もくれず、悟能は鉄格子越しの満月を凝視し続けていた。
 悟能にとって、月は「闇」そのものだった。だから、こんなにも心惹かれるのかもしれない。常に自分を呑み込もうとするそれは、彼の心の弱さからくるものだと判ってはいる。だが、それに身をゆだねてしまいきれないのは、悟能のなかにもう一つの存在ができてしまったからだった。
 悟能を呑み込もうとする「月」は二つある。
 ――ひとつは、今、目の前にある月。もうひとつは、件の最高僧。
 しかし、それは彼のなかでまったく相反するものだった。悟能をここから攫おうとするものと、悟能をここにとどめようとするもの。
 どちらもより強い力でもって、悟能を呑み込もうとしている。だから、怖い。
 不意に三蔵の姿を思い出し、悟能はようやく月から目をそらした。そこで急に我に返り、元々自分がしようと思っていたことを思い出して、悟能はゆっくりと寝台から降りて床に降り立った。
 ――やはり、くらりと体がぐらつく。最近、まともに寝ていないせいだろうか。
 悟能は眩暈を振り払うようにふるりと頭を一振りして、おぼつかない足取りのまま扉の前まで向かう。そして、体をしゃがみこませて、食事ののった盆を扉を開ける際に邪魔にならない位置まで端によせた。
 そこで一息ついて、悟能は立ち上がろうとした。刹那――。
「――!」
 頭から一気に血の気が引き、一瞬にして意識が遠のいていく感覚に、悟能は数歩も歩けないうちにがくりとその場に膝をついた。さすがにこんなところで倒れたらまずいという意識が働いていたのか、少しでも扉から離れようと四つん這いのような体勢でずるずると体を引き摺った。だが、それもわずかに動いただけですぐに限界をむかえてしまい、悟能は漸う部屋の真ん中まで来た辺りで、崩れるように床の上に倒れ込んだ。
(……貧血、かも…)
 どんどん意識が暗転していくなか、悟能はぼんやりとそう思った。多分、悟能のこの姿を彼が見たら思い切り呆れられそうだと、他人事のように考えながら。




 かたりと扉が開く音に、悟能の意識は急速に覚醒した。
 うつ伏せて床に横たわったままの姿勢で、意識だけを音のしたほうへと向ける。悟能の顔は窓のほうへと向いているから、自分から顔を上げない限り訪問者の顔までは見ることができない。だが、この気配は多分三蔵だろう。しかし、いったい何故彼がこんな時間にここへあらわれたのだろうか。それが悟能には非常に不可解だった。
 訪問者は無言のまま、すたすたと悟能の顔のすぐ横まで来たようだった。そして、あからさまにふんと鼻を鳴らす。ああ、間違いなく彼だ、と思った瞬間に声をかけられた。
「――おい、生きてんのか」
 その呼びかけに、悟能はわずかに身じろぎして、ようやく彼――三蔵へ視線だけをとばした。そして、彼に向かいうすく目を見開いて小さく微笑む。
「……ああ、三蔵さん…」
 悟能の弱々しい呟きに、三蔵は露骨に顔をしかめた。
「てめえは床で寝るのが趣味なのか? 人の趣味に口出しする気はさらさらねえが、寝るならベッドで寝ろ。普通は驚くだろうが」
 なんだか随分な云われようだなあと、悟能は思わず苦笑をもらした。いったい、彼は悟能のことを何だと思っているのか。今の台詞からその一端がかいま見えた気がして、悟能は困ったような笑みを浮かべたまま、三蔵へと顔を向けた。
「どうも、倒れちゃったみたいなんです。…貧血ですかねえ」
 とりあえず事実をそのまま彼に伝える。しかし、悟能の言葉に三蔵はさらに不機嫌そうに柳眉をよせた。その表情の変化に、悟能は内心戸惑いを隠せなかった。
