ほどけない嘘




 この指と指とを、結んで。
 ほどけない魔法をかけて。



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 金蝉が、そう――まだ悟空くらいの年頃であったころ、身近な同世代の知り合いは天蓬しかいなかった。
 永遠の時が約束されている天界において、その出生率はおそろしく低い。
 だから、金蝉の周囲には、常に大人しかいなかった。唯一、天蓬と机を並べて学問を学ぶ時が、大人以外と過ごすある意味金蝉にとって貴重な時間といえた。
 その当時、ちいさな金蝉の世界は、天蓬だけだった。彼とともに過ごす時間は限られていたけれど、普段必要以上に大人たちの中にいなければならなかった金蝉にとって、天蓬と肩を並べていられる時間は本当に楽しかったのだ。
 天蓬は、金蝉よりほんの少しだけ早く生まれたというのに、何故か金蝉よりも博識だった。
 時折、ほんのわずかではあるが二人きりになれた時、天蓬は金蝉が知り得ないさまざまな事を楽しげに話してくれた。彼の言っている事は時々難しすぎて、首を捻ることも多々ありはしたが、それでも天蓬と二人きりの時間は大好きだった。
 普段、大人たちの前では、大人びた作り笑いを浮かべている彼が、金蝉の前ではちゃんと笑ってくれる。その事が金蝉にとってどれだけ嬉しかったかなんて、きっと天蓬は今でも知らないに違いない。
 だから、天蓬のほうから「ずっと傍にいたいと、約束したい」と言われた時、金蝉はひどく驚いた。
「約束、するのか?」
 ずっと、傍にいると。
 思わずまじまじと天蓬を見つめ返すと、彼は困ったように小さく首を傾げた。
「もしかして、迷惑…ですか?」
 迷惑どころか金蝉も同じ事を思っていたから、まるで自分の心を見透かされたようでつい焦って唇を噛み締める。こんな時、咄嗟にどう返したらいいのかちいさな金蝉には判らなかった。それで、いつも以上に顔をしかめながら、わざらしくふい、と、視線を外す。
「迷惑なんかじゃ、ねぇよ。約束、……しよう」
「じゃあ、」
 と、すっと金蝉の前に天蓬の右手の小指が差し出される。それを目の端で捉えた途端、金蝉は再び天蓬を凝視した。彼が何をしたいのか、さっぱり判らなかった。
「なんだ、これは」
「指切り、ですよ」
 そう言って、天蓬はふうわりと笑みを零した。まるで、少女と見まごうばかりの綺麗な綺麗な笑貌。
 金蝉だけに向けられる彼のこの笑みに、金蝉はいつもどきどきしてしまう。その胸の鼓動を誤魔化すように、金蝉はじとりと、上目使いに天蓬を見やった。
「指切りって、なんだ?」
「約束をする時の儀式みたいなもんです。こうやるんですよ」
 天蓬の小指が、するりと金蝉の右手の小指に絡め取られる。ひんやりとした、それでいて柔らかな指の感触に、金蝉はわけもなくうろたえた。
 天蓬はくすりと口の端を上げると、初めて聴く旋律にのせて、不思議な言葉を滔々と謡った。金蝉は呆然と、ただ天蓬のなすがままだった。だが、最後の辺りの言葉にひっかかりを覚えて、金蝉は不意に眉宇をひそめる。
「……針千本呑ます…?」
「そうです。これで、約束を破ったら針を千本呑まないといけないんですよ。覚悟して下さいね」
 にっこりとそう言い切られて、金蝉は嫌そうに顔をしかめる。しかし、この時はその約束が破られることはないと、そう思っていたから、天蓬のいうところの“指切り”も子供同士がかわした他愛もない約束のひとつでしかなかった。
 互いに傍にいたいと、そう思っているのなら。
 “指切り”という名の魔法が、ずっと続くと、そう――思っていたのだ。


