月虹




 いやな予感がする。
 不意に胸の内にわきあがってきた理不尽極まりないものに、三蔵はそれまで動かしていた手を止めた。普段からそれなりに忙しい身の上なのに、一ヶ月前に件の青年の事後処理も請け負うことになったせいで、否応なく三蔵のこなさねばならない執務が増え、夜も結構な時間だというにただひたすら三蔵個人にあたえられた執務室で書類と格闘しているところだった。
 多分、三蔵の予想が正しければ、この胸騒ぎの元凶は猪悟能という名の青年にちがいない。
 迷わずそう思った自分に、三蔵は苦々しく舌打ちした。一ヶ月前に三仏神の命をうけたことをきっかけに出会い、今はその犯した罪の処遇を待つために三蔵が客分として在籍している寺院に連れてこられた彼を、出会った当初から無視できなかった。むしろ、なぜか気になってしかたがない。そして、事あるごとにその事実をつきつけられ、その度ごとに三蔵のなかで苛立ちが増えていく。
 今も、彼が、と思った刹那、そこで流してしまえなかった自分を腹立たしく思いながらも、三蔵は仕事を放棄して椅子から立ち上がった。机の引き出しから鍵の束を取り出し、まっすぐに彼の部屋へと向かう。
 三蔵の政務室から彼の軟禁されている部屋までは、結構な距離があった。三蔵は僧衣の袂からマルボロを一本取り出すと、慣れた手つきで口にくわえ火をつけた。そして、くわえ煙草のまま目的地へと歩いていく。じゃらじゃらと袂の中で音をたてる鍵に、三蔵はうっとおしげに眉宇をひそめた。
 千人もの妖怪を殺した大量虐殺者として、寺院の幹部は青年を巨大な寺院の建物の端にある軟禁部屋に幾重にも鍵をかけて厳重に閉じ込めていた。いつ何時、彼が自分たちに牙をむくか分からないというのがその理由らしい。それを耳にした時、三蔵はそろいもそろって馬鹿ばかりだと心の底から嘲笑した。あの男が本気になったら、こんな子供騙しのような鍵の存在など、何の意味ももたないことがどうして分からないのか。一人で百眼魔王の一族を根絶やしにできるほどの男が本気になれば、この寺院から自力で出ることなど簡単だろう。
 だが、彼はそんな素振りをまったくみせることはなく、いたっておとなしく寺院内の一室におさまっていた。ただ、例の一件から生きることに対してかなり希薄らしい青年は、時折常識では考えられないような言動をして、三蔵を心底呆れさせることが多かった。どうやら無意識でやっているらしいそれに、ふりまわされるほうはたまったものではない。
 普段の三蔵ならば、そのような他人にふりまわされるようなことなど完全に無視していた。三蔵にとって、それは煩わしい以外のなにものでもないからだ。なのに、翡翠の双眸を持つ――とはいえ、右目は自ら抉り出したために今は義眼をいれているが――青年の一挙一動から目が離せない。無視したくても無視しきれない。それが何を意味するものなのか、三蔵はわざと考えないようにしていた。
(――まったく、めんどくせぇ)
 脳裏に浮かんだ青年の、どこかあきらめを孕んだ消え入りそうな笑みに、三蔵は胸中のわだかまりを吐き出すように、紫煙を吐いた。それはまるで、三蔵の青年に対する感情の色にも似ていた。





