恋しうすべに




 どうしたらいいのだろう。
 金蝉の背丈より少し低い、小ぶりの枝先にひそやかに花開く薄紅色の桃花を見つめながら、金蝉はしかめっ面を隠しもしないで思案する。
 そう。
 これを傷つけずに持ち帰るにはどうしたらいいのか、金蝉は真剣に考え続けていた。
 まわりの状況など、おかまいなしに。



「今日の遠出には絶対に参加しろよ」
 そう、観世音菩薩からきつく釘を刺されて、金蝉はしぶしぶ一族十数名とともに、天界きっての桃苑へと出向いていた。
 菩薩を輩出する一族としては、上級神一族のなかでもかなり高位に位置する金蝉の血族は、派手な催しを行うことが少なからずあった。元々あまりそういう場に出ることは好きではない金蝉は、何かしら理由をつけて出席しないことが殆どだった。彼のそういう姿勢が、偏屈だの無愛想だのひと嫌いだのと言われる原因のひとつでもあった。
 今回もまた、西大母所有の見事な桃苑の桃の木が満開であるこの時期に、花見なる会席が開かれることになり。もちろん、金蝉は仕事を理由に断る気満々だったのだが、その仕事を観世音菩薩自らが取り上げ、金蝉に何がなんでも出席するように言い放ったのだった。
 これがいつも通りのふざけた物言いなら、金蝉もきっぱり断っていた。だが、観世音菩薩のどこか不機嫌そうな、それでいて困ったふうなため息まじりの微苦笑に、金蝉もいぶかしげに目を細めるしかなくて。
 気がつけば、仕方なく、――そう、本当に仕方なくではあるが、行きたくもない会席に同席する羽目になってしまっていた。
 西大母の桃苑に足を踏み入れることが許されるのは、ごく限られた上級神の一族だけだ。
 そのこと自体に舞い上がっているのか、桃の木を愛でるというよりは、ただの馬鹿騒ぎにしか見えなくて、金蝉はそんな彼らの態度に辟易した。そんなことにつきあわされるのは御免だと、早々に集団から離れて、ひとりで桃の木々を見物してまわる。
 時折、それでも金蝉に近づいてくる大人や女性もいたのだが、金蝉はちらりと一瞥しただけでろくに相手にしなかった。退屈な話ばかりを話し掛けられてもつまらないだけだと、露骨に態度に出すと、そのうち誰もが自然に離れていく。これでますます、金蝉の偏屈ぶりも輪をかけて噂されるのだろうけれど、そんなことは金蝉にとってはどうでもよかった。それよりは、こういう煩わしいことに巻き込まれることのほうが、金蝉にはきつい。それで、今後一切声をかけてこないのなら、そのほうがいいとすら、思う。
 金蝉にとって、必要以上にひとと係わることは、面倒以外のなにものでもなかった。
 あるひとりを――除いて。
 ふと脳裏に浮かぶ、ひとりの男の笑貌に、金蝉の胸が跳ねた。まるで不意打ちのように浮かび上がってきたあでやかな笑顔に、思わず一瞬にして体温が上がったような気がした。
(――っ)
 金蝉にとって、唯一特別なひと。金蝉を綺麗だと言って憚らない、金蝉よりも余程綺麗な面をした、それでいて何よりも不可解な存在。
 誰よりも金蝉に近しい位置にいながら、何故かものすごく遠く感じる存在。
 そのひと――天蓬の姿を思い浮かべ、金蝉ははやる鼓動をおさえるように右手でぎゅっと胸元を握りしめた。こんな場所で思い出してひとり赤面する自分自身に、気恥ずかしさすら覚える。
 でも、――仕方がないではないか。
 金蝉は目元を僅かに朱に染めて、怒ったような面持ちで口許を引き結びながら、内心で言い訳をするようにつぶやく。
 彼だけが特別なのだから。
 こんなふうに思い出して、不覚にもどきどきしてしまうほど。
 誰よりも特別で、何よりも大切で。
 ただ、こういう想いをどう彼に伝えたらいいのか判らなくて、いつも戸惑った態度しかとれないけれど。
 ふぅ、と思わずため息を零して、金蝉は再び眼前の桃の木に眼を向ける。
 限りなく白に近い、薄紅色のまあるい花弁が枝先に楚々として咲くその様は、まるで金蝉の前で儚く微笑む彼のようで。
 ほのかに馨るあまやかな匂いもまた、少しこの香とは種類が違うけれど、いつも甘い燻るような香りを纏う彼にどこか似ていて。
 そう、思った途端。
 金蝉は衝動的に桃の枝に手を伸ばしていた。そのまま手折ろうとして、はた、と我に返り手を止める。
 この枝花を手折るのは、駄目だ。
 せっかくの見事な桃の木を、金蝉の勝手な衝動で手折るのは、とてもいけないことのような気がした。仮にも西大母の桃である。それはそれで無礼だとも思うし。何より。
 せっかく花をつけている枝を手折るのは可哀想だと、金蝉は思ったのだ。だから。
 金蝉はそのまま手を引っ込めると、ふむ、と思案げに腕組をした。
 この桃の花を、天蓬にも見せてやりたい。彼に届けたい。
 けれど、この木を手折るわけにはいかない。
 ならば、どうしたらいいのだろう
 これを傷つけることなく、天蓬の許へと持ち帰るには、いったいどうしたらいいのか。
 金蝉は、目の前の桃の木を真剣な表情で見つめながら、必死で考える。普通に考えたら、どうやっても無理に違いないのだが。でも、どうにかしたいのだ。こんなふうに、金蝉が「何かをしたい」と思うこと自体、滅多にない。その想いの根源が何か気づかないまま、金蝉は天蓬に届けたいというただその想いそのままに、どうにかしようと考え続ける。
 ――と、その時。
 ふと、己の足元に視線を落とし、その先にあったあるものを眼で捉え、金蝉は目を瞠った。
 それは、――まだ花のついた一本の桃の枝、だった。