 天蓬が、金蝉とは別の道――天界軍に入るまでは。







 はっと金蝉が目を開けた瞬間、眼前に広がる予想外の光景に、一瞬大きく息を呑む。
 しかし、すぐに現状に気づいて、金蝉は深くため息をついた。そう。
(夢――だったのか)
 幼い頃の、なつかしい夢を見ていた。だから覚醒した瞬間、咄嗟に見たこともない部屋にいると思い、――だがすぐに意識は現実へと戻る。ここは金蝉の政務室で、あの頃とは違い、自分の傍らには悟空という養い子までいる。
 どうやら文献を読み漁っているうちに、うたた寝をしてしまったらしい。
 金蝉はうっとうしげに長い前髪をかき上げながら、深々と嘆息した。まるで感傷のような夢の内容に、吐き出すため息もどこか重苦しい。
 まったくどうして今頃、こんな夢を。
 今まで、思い出すこともなかったのに。――“指切り”というほどけない嘘に安心しきっていた、過去の自分のことなんて。
「失礼しますねー」
 不意に耳に飛び込んできた、扉を叩く音と入室を告げる聞き慣れた声に、金蝉は再び我に返った。こういう時に限ってタイミングよく現われるなんて卑怯だと、内心来訪者に対して悪態をつきつつも、金蝉はそろりと声の主へと視線を飛ばす。
「なんの用だ」
「あれ、なんだかご機嫌うるわしくないようですね、金蝉」
 金蝉が不機嫌全開の表情で見つめ返しても、来訪者である天蓬はどこ吹く風と云わんばかりに軽く笑顔でそれを流す。そして勝手知ったると、遠慮のない笑みをにこにこ浮かべながら、まっすぐに金蝉の政務机の前までやってきた。
「うるせぇ。お前には関係ないだろ」
「ま、いいですけどね。……とりあえず、これを頼まれてやってくれませんか?」
 天蓬が、すっと金蝉の前に差し出したのは、一冊の絵本だった。その絵本をまじまじと凝視してから、金蝉は胡乱げに天蓬を見上げる。
「何だ、これは?」
 金蝉の問い掛けに、天蓬は苦笑ぎみに微笑むと、ぽりぽりと頭を掻いた。そして、その絵本を金蝉の机の上に置く。
「悟空が読みたいと言っていた本なので、渡してあげて下さい。僕、これから出陣なんでしばらく留守にしますし」
 彼の言葉に、金蝉はそっと机上の絵本へと視線を落とした。これを見た瞬間の悟空の喜ぶ顔が目に浮かぶようで、金蝉は仕方がないと肩をすくめる。
「判ったよ。猿に渡しといてやる」
「ありがとうございます。…それにしても、めずらしいですね。金蝉」
「何がだ」
 急に声のトーンが変わった天蓬をいぶかしむように、金蝉は顔を上げて彼の秀麗な面を見返した。だが、そこに浮かぶ、なんとも表現しがたい複雑な感情に彩られた微苦笑に、金蝉は小さく目を瞠った。
 そう、まるで――。
「こんな本とか、…貴方、今まで軍のこととかまったく興味がなかったでしょう? なのに、こんなにたくさんの軍や上層部に関する文献をわざわざ読んでいるなんて、いったい何の風の吹きまわしです?」
 顔には笑みを貼り付かせながら、その眼差しはまったく笑ってはいなかった。金蝉の真意を探るような、容赦ない視線を向けてくる天蓬に、金蝉も目を眇めて同じだけの強さで見つめ返す。
 察しのいい天蓬のことだ。こうやってわざわざ疑問を口にしつつも、金蝉の行動の理由(わけ)など見抜いているに違いない。
 だから、金蝉は顔をしかめたまま深くため息を漏らすと、不意に天蓬から目線を逸らした。
「読みたいから読んでるんだよ。…今まで、何も知らなさ過ぎたからな」
「――」
 金蝉の返事に、天蓬は何か言いたそうな視線だけを投げかけてきたが、金蝉と同じように徐に目を伏せた。そして、自嘲気味に微笑む。その表情の変化に、金蝉は思わず眉宇をひそめた。
 こういう表情を浮かべた時の天蓬は、たいがいロクでもない事を口にする。金蝉の心臓を鷲掴みにするような、痛烈な言葉を。それに身構えるように、金蝉は小さく息を詰めた。
「ねえ、金蝉。覚えてます?」
「何を」
「貴方と僕が、昔に交わした約束を」
 ……あれは正夢だったのか、と、金蝉は胸中で嘆息した。
 いつもなら忘れていると言い切れるが、まさしくたった今見ていた夢の内容そのままである。ここで忘れましたとはっきり嘘を言えるほど、哀しいことに金蝉は狡猾ではなかった。
