やさしい気持ち




「――わ!」
 考え事をしながら廊下をひたすら前進していたせいか、不意に角から飛び出してきたひととぶつかりそうになり、天蓬はあわてて飛び避けた。――が。
「天蓬……、ちゃんと前を見て歩けっ」
 ふと耳奥に響いた聞き慣れた男の怒声に、天蓬は小さく目を見開いてゆるゆるとその人物へと視線を向けた。そこには、いつも以上に不機嫌な顔をした金蝉が、まっすぐに天蓬を睨みつけていた。目的の人物との思いがけないところでの再会に、天蓬はにこりと口元に笑みを浮かべる。
「ああ、ちょうどよかったです、金蝉。これから、貴方のところへお伺いしようかと思っていたんですよ。…あ、でもこれからどこかへお出掛けですかね?」
「いや、今、ババアのところへ書類を届けたところだ。…久しぶりだな」
 金蝉がため息まじりに、ちらりと天蓬を横目で見ながら言うのに、天蓬は軽く唇をつり上げた。確かに、ここしばらくは金蝉とまったく顔をあわせていなくて、本当に二人きりで向き合えたこと自体久しぶりのことで。
 ただそれが、天蓬の仕事が忙しかったとかそういう理由ではなく、かなり個人的な趣味に没頭していた結果、気がついたら時間がたっていたと、そういうことなのだが。それも、ここでとあることにふと思い当たらなければ、もうしばらくは部屋に篭もったままだったであろう。それくらい、天蓬はあることを考えていた。
 それは、何かというと。
「ねえ、金蝉。僕にやさしくして欲しいですか?」
 金蝉と並んで歩きながら、突然、天蓬が口を開いた。しかし、その言葉の意味がよく判らなかったのか、金蝉は怪訝そうに眉宇をひそめる。
「……いきなり何わけ判んねぇことぬかしやがる」
 何か悪いもんでも食ったのか、と、これみよがしに顔をしかめる金蝉に、天蓬はくすくすと笑みを零しつつ、そらとぼけた口調で返す。
「あのですねぇ。たまたま読んだ世俗書にこうあったんですよ。『人にやさしくあれ』と。でもよく考えたら、僕、ひとにやさしくしたことなんかなかったなあ、と。で、思ったわけです」
「…何を」
「やさしさって、何でしょーねぇ?」
「……」
 天蓬の問いに金蝉は返す言葉もないのか、ただ困惑気味な紫暗の双眸を向けてきた。それには、天蓬も苦笑するしかない。とりあえず、こんな質問をしたら金蝉が困るだろうと判ってはいたが、それでも聞いてみたかったのだ。金蝉に、直接。そう思ったら、いてもたってもいられなくなって、足は勝手に金蝉の部屋に向かっていた。
 にこにこと意味深な笑みを湛えたまま、金蝉を見つめ続ける天蓬の視線がいたたまれなくなったのか、金蝉はすっと視線を外すと深々とため息をついた。そして、ようやくたどり着いた自室の扉の取っ手に手をかけ、そっと扉を開ける。その瞬間、何かを思い当たったのか、不意に金蝉は天蓬のほうへと顔を向けた。心なしか、彼の紫眼がすわっているように見えるのは、天蓬の気のせいではないような気が、する。
「まさか、お前、それをひたすら考え続けていたら埒があかなくなったとか、」
「よく判りましたねえ金蝉。もう気になったら夜も眠れなくて」
「――もしかして、何日風呂に入ってねぇんだ…?」
 天蓬を凝視する金蝉の目がますます見開かれる。天蓬はへらりと目を細めて、わざとらしく惚けてみせた。
「えっと、……何日でしょう?」
 途端、まるで金蝉の顔に「判らないほど風呂に入っていないのか!?」という文字が浮かび上がったように、唖然とした表情を浮かべて金蝉は天蓬をただ見つめていた。だが、突如我に返ると、ぐいと天蓬の右腕を掴んでそのまま強引に自室へといざなった。そして、まっすぐに、部屋に備えつけの風呂場へと天蓬をひきずっていくと、そこへ天蓬の体を押し込める。
「あの、金蝉?」
「いいな! すぐに風呂に入れ!」
 めずらしくも金蝉が強引に事を進める。それへ呆気にとられているうちに、バタンと風呂場の扉が閉められ、天蓬の視界から金蝉の姿が消えた。天蓬はやれやれと肩をすくめつつ、ゆっくりと金蝉によって閉められた目の前の扉を開ける。
「あ、せっかくだからいっしょに入ります?」
 天蓬がわざとにこやかな笑みを貼り付かせて、金蝉へ誘いの言葉を投げかける。すると、瞬時に金蝉の顔が真っ赤になったかと思うと、む、と顔を強張らせてぎりりと天蓬を睨めつけてきた。
「馬鹿なこと言ってねぇで、さっさと風呂に入りやがれ!」
 バン! とものすごい音をたてながら、またも金蝉の手によって二人の間にあった扉が閉められる。なんというか、あまりに想像通りの金蝉の反応に、天蓬はくすくすと肩を震わせて微笑むと、不意に小さく嘆息した。
 それでも、天蓬の誘いにのってくれない金蝉に、一抹の淋しさを覚えないでもないから。
 その思いを振り払うように、天蓬はくしゃりと肩にかかる濃茶の髪の毛をかき上げ、金蝉の好意に甘えるべく着衣を脱いで、浴槽の湯へ浸かった。そのまま眠気が訪れそうな心地よさに、ほうと一息つく。
 やさしさが何かはよく判らないけれど。
 こうして、金蝉が天蓬にむけてくれる気遣いとかそういったものをきっと“やさしさ”というのだろうと思うから。
 そう。
 不器用な彼が与えてくれるこのあたたかいものを“やさしさ”と呼ぶのなら。
 ――自分はやっぱり金蝉にもらってばかりで、どうやったらやさしくできるのかなんてよく判らないと、天蓬は思う。そんな自分に、金蝉はそれでもやさしさをくれる。多分、金蝉にはそんな自覚なんてないだろうけれど。
 それでも、そんな金蝉のやさしさが欲しくて、わざわざ彼のところへ足を運んでしまう辺り。
(確信犯なんですよねぇ、僕のほうが)
 天蓬はため息まじりにつぶやくと、ふうわりと苦笑ぎみに口元を緩めた。
 やり方は判らなくても、やさしくしたいと思えばそのうち金蝉に伝わるのかもしれない。だから。
 金蝉のことを想いながら、天蓬はそっと瞳を閉じた。
 とりあえず、風呂からあがって、金蝉に強請ろう。
 やさしい接吻、を。




 やさしい気持ち。
 それは、――あなたを想う気持ち。
 “やさしさ”もそこから生まれる――そのことに、天蓬がちゃんと気づくのは、まだまだ先のようだけれど。








FIN

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