 何故、悟能の言葉ひとつでこんなに彼の機嫌が悪くなるのかが、よく判らない。
「…なんで貧血なんかおこすんだよ」
 不機嫌さを隠そうともしないで、三蔵が苛立たしげに訊いてくる。それへ、悟能はふと目を細めて彼を見つめた。
「このところ、まともに寝てないんで、それでかなあと」
「寝ていない?」
 三蔵は、じろりと悟能を見下ろすようなかたちで見据えきた。その紫暗の双眸に「どうしてだ」とはっきり書いてあるように見えて、悟能は苦笑気味に微笑んだ。
 そう、――ここ数日間は、毎夜大きくなっていく月から目が離せなくて、ほぼ一晩中起きて月を見ていた。かといって昼間眠れる質でもなかったから、必然的に慢性的な寝不足状態が続いていたのだった。いくらひとではなくなったとはいえ、ほとんど睡眠を取らない日が続けば体は参る。特に、ここ二・三日の体の不調は半端ではなかったから、夜が来たら今日こそは眠ろうと思うのに、いったん月を見たらもう駄目だった。
 怖いと思いながらも、毎晩それを見ていた。窓を全開にして、ただぼんやりと。時折、いっそこのまま呑み込まれてしまえたらと思いながら。
 だから、悟能はほうと息を吐き出すと、ふわりと笑みをこぼした。彼に一言だけ告げるために。
「…月に呑み込まれそうで」
 途端、三蔵が不可解だと云わんばかりの鋭い眼差しを向けてきた。どちらかというと、呆れに近いそれに、悟能は苦笑を禁じえなかった。確かに、彼にしてみれば、悟能のこの台詞のほうが理解不能に違いなかった。
 でも、悟能にとってはそれが真実なのだから仕方がない。悟能は胸中で、そんな自分自身を嘲笑った。こんな感情はきっと、目の前の彼には一生縁のないものだろう。悟能とはまったく違う場所に立っている彼には。
 すると、不意に三蔵がその身を屈めたかと思うと、悟能の肩を強引に掴んでその体を仰向けにした。突然の彼の行動にかまえる間もなくいきなり口づけられて、悟能はぎょっと目を見開いて目前の男を凝視した。
 しかし、三蔵はその強引さでもって悟能の顎に手をかけ、さらに接吻を深めてくる。その、息も満足にできないほどの荒々しいまでの口づけに、悟能は酸素を求めて苦しげに口元を緩めた。だがその隙をぬって、三蔵の舌が容赦なく悟能のそれに差し入れられ、思うがままに蹂躙してくるのに、悟能はただ受け止めることしかできなかった。
(――三蔵、さん…!?)
 こんなことをする三蔵の真意が、悟能にはまったく判らなかった。だから、彼の名を呼ぼうと声を出そうとしても、その呟きは彼のもたらす接吻にすべて呑み込まれていく。そのもどかしさに、悟能はすがるものを求めて、それまで床に投げ出したままだった腕をゆるゆると上げ、ぎゅっと彼の僧衣の胸元を掴んだ。
 それを合図に、三蔵はゆっくりと悟能から身を離した。それに安堵したのもつかの間、今度はぐいと強い力で悟能の腕をとると、その勢いのまま彼に体を抱えられて寝台へとほおり投げられた。はずみをつけて投げられたせいか、寝台がぎしりと大きな音をたてて軋む。それにことさら驚いて、悟能は反射的に身を起こそうとしたが、寝台に乗り上げてきた三蔵の腕に両肩を押さえつけられてしまった。
(…いったい、)
 ――いったい彼は何がしたいのだろう?
 悟能はただ茫然と彼を見つめながら、疑問符をとばすことしかできなかった。この、強引な男は、自分に何を求めているのだろう。三蔵に口づけられたのも、こんなふうに寝台に押し倒されたのも初めてだった。もしも自分が女性なら、この行動の意味は簡単に判る。だが、自分も彼も同じ性を持つもので、――だとしたら、この行動の真意は何だ?