 金蝉の顔には、そんな迷いが如実に表われていたのだろう。天蓬はくすりと笑みを漏らすと、困らせるつもりはないんですけれどと、肩をすくめた。
「その様子だと、覚えているみたいですね」
「ずっと傍にいようっていうアレだろ」
 でも、先に約束を破ったのはお前だろうが。
 そう金蝉が憮然とした声音でつぶやくと、天蓬はますます困ったふうに小首を傾げた。
「じゃあ、僕は針千本呑まないといけないんですかねえ」
 あはははは、とわざとらしく笑う天蓬に、金蝉は怪訝そうに顔をしかめた。
 いったい、天蓬は何が言いたくて、こんな昔の話を持ち出してきたのか。金蝉にはさっぱり検討がつかなくて、思わず恨みがましく天蓬を見やる。
 所詮、過去のかなわなかった約束事など。今、どうして口にするのか。
 天蓬は金蝉と目をあわせると、ゆるりと、含みのある笑みをその口元に刻んだ。そして、すっと右手の小指を、腰掛けたままの金蝉の顔前に差し出す。
「もう一度、約束してくれませんか?」
「…天蓬、」
「ずっと傍にいよう、と」
 金蝉ははじかれたように、天蓬を見上げるかたちで凝視した。天蓬はただ曖昧な笑みを湛えたまま、じっと金蝉を見下ろしている。その双眸の奥に、縋る何かを感じて、金蝉は小さく息を呑んだ。
「……お前が、それを言うのか?」
 こんな事を言っておきながら。
 いつも置いていくのは、天蓬のほう。
 いつも置いていかれるのは、金蝉のほう。
 それなのに、――天蓬のほうから約束の証を、金蝉へと伸ばしてくる。
 どんなに指と指とを結んでも、それが永遠でないことなど判っているはず、なのに。
 それでも。
「もしかして、迷惑…ですか?」
 天蓬の口から漏れた、あの時とまったく同じ言葉に、金蝉は思わず目を見開いた。
(まったく、――どうしようもねぇ)
 天蓬がわざと同じ言い方をしたのか、たまたま偶然同じなだけなのか、その真意は金蝉には判りかねた。だが、天蓬からそう言われて、黙って流せないほどには、金蝉にとって彼は特別だった。
 昔も、今も。金蝉にとって、天蓬だけが特別だから。
 傍にいてほしいと願ったのは、彼だけなのだから。
 例えまた、この約束が違えるものだとしても――。
「ほら、」
 金蝉は仏頂面のまま、目の前に差し出された天蓬の小指に自分のそれを絡めた。ぴくりと、天蓬の小指がこわばったのがはっきりと伝わってきた。金蝉はじろりと、下から彼の表情を窺うように天蓬を見上げる。
「指切り、するんだろ。俺は謡えねぇからな、お前が謡えよ」
 その言葉に、天蓬は呆然とただ金蝉を見つめた。刹那、ふうわりとまるで花が綻ぶような、それでいてどこか泣き出しそうな笑みを零した。
「はい」
 天蓬はす、と目蓋を伏せると、金蝉が漸う聞き取れる程度の小さな声で、かつて一度だけ聞いたことのある旋律を謡い始めた。
 天蓬の声を聞きながら、触れ合う指から彼の想いを感じながら、金蝉はぼんやりと思う。
 ――この約束が永遠という嘘が、指と指とを結ぶことで、ほどけないようにと。
 例えまた、置いていかれるのが金蝉だとしても。今度は、自分から追いかけていけるようにと、そう――願う。
 だから。
 ほどけない魔法を、かけよう。








『ずっと、傍に』








「――終わりましたけど、金蝉」
 気がつくと天蓬の歌声は止まっていて、代わりに困惑気味な彼の声が投げかけられたのに、金蝉はようやく我に返った。そして、そろりと天蓬のほうへ視線を向ける。
「ああ、そうだな」
「で、これで指切りも済んだんですけど」
「そうだな」
「……離してくれないんですか」
 やんわりと嗜めるように言われ、金蝉はわざと離さなかった小指をしぶしぶほどいた。その瞬間、ふ、と天蓬の小指が掠めるようにそれまで結んでいた金蝉の小指に触れて、――離れた。
 その、どこか縋るような仕草に、金蝉は思わず天蓬を凝視した。天蓬も、意味深な笑みを浮かべたまま、じっと金蝉を見つめていた。


 この指をほどきたくはない、と。
 思ったのは、果たしてどちらだったのだろう――。








FIN

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