時間よ、止まれ。




 もっと、と。
 そう思うことは、たやすい。

 ……けれども。











「――いい加減に、ちゃんと寝たほうがいいですよ。金蝉」
 篭城の拠点としている部屋の外。廊下の壁に、気だるげに腰をおろしていた金蝉の頭上から、涼やかな男の声が降ってきた。
 その声の主が誰だかちゃんと解っていた金蝉は、疲れきった顔そのままに男のほうを見上げる。
 予想通り、そこに立っていたのは天蓬そのひとだった。
 綺麗な顔立ちにいくつも残る、いかにも殴られたとおぼしき痕が痛々しい。
 いつも綺麗だと思っていた彼の顔に残る傷をまじまじと見て、金蝉はわずかにため息を漏らした。結果的に、彼――天蓬と、そして捲簾を自分の我侭に巻き込んだという負い目がある分、金蝉の表情は晴れない。
 さらに、いつまでたっても目を醒ます気配のない悟空の様子も気になって、金蝉はどうにも落ち着かない胸中そのままに、そっと背中に当たる壁へと凭れ掛かった。
「……眠れねぇんだよ」
「それは判りますけどね。ただ、貴方、僕らと違って基礎体力皆無でしょう? 休めるときに休んでおかないと、この先もちませんよ」
 まっすぐに前を見据えながら、天蓬が手厳しいことを言い放つ。
 それへ、金蝉は苛々と金の前髪を掻き毟った。そんなことは言われなくても十分解っていた。
 けれど、それでも気持ちが高ぶりすぎて、どうにもならないのだ。
 今までこういった緊迫した事態に遭遇したことなどなかったから、それを制御するすべを金蝉はまったく知らなかった。
 その点、天蓬たちは軍人として数々の修羅場を潜り抜けている分、こんな事態になってもなお、ひどく落ち着いていた。おそらく、この先どうすればいいのか、そのためには自分自身がどう動いていけばいいのかなど、そういったこともすべて計算づくで行うことが出来るのだろう。
 明らかに足手纏いな自覚がある分、金蝉の苛立ちは募るばかりだった。
 こんなときに、こんな――非常にくだらない個人的な感情で落ち着けないなど、決して芳しくないことだと判ってはいる。それでも、少し落ち着くだけの余裕が出来れば、嫌でも考えてしまう。
 それで、悟空の状態が少し落ち着いた頃を見計らって、わざとひとりになった。
 このままでは――押し潰されてしまいそうだと。
 我に返れば返るほど、現状の深刻さに、胸裏がざわついた。
 天蓬と捲簾が淡々としているからこそ、余計にいたたまれない気持ちになった。
 そう思う自分が一番ガキなのではないかと、こういうとき、思い知らされる。
「――金蝉」
 すっと、眼前に天蓬の顔が降りてきた。
 同じ目線の高さまで腰を屈めた彼を、金蝉はそれまで伏せていた顔をあげて、じっと見つめ返す。
「後悔、してるんですか?」
 その白貌に笑みを貼り付かせながら、それでも天蓬の瞳はちっとも笑ってはいなかった。正面から対峙する彼を、金蝉はそれでも無言で見つめ返した。
 ――後悔なんて。
「……それはこっちの台詞だ」
 それこそ金蝉が、天蓬たちに訊きたいくらいだった。
 金蝉自身は、まったく後悔はしていない。あくまでも、悟空とともにいることを選んだのは自分自身。その結果がこれならば、まったく後悔などしてはいないのだ。
 けれど、彼ら――天蓬と捲簾は違う。
 こんな大ごとに、明らかに巻き込んでしまったかたちになって。金蝉がその重さに、押し潰されそうなほどなのに。それでも。
「心配しなくても、自分で選んだ結果ですから。貴方がそれを気にする必要はないんですよ?」
「……天蓬」
 ふと、眼前の彼の雰囲気がやわらいだ。それに、思わず金蝉は目を瞠る。