「今ごろ、どーしてるんでしょうかねぇ…」
 天蓬は床に座り込んで巻物の紐を解きつつ、深々と嘆息した。己の政務机の前に腰掛け、それを背凭れ代わりにし、ぼんやりといつも通り読書に勤しんでいる。
 ……ふりをしているだけなのだが。実際のところは。
 本でも読んでいれば気が紛れるかと、蔵書を色々と引っ張り出してはみるものの。何を開いても、気もそぞろでまったく集中出来ない。いつのまにか天蓬の部屋は書物だらけのすさまじい状態になっていたのだが、例によって例のごとく彼はそんなことに構うことなく、落ち着かない気持ちを持て余すようにまたも手にしていた巻物を足元に放り投げた。ころころと転がるそれが、積み重なる本の山に当たって止まる。
 天蓬はガシガシと纏りのない髪の毛を掻き、再度ため息をついた。机に凭れぼんやりと宙を見上げる。
 これもすべて、金蝉のせい。
 今日、金蝉は彼の一族とともに、西大母の桃苑に出掛けていた。それがただの遠出なら、別段なんてことはない。上級神の一族が好む娯楽の一種だと、そう思えるから。もっとも、金蝉がそういうことを好んではいないことを、天蓬はちゃんと知っていたが。
 だが。今日のそれは、いつもと少々趣が異なっていた。
 おそらく金蝉本人だけが気づいていないのだろうが。これは明らかに、金蝉とつりあいのとれる女性数人との一種のお見合いのために仕組まれた場だと。そう、人づてでたまたま知った時、天蓬は己の胸を走る痛みに、思わず息を呑んでしまったくらいだ。
 たとえ、金蝉にその気はなくても。
 そういうことが前提のものなら、嫌でも金蝉に女性が宛がわれたりするのだろう。ましてや、自分から決して動かない金蝉相手である。己が娘を、金蝉にと、思惑のある大人たちがいいように彼を振り回すに違いない。
 そう思うと、天蓬はとてもではないが落ち着いてなどいられなかった。
 確かに、天蓬と金蝉は、いわゆるそういう仲、ではあるが。
 だからといって、金蝉がはっきりと口にしてくれたことは一度もない。どちらかというと、天蓬のほうが、なかなか自分から動いてはくれない彼に誘いをかけ、金蝉はそれに仕方なく応える、という天蓬の想いばかりをぶつけているような関係。
 綺麗で、――そう、何もかも綺麗すぎる彼は、だからこそ何も知らなくて。時折、その純粋さを、己のどす黒い感情で汚してしまいたいほど、いとしくて。いっそ、天蓬だけしか見ないように、閉じ込めてしまいたいほど、好きで――。
 それなのに、その金蝉に当たり前のように近づくことが許されるその女性たちに、天蓬はどうしようもない嫉妬を覚えた。どんなに金蝉にその気がなくても、近づくことを許される、そのこと自体が許せなくて。そんな狭量な己の心に嫌気がさして、天蓬はますますため息を深めた。
 苛々とした心を少しでも落ち着けようと、白衣のポケットから愛飲している銘柄の煙草を取り出し、口に咥える。独特の甘い香りのするそれを深く飲み込んで、凝る想いごと紫煙を吐き出した。先端からゆるりとたちのぼる煙草の煙をぼんやりと目で追いつつ、天蓬は苛立たしげに前髪を掴んだ。
「おい、天……――おわぁっ!?」
 入り口が開かれる音と、聞き慣れた男の声と、ドサドサドサという派手に物が崩れ落ちる音がほぼ同時だった。その音でようやく我に返った天蓬は、のそりと立ち上がって入り口のほうへと視線を向ける。
 すると、そこには。
「金蝉……何、やってるんです?」
 崩れ落ちてきた大量の書物に埋もれて、かろうじて顔だけが出ているなんとも情けない姿の金蝉が、怒り大爆発、の表情で下から天蓬を睨みつけた。
「何じゃねぇ! これをどうにかしろこれを!!」
 本の重みで身動きが取れないらしい金蝉が必死の形相で叫ぶ。それを何故かうれしく思いながら、天蓬はゆっくりと彼に近づき、本の山から救出を試みる。
「普通、こんなことになる前に避けられません?」
 実際、普通ならたとえ入り口がこんなふうにすさまじいことになっていても、天蓬のひととなりを知る者は、誰もがその状況を予測してちゃんと避けるのだ。はっきりいって、何度経験しても避けられないのは金蝉ただひとりである。そこがまた、金蝉らしいといえば限りなく金蝉らしいのだが。
 くすくすと苦笑まじりにつぶやく天蓬に、金蝉はさらに不機嫌そうに顔をしかめた。