 猪悟能が軟禁されている部屋の扉の前に立ち、三蔵は面倒くさげに僧衣の袂から部屋の鍵を取り出すと、一つずつ鍵をはずしていく。この鍵を外すたびに、この何重にもかかった鍵の数が青年の心そのもののような気がして、三蔵の苛立ちをさらに深める原因の一つとなっていた。
 ようやく全部鍵を外し終えて、三蔵はため息をつきつつ扉を開ける。途端、彼の視界に飛び込んできたのは、部屋の真ん中辺りの床の上にうつぶせて横たわる青年の姿だった。
 もちろん、この部屋がいくら軟禁用の部屋とはいえ、そなえつけのベッドくらい完備している。ということは、彼がこの状態でいるということは倒れたのかそれとも――。
(こいつなら、「床で寝たかった」とかいうふざけたことをぬかしそうだな)
 三蔵は今までの経験上そう結論づけると、さしてその状況に驚くこともないまま、ゆっくりと彼に近づいた。そして、青年の顔のすぐ横に立ち、その白い貌を見下ろす。
 部屋に人工の明かりはなく、なぜか大きく開け放たれた鉄格子付の窓から、満月の月明かりが煌々と部屋の中を照らしていた。その光をうけて、青年の端整な顔立ちがよりいっそう際立って見えた。三蔵はふんと鼻を鳴らすと、そのままの姿勢で彼に声をかける。
「――おい。生きてんのか」
 三蔵の問いかけに反応して、青年がわずかに身じろぎした。ゆっくりと数回瞬きをくり返して、三蔵のほうに視線を泳がせる。そして、ふ、と目元をほころばせた。
「……ああ、三蔵さん…」
「てめえは床で寝るのが趣味なのか? 人の趣味に口出しする気はさらさらねえが、寝るならベッドで寝ろ。普通は驚くだろうが」
 口出しする気はないと言いつつしっかり口出ししている三蔵に、青年は苦笑したようだった。視線をさまよわせたまま、顔だけ三蔵のほうへ向ける。
「どうも、倒れちゃったみたいなんです。…貧血、ですかねえ」
「…なんで貧血なんかおこすんだよ」
 この寺院に来たころ、彼はまともに食事をとれる状態ではなく、それこそよく倒れていた。精神的なものが原因らしく、体が食べ物を受けつけなかったらしい。心が生きることを拒否していたのか、それだけ愛する人を失った哀しみが大きすぎたということなのだろう。それを無理やりどうにか食事がとれるまでにして、ここ数日は多少なりとも落ち着いているようには見えたのだが。
 いやな予感とはこのことだったらしい。三蔵は思わず苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。
「このところ、まともに寝てないんで、それでかなあと」
「寝てない?」
 どうしてだ、と声には出さなかったが、三蔵の顔は雄弁にそれを物語っていたようだった。それをうけて、青年は弱々しく微笑んでみせた。
「…月に呑み込まれそうで」
 馬鹿かこいつは。
 三蔵は心底呆れ返る。彼の脈絡のない物言いには、慣れたくもないのに慣れてしまっていた。それよりも、そんなことを思うのなら、カーテンと窓を閉めて月など見えないようにすればいい。何を好き好んで、わざわざ月がよく見えるように窓を全開にして――。
 そこまで考えて、三蔵はふと我に返り、自分の足元にいる男を見下ろすかたちで凝視した。
 いや。この男はわざとそうしているのだ。
 見たくないものをあえて見ることによって、自分をわざと傷つけているのだ、――多分。それも無意識のうちに。この男に自虐的なところがあることに、三蔵は割と早い段階から気づいていた。だから、今日もこうしてわざと窓を開けていたにちがいない。まったくたちが悪いとしか言いようがなかった。
(…この男は…)
 胸の内からわき上がる、この怒りにも似た感情はいったい何なのか。
 三蔵はすっと眦をすがめると、急に身を屈め、青年の肩を掴んで仰向けにすると、その勢いのまま口づけた。目を閉じる刹那青年の驚いた顔が目に入ったが、それにかまわずもっと深く口づけるために三蔵は彼の顎を右手でとらえて自分のほうへと引き寄せた。
 息苦しさに青年の唇がゆるんだのを見計らって、三蔵は舌を差し入れ、思うがままに彼の口内を蹂躙した。接吻、というよりはもっと荒々しいそれに、それまで床に弱々しく投げ出されていた青年の手がすがるものを求めて、三蔵の僧衣の胸元をぎゅっと掴む。そのしぐさに、三蔵は熱い塊が腹の底からせり上がってくるような衝動を感じた。