 ひとつ言えるのは、三蔵に触れられても、こんなふうに押さえ込まれても、まったく嫌ではなかった。その事実が、悟能を苛んだ。
 何も言わない悟能にさらに苛立ちを深めたというふうな表情を剥き出しにして、三蔵は再度悟能に口づけた。だが、先ほどの荒々しさとはうってかわった、ゆっくりと判らせるように唇を合わせてくる接吻に、悟能の背筋を甘い痺れが走る。すると、三蔵は再び口づけを解いて、悟能をじっと見下ろした。
 窓越しに入り込む月の光が彼の金糸をよりいっそう際立たせている。その様に、悟能は思わず目を細めた。
「いやじゃねぇのか」
 三蔵からの問いかけに、悟能はうっすらと笑った。
「嫌、なんですかねぇ…。よく判りません」
 本当は嫌ではない。こうして彼に触れられていることを、むしろうれしいとすら思う。けれど、その感情がいったい何に起因するのか、正直悟能はよく判らなかった。
 だから、その思いをそのまま言葉にのせると、三蔵はきつい睨めつけるような眼差しを悟能に向けてきた。いったい何を考えているのか判らない紫暗の瞳が、何か言いたげに見下ろされている。しかし、三蔵の口からは何の言葉も発せられない。
 先にこの沈黙に耐えられなくなったのは悟能のほうだった。このまま無言で組み敷かれたままのほうが、かえって気になる。悟能は、自分をただ凝視し続ける三蔵をしっかりと見据えた。
「…三蔵さんは、僕をどうしたいんですか?」
 それは、三蔵と出会い、事あるごとに彼と顔をつき合わせるたびに、悟能がずっといだき続けている疑問だった。彼が、自分をどうしたいのか、またどうしてそのことが気になるのか、悟能には判らない。本当に判らないことだらけで、自分がどうしたいかも判らないことに悟能は心中で失笑した。こうして、三蔵に訊いたからといって、明確な答えが出るとも限らないのに?
 悟能の問いに、三蔵は不意に口の端をつり上げて嗤った。くすくすといやな類の笑みをこぼす彼に、悟能は困惑気味に眉宇をひそめた。突然嗤いはじめた彼の真意がつかめない。
「見て判んねえのか?」
 逆に三蔵から問い返されて、悟能はああ、と内心で相槌を打った。彼は悟能の質問の意味を、現状を指すものとして捉えたらしい。まあこの状況なら普通はそうとるだろうと、悟能は口元を緩めた。
「見ただけなら判りますよ。でもこれって、僕を抱きたいってことなんですよね? だから、いったいどうして僕なのかなあと」
 悟能の言葉に、三蔵は嗤いを止めて、再びきつい眼差しでもって悟能を見つめた。悟能もそれから目をそらすことなくまっすぐに受け止める。すると、三蔵は無言のままそろりと悟能の右頬へと手を伸ばしてきた。
「月に呑み込まれそうなんだろ?」
「…ええ」
「だったら、俺が引き留めてやる。だから、俺を見ろ」
 彼のその言葉は、悟能の心に痛いまでに突き刺さった。その甘い衝撃に、悟能は思わず目を細めて、そろりと彼の金糸へと右手を伸ばした。彼からの拒絶がないことに安堵して、ゆっくりと金色の髪の毛に指を絡めてみる。その感触に、悟能はゆるく笑みをこぼした。それは歓喜の笑みだった。
 彼を見てもいいと、そう三蔵が言ってくれるのであれば。
「――はい」
 きっと自分は最期のときまで、彼を見続けるのだろう。そう思いながら、もう一度三蔵の金糸に触れる。悟能の返事を合図に、三蔵の唇が再び悟能のそれに触れた。それはすぐに、悟能の吐息まで奪いつくすような、激しいものに変わる。今度は悟能も彼にあわせて、三蔵が求めてくる強さと同じだけの強さでもってこたえた。
 激しい接吻をくり返しながら、互いにきつく抱きしめあう。ふと、三蔵の背中越しに、悟能は煌々と光かがやく月を視界にとらえた。その月を見据えて、悟能はちいさく笑みを刷いた。
(月が、――見ている)










 ――悟能が、「もうひとつの月」に呑み込まれていく様を。







FIN

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