あまい毒




「例えば、この液体を何もきかないで飲んで下さい。って言ったら、飲んでくれます貴方?」
 ――いきなりコレだよ……。
 部屋の扉を閉める間もなく唐突に訊かれた内容に、捲簾は胡乱げに顔をしかめた。
 見れば、めずらしく机に座って仕事をしていたらしい天蓬が、にこにこと屈託のない――ように見えるだけで、実際にはとんでもない含み笑いに見える――笑顔を浮かべ、その右手には何やら透明な液体の入った小瓶を掲げていた。
 天蓬がその瓶を横に振ると、その中身が小さく波打つ。
 窓越しに入る陽光に硝子瓶がきらりと反射して、一瞬の眩しさに捲簾は眼を細める。
 だが、元々この部屋――つまりは捲簾の上官たる天蓬の政務室に赴いた用件を思い出し、後ろ手でバタンと派手に音をたてて扉を閉めると、口許を引き結んだまま彼の机の前まで歩み寄った。
 自然と、椅子に腰かける天蓬を見下ろすかたちになる。
 眼下の天蓬はというと、捲簾の返答次第、と云わんばかりに期待に満ちた視線を向けていた。
 そんな彼と眼を合わせ、捲簾は深々と嘆息するしかなかった。
「……まぁた、そーゆう脈絡のねぇことを」
「で? 返事は?」
 はぐらかしはさせません、と、天蓬の顔にしっかりと書いてある。
 捲簾はじっと、彼の手元にある小瓶を見た。そして、大きく息を吐き出す。
「飲まねぇ」
 きっぱりと断言すると、目に見えて天蓬の笑みが深まったように見えた。その剣呑な微笑みに、捲簾が息を飲み込みかけた途端、天蓬はわざとらしくふ、と、顔を背けた。
「…………やっぱり貴方、僕のことをなんとも思ってないんですね……」
「オイ。ナンの話だいったい」
「まぁ、軍人としてなら正しい解答です。だってコレ、毒ですもん」
 そう、はっきり言い切った天蓬に、捲簾は絶句した。
 まったく――信じられない。
 天蓬が、その秀麗な見た目とは裏腹にどこまでも物騒ではた迷惑な男であることは、長くもなければ短くもない付き合いのなかで、嫌というほど思い知っているつもりだった。
 けれど。
 いくらなんでも、さすがに今回は呆れた。呆れるしかなかった。
 そんな捲簾の思いが如実に顔に出ていたのだろう。天蓬は再び捲簾の面を見ると、軽く睨みつけてきた。
「なんですかその顔。今、思いっ切り馬鹿にしましたね?」
「当たり前だッ。なんでそーゆう話になンだよ!」
「いや、そーゆう話があるんです。ココに」
 と、天蓬が神妙な面持ちで捲簾へと差し出したのは、一冊の古い書物。
 おそらく、天蓬が下界から入手してきた古いものに違いない。
「……コレが何?」
 捲簾が諦めまじりに嘆息しながら問い掛けると、天蓬は気をとり直したのか、にっこりと口許に笑みを刻んだ。ちらりと窺うように捲簾を見上げる。
「これ、下界での戦史に近い物語なんですけどね。この話のある場面で、こーゆうのがあるんですよ。とある兵士がいて、彼の大切に思うひとが、まあ性質の悪い執政者に見初められて捕らえられてしまうんです。そのひとを助けるべく、彼はその執政者のもとへ赴くんですけどね。その執政者は彼にとっての国主にあたる人物で、そんなところへいくら大切なひとが捕らわれたからといって直接出向くのははっきり言って不敬罪です。それでも、どうしても大切なひとを救い出したかった彼は、結局執政者のもとへ行き、紆余曲折の末、主と大切なひととあい見えるわけですが。そこで、執政者のほうが、条件を出すわけです。大切なひとを取り返したければ、目の前の液体を何もきかずに飲め、と。ならば、解放するとね」
「……なんとなく話は見えてきたぞ……」
「どう考えても罠ですよね。もちろん、その悪い執政者ははなから毒をもっていたわけです。けれど、彼はそこで何の迷いもなくその液体を飲み干して――約束通り、大切なひとを取り戻すことが出来た、と。まあ、さすがに彼はただではすまなかったみたいですけど」
「馬鹿じゃねーの、その男」
 そうまでして大切なひとを救いたい気持ちは判らないでもないが。
 毒を飲むということは、つまりは生命さえも脅かされる危険があるということだ。そうなる前に、もっと他の手段はないかと、捲簾なら考えるのだが。
 天蓬はどこか愉しげに口許をゆるめ、そっと手にしていた書物を机上に置いた。
「そーかもしれませんねぇ。けれど、だからこそ、そんな状況に置かれたら貴方ならどうするのかなあ、と」