「悪かったな。いつも避けられなくて」
「いっそ、避けられるようになるまで訓練します? 金蝉の場合、反射神経自体がなさそうですもんねぇ」
「うるせぇ。こんなところまで本を積み上げるお前が悪いんだろうが」
 床の上に腰を下ろした体制で、金蝉はようやく上半身だけを起こした。そこで、天蓬は、彼が立ち上がるのを助けるために少しだけ身を屈めて自然に金蝉へと手を伸ばす。
 すると。
「――え」
 その手に徐に差し出されたのは、桃の枝一輪だった。
 意外なものを唐突に突きつけられ、天蓬は思わず、といったふうに目を見開く。
「えっと……これは、」
「これをやる」
 不意に差し出されたそれを、天蓬はまじまじと見つめた。
「どうしたんですか、これ」
 ほんのりと薄紅色に色づく桃の花と、金蝉はとてもよく似合うと。
 彼の白さとこの花の取り合わせは、本当によく合っていて、とても綺麗で。天蓬が手にするよりもずっとずっと金蝉の手元にあるほうが似合うに決まっている。
 だから、それを口に乗せようとすれば、先に金蝉のほうが口を開いた。
「お前に似ていると思って。……拾ってきた」
「――」
 金蝉の言葉に、不覚にも胸がつまって、天蓬は思わず息を呑んだ。
「ひろって、…きたんですか」
「あぁ。……天蓬?」
 天蓬の様子をいぶかしんで、眼下の金蝉が心配そうに天蓬の名を呼ぶ。それすらも、うれしくて、くるしくて。
 そう。
 ここで、枝を手折ることのない彼のやさしさと、あのような場で天蓬のことを想ってこの桃の花を持ち帰ってくれた彼の気持ちと。それでも天蓬へ差し出されたそれに、不覚にも胸がつまってくるしい、だなんて。
「金蝉…」
 天蓬は、ゆうるりと口の端を上げて、微笑んでみせた。それはどこか泣き出しそうにさえ見える、複雑な感情の入り混じった曖昧な笑みだった。
 その笑みに、金蝉のほうが大きく眼を見開く。
「嫌、だったのか」
 少し押し殺したような声音で、金蝉がつぶやいた。多分、天蓬が“拾ってきた”ことを嫌がっていると、そう誤解しているのだろう。
「いいえ。……うれしくて、どうしようかと思うくらい、うれしくて」
 その誤解を解くために、天蓬は今度はちゃんと笑った。金蝉にだけ向ける、本心からの笑顔を。
 花一枝で、天蓬の心をここまで揺さぶることが出来る彼に向かい、その花に負けないくらいの微笑みを。
 そう――微笑むことしか、出来ない。
 差し出された桃の花を受け取ることはないままただ微笑み続ける天蓬の腕を、金蝉はぐい、と強引に引っ張った。突然のそれに、天蓬の痩身が金蝉の懐へと倒れ込む。彼の腰元に乗り上がる姿勢で一気に密着した体制に、二人ともが黙って見つめ合った。金蝉は手にしていた桃の枝を、再度天蓬に差し出す。
「お前にやる」
 ずい、と天蓬の目の前に差し出されたそれを、天蓬は再びじっと見つめた。
 そして。
「ありがとう、ございます」
 今度はきちんと受け取ると、金蝉に小さく頭を下げた。
 うれしくて、くるしくて。
 この桃花のごとき綺麗な彼――金蝉が、こうして己に向けてくれる想いが、うれしくて。泣きたくなるくらい、胸がつまるくらい、――くるしい。
 だから。
 天蓬は顔を上げると、再度金蝉に向かい微笑んだ。微笑むことしか出来なかった。そんな天蓬の想いに気づいたのか、金蝉は神妙な面持ちのまま、ゆっくりとその綺麗で端整な貌を天蓬に近づけてくる。それにこたえるために、天蓬もゆっくりと瞳を閉じた。
 そろりと、重なる、唇。
 金蝉からの不器用な接吻に、彼の想いがこめられているような気がして、天蓬は胸奥からわきあがる甘い痺れに身を震わせた。
 そして、掌に握り締めた桃の枝ごと、金蝉の背に腕をまわす。ほのかに馨る甘い匂いに誘われるように。恋しいひとごと、ただ抱きしめた。
 天蓬だけだと、口づけの合間にそうささやく彼の言葉に、泣きたくなるくらいのいとしさとせつなさを感じながら。



 まるで、この桃花のように。この胸にあわく色づく思いごと。
 想い合って。抱きしめ合って。



 そして、何より――互いだけだ、と。








FIN

主催企画『恋しうずべに』参加作品。

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