冷たい頬




 ――手のひらが冷たいひとは、心があたたかいとよく聞くけれど。
 "すべて"が冷たい彼の心のうちは、――はたして。





 突如、ものすごいいきおいで降り出した雨に、傘も持たずに市へと出掛けていた三蔵は、とにかく雨宿りできる場を求めて走っていた。
 前が見えないほどの豪雨に、あっという間に地面に大きな水溜りができていく。それをうっとうしげに避けながら、それでも地面から跳ね返る雨水が三蔵の僧衣の裾を派手に濡らしていくのに、三蔵はますます渋面を浮かべた。
 こんなことなら、煙草がきれたからとわざわざ一人で出掛けるんじゃなかったと、三蔵は心中で苛々と嘆息した。もう一時間弱もすれば、多分買い出しに出掛けた八戒と悟浄が戻ってきたはずなのに、――それを待ち切れずにとび出した自分に悪態をつきつつ、それでも三蔵は走る。
 ふと、雨を避けるために下に向けていた顔を上げると、前方に狭い屋根付の路地があるのが見えて、三蔵は飛び込むようにその路地へと駆け込んだ。
「あれ?」
 途端、見知った顔の先客が三蔵に気づいて、驚いた声をあげる。三蔵も、その先客――八戒の姿を認めると、訝しげに眉宇をひそめた。
 わずか長さ10メートル、幅1メートルばかりの狭い路地だが、その全体が横の建物から伸びる屋根に覆われているからか、しっかりと雨がさえぎられていた。殆ど濡れていない八戒をちらりと流し見て、三蔵はぽたぽたと水滴が流れ落ちる前髪をかきあげた。そして、深々とため息をつく。
「河童はどうした」
「この雨ではぐれちゃったみたいなんですよねぇ。それより、三蔵。何でこんなところにいるんです?」
 宿にいるはずの三蔵がどうしてここにいるのかを、八戒が不思議そうに訊いてくる。それに、三蔵は盛大に舌打ちをした。
「……煙草がきれたんだよ」
「待てなかった、ってことですか…」
 八戒が苦笑混じりに呟くのに、三蔵はますます嫌そうに眉間に皺を寄せた。
「ウルセェ。仕方ねぇだろうが」
「最近、ホントに本数増えましたよねえ…。僕の計算では、僕たちが戻るまではギリギリもつと思ってたんですけど」
「読みが甘ぇんだよ」
「…それはちょっと、違う気がしますけど…」
 三蔵の勝手な言い分に、八戒がため息を漏らす。三蔵は仏頂面のまま、相変わらず濡れて額に貼り付く金糸をうっとうしげにはらった。その時、ふと触れた自分の額と手のひらの温度差に、三蔵は思わず動きを止めた。ちらりと、買い出し荷物を抱えたまま自分のすぐ横に並び立つ八戒を凝視する。
 常と違い、雨に濡れてひんやりと冷たい自分の手を、三蔵はそろりと八戒の右頬へと伸ばした。
 ――いつもは八戒のほうが冷たいのだが、今なら自分のほうが冷たいのだろうかと、三蔵は思ったのだ。だが、実際に触れた彼の頬はやはり冷たくて、三蔵は彼の顔の輪郭をなぞるように、手を動かす。
 三蔵が触れた一瞬、少しだけ躯を揺らしはしたが、八戒は黙って三蔵のしたいようにさせていた。そして、ちら、と三蔵のほうへ顔を向けると、ふわりと微笑む。
「…どうしたんです?」
「冷たいな」
 三蔵の呟きは、激しい雨音へと吸い込まれていく。
 どうして、八戒の躯はどこもかしこも冷たいのだろう。こうして、三蔵が触れると、いつもその手にひんやりとした感触しか伝わってはこない。そして、今もまた。
 ――この冷たさは、彼の凍りついたままの心の象徴なのかもしれない。あの事件をきっかけに、凍てついてしまった八戒の心が、溶かされることなくこうして燻り続けているのだとしたら。
 不意に胸の奥から湧き上がってきた衝動に、三蔵はぐいと八戒の左腕を取り、彼の躯を自分のほうへと向かせた。そして、吐息すら感じられるほどの至近距離まで顔を近づける。
「あたためてやるよ」
 ――俺が。そうささやきながら、三蔵は八戒に口づけた。そろりと、触れるだけの接吻を仕掛けてから、すぐに唇を離す。すると、眼前の八戒がうっすらと笑みを零した。
「三蔵はあたたかいですね…」
 八戒の呟きは、再び重ね合わされた二人の唇の中へと消える。
 その言葉すら奪い尽くすように、三蔵はもっと深く、彼の唇をむさぼるように舌を絡めた。こんなときですら、冷たく感じる彼の頬に、そっと手を這わす。
 そして、三蔵のうちにこもる熱ごと彼に伝わればいいと、その冷たい頬ごと引き寄せながら。




 三蔵の熱で、その心ごと、彼が溶ければいいと。
 そう思いながら、三蔵は、ただ口づけを繰り返す。
 彼のすべてを喰らい尽くすかのように、――熱く。








FIN

「砥翠庭園」様に進呈。

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