 いったん口づけを解いて、三蔵は勢いのまま彼を抱え上げて窓際にあるベッドへとほおり投げる。彼の体重を受け止めたベッドがぎしりと音をたてた。それに我に返ったように起き上がろうとする青年を、三蔵はすばやく体ごとベッドに乗り上げ、両肩を押さえつけて寝台に押しつけた。
 青年は言葉もないまま、ただ呆然と三蔵を見つめ続けていた。そこに浮かぶ、どこかとまどった風な表情に、三蔵の中でさらに焦燥感がつのる。自分で仕掛けておきながら、三蔵の行動に特に抵抗する素振りのない彼に無性に腹が立った。
 その思いをぶつけるように、三蔵は組み敷いた青年の唇に己のそれをあわせた。ことさらゆっくりとうすい下唇をなぞるように甘噛みすると、それまで無反応だった青年の躯がびくりとふるえる。その反応に三蔵は目を細め、唇を離した。そして、自分の腕の下にいる彼をじっと見据える。
「いやじゃねえのか」
「嫌、なんですかねぇ…」
 よく分かりません、と青年は少し困った風な貌を浮かべて、うっすらと微笑んだ。一瞬、淡い青白い月明かりの下、青年の存在自体がこのまま消えてしまいそうな錯覚を覚える。三蔵は彼が得体の知れない何かに攫われないようにと、ぎりと肩を押さえる力を強めた。
(――よく分からないのはお互い様だ)
 三蔵にしても、この行動に対して説明を求められても答えられない自信があった。しいて言うなら「衝動」としか言いようがない。
 だが、この男の存在に引きずられている自覚はあった。悟空とはまったく違う意味で、彼という存在に囚われている。その意識が自分に向けられていないことにどうしようもなく苛立ちを覚えるほど、――強く。
 だからこそ、もっと強い「何か」でつなぎとめたかったのかもしれない。それが例え意味のない躯どうしのつながりだったとしても。 三蔵はふと口元を自嘲気味に歪めた。
(まったく一番の馬鹿は自分かよ)
 自分が非常に馬鹿げたことをしようとしているのはよく分かっていた。このまま目の前の青年と躯をつなげたとしても、後に残るのは後悔だけかもしれない。だが、今、この男が欲しいと思う気持ちはまぎれもない真実だった。
「…三蔵さんは、僕をどうしたいんですか?」
 寝台に躯ごと押しつけられたまま、ただ三蔵に凝視され続けていることに困惑の色を隠しもしないで、青年が訊ねてくる。それへ、三蔵は口の端をつり上げて皮肉げに嗤った。この状況で何を今さらとしのび笑いを漏らす。
「見て分かんねえのか?」
「見ただけなら分かりますよ。でもこれって、僕を抱きたいってことなんですよね? だから、いったいどうして僕なのかなあと」
「――」
 彼の質問に、三蔵は嗤うのを止めた。つまり、この男は三蔵がとった行動の理由を訊いているのだ。そんなことは、三蔵自身が明確な答えをもっていない以上、答えようがない。
 ――だから。
「月に呑み込まれそうなんだろ?」
「…ええ」
「だったら、俺が引き留めてやる。だから、」
 俺を見ろ、と。
 三蔵の「答え」に、青年はふわりと目を細めて、そっと三蔵の金糸へと右手をのばした。ゆっくりとその髪の感触を確かめるように指を絡めてくる。そして、ゆるく笑みを刷いた。それは三蔵の心をひどくざわつかせる笑みだった。
「――はい」
 青年の返事を合図に、三蔵は再度口づけた。うちから湧き起こる衝動のまま、吐息までも奪うように深くむさぼる。眼下の青年が苦しげに息をつめても、止めることなどできなかった。もっともっと、深くきつく、すべてを奪い尽くせたら。
 ――この青年をつなぎとめておくことができるのだろうか?
 三蔵はそろりと青年の頬を撫で上げながら、彼の唇をきつく吸い上げた。彼に合わすかのようにおずおずと舌を絡めてくる青年の熱いそれに、三蔵も深く絡める。そして、その存在を確かめるようにきつくその躯を抱き締めた。
 目の前の存在を「ここ」につなぎとめるために。






 ――「月」に呑み込まれてしまわないように。







FIN

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