「で? お前はそれを実践してみた、と」
「そうです。捲簾ならどうでるか、探究心がうずうずと」
 わくわくと音がしそうなほどにこやかに微笑む天蓬がそら寒い。捲簾は視線を宙に泳がせながら、肩を落とした。
「それって『好奇心』ってゆーんじゃねえのか……」
「あははは。でもあまりに予想通りで拍子抜けしましたけど」
 くすくすと笑い続ける天蓬をちらりと一瞥して、捲簾はようやく、手にしていた報告書を彼の机の上に投げた。元々、この書類を提出するためにここへ来たのだから。
 捲簾は空いた手で懐から煙草を取り出し、口に銜えた。そして、火をともす前に、ふと思い立って再び天蓬へと向き直る。
「――じゃあ、さ」
「はい?」
「お前はどーなの?」
「僕、ですか?」
 捲簾の問いに、天蓬はそろりと、感情の読めない視線を向けてきた。
 つくり笑いにも似たその白貌は、時として捲簾の苛立ちを深めるものでしかなかったが、今はそのことに気をとられているよりももっと気になることがあった。
 だから、ニヤリと口の端を上げつつ、毒が入っているらしい小瓶を指差しながらそれを言葉にのせる。
「そ。まったく同じ状況で、俺がコレをお前に何もきかねぇで飲めっつったら」
「そぉですねぇ」
 天蓬は笑った。
 捲簾が思わず見惚れるほど、艶やかに。
 そして、次の瞬間には、その小瓶を手に取り蓋を開け、一息で飲み干してしまった。
 ぽろり、と、捲簾の口許から火のついていない煙草が滑り落ちる。
「――ッ!」
 何の迷いもなくその液体を口にした天蓬を唖然と見つめ、それからすぐに我に返った捲簾はあわてて天蓬の左腕を掴む。
「お、まえッ!」
 だが、焦る捲簾をよそに、天蓬は飄々とした態度を崩さず、あまつさえ空になった小瓶を捲簾に向かいこれ見よがしに横に振った。
「――迷わずこう、かな」
「って毒なんじゃ!?」
「捲簾なら、こーゆう時、毒なんて仕掛けないでしょう? ――僕と違って」
 そう、はっきりと言い切り、天蓬はさらに嫣然と微笑んだ。
 そんな彼に向かい、捲簾はただ茫然と見つめるしかなかった。
 ――本当に、とことん、タチ悪ィ……。
 下手な毒よりも、よほど。
 捲簾は心中で盛大に舌打ちすると、掴んでいた天蓬の腕をぐっと己のほうへと引き寄せた。そして、勢い立ち上がった彼に噛み付くような接吻を送る。
 濡れた天蓬の朱唇に舌を這わせると、仄かに苦味を感じる。
 それにかまわず、捲簾は己のそれを彼の熱い咥内にねじ込んだ。あわせて、天蓬の舌も、捲簾に熱く絡みついてくる。
 苦い液体の味がする、口付け。
 天蓬は毒だと言っていたが、こうして特に問題なく彼がけろりとしているということは、おそらく害のない薬の類に違いないのだろう。薬品ぽい独特の苦味が、捲簾の舌先にわずかな痺れをもたらす。だが、それは天蓬の熱いぬめりが触れると一気に霧散した。
 かわりに広がるのは、甘さ。彼の甘さそのもの。
 けれど、それはどこまでも危険な――甘さ、だ。
 なんだか急におかしくなって、捲簾は自分から口付けを解いた。そして、ふいにくつくつと嗤い始める。
 天蓬と眼を合わせないまま、腹を抱えて嗤う捲簾を訝しく思ったらしい彼が、憮然とした声音をあげた。
「ちょっと捲簾、貴方」
「毒ならもぉとっくに飲みまくってるからイイんだよ」
「……は?」
 眼前の男が、一番の猛毒に違いないのだと。
 判っていて手放せないのは、解っていて選んだのは、そう――捲簾自身なのだ。
 嗤い続ける捲簾に対し怪訝な視線を向けてくる天蓬を再びこの手に捉え、捲簾は意味深に唇端をつり上げてみせた。
 そうだ。何よりも、性質の悪い毒なら、――ここに。
 そう胸中でつぶやき、ゆっくりと天蓬の薄紅色の唇を塞ぐ。
 捲簾の真意を判っているのか、天蓬もまたその求めに応えるべく、深く唇を重ね合わせてきた。熱くなる体と想いごと、伝え合うように奪い合うように、ふたりはただ接吻に酔いしれる。
 蕩けるほどに甘い天蓬を貪りながら、ふと視界をよぎった空の小瓶を眼の端にとめ、捲簾はくつりと嗤った。





 同じ毒を飲むのなら。最高の毒がいい。
 捲簾を侵食し続ける、この――甘い毒のような。
 天蓬自身、を。








FIN

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