「ああでも、捲簾はどうだろうな。ま、彼は貴方がどうこうっていうより、悟空がほうっておけなかったんでしょうけどね。僕は、まあこうして貴方と一緒にいることを選んだわけだから、後悔はしていませんよ」
 むしろ、と言いかけて、天蓬はくすくすと口許を緩めた。
「最期まで金蝉と一緒にいられるなんて、ある意味本望かな」
「天蓬」
「だからといって、まだまだ諦めてはいませんよ。だから貴方も、休めるときはちゃんと寝てください。本当に、下手をすると今しかない可能性もあるんで」
 ものすごく深刻な事態だというのに。その重い現実を、まるでなんでもないことのように言う彼を、金蝉はたまらず眉宇をしかめて凝視した。
 ――そうなのだ。
 こんな状況でも、まず金蝉の身を心配する天蓬。
 ろくに休んでいないのは捲簾も、そして天蓬もまったく同じなのに。
 いくら彼らが軍人で慣れているとはいえ、疲れているのはきっと同じだろう。それでも、まず金蝉を、そして悟空を優先してくれる彼らがたまらなくて。
 金蝉はますますいたたまれない心地のまま、折り曲げた己の両膝をぎゅっと自らの腕で抱き込んだ。
 そう――もう、時間がないのは判っている。
 いつまで、こうして彼らとともにいられるのか。
 いつまで、こうして――天蓬とともにいられるのか。
 この結果を選んだのは金蝉自身。けれども、判ってはいても、その重苦しさに押し潰されそうだった。他人の命の行く末すら巻き込んでしまったことに対する重さ。それが金蝉にとって、数少ない特別なひとだちだからこそ、ひどく重い。
 今になって思っても、詮無きことであるのも重々承知している。
 けれど、彼らの思いやりといたわりを如実に感じるからこそ、己の不甲斐なさとあいまって、ひどく切ない――。
 俯き加減になってしまった金蝉の頬に、天蓬の手が触れた。それに引かれるよう、金蝉は再びゆっくりと顔をあげる。目が合った途端、天蓬は困ったような顔をして笑っていた。それは、昔から彼がよく金蝉の前でだけ見せてくれた微苦笑ともいうべきもの。
 金蝉をなだめるような、やわらかいそれ。
 それに安堵するよう、金蝉はほぅと、つめていた息を逃がした。かすかに、天蓬の唇がゆるく弧を描く。
「まったく……、貴方らしいですけどね。そうやって僕たちのことまで思って、ぐるぐると考えこんでしまうのは。そんな金蝉のやさしさに、結局は悟空も惹かれたんでしょうし」
 さらに天蓬は苦笑を深めた。すぅ、と流れる金糸を手にとって、いとしおしげに梳き上げる。
 その仕種から目が離せないまま、金蝉は静かにその動きを追っていた。
 ……こうして。
 いつまで、彼と向き合えるのだろう。
 いつまで、いとしいと、――金蝉が唯一特別だと、そう思える彼とともに生きられるのだろう。
 そう、いつまで――。
 金蝉はぐっと奥歯を噛み締めた。そして、ふいに目の前の彼の肩を掴むと、そのまま床へと押し倒す。
「――こんぜ、」
 言い掛けたその唇を、金蝉は上から覆い被さるかたちで強引に塞いだ。押し付けるだけの、ぎこちない接吻。それでも、最初は驚いてなすがままだった天蓬が、ゆっくりと金蝉の背に腕を回してきた。それを機に、彼の口腔内に舌を差し込む。
 先ほど口の中を切ったのだろう。天蓬の舌は血の味がした。鉄臭さが金蝉の舌先に痺れるような刺激をもたらす。それでもかまわず、深く、強く、いとしい男の朱唇を貪った。
 体液の絡まる濡れた音が、互いの唇から鈍く響く。
 金蝉は自ら口づけを解いて、そっと上体を起こした。両手で天蓬の肩を床に押し付けたまま、神妙な面持ちで見下ろす。
「……逃げねえのか」
 こんな状況で。
 こんな――いつ、誰がのりこんで来るともしれない状況の中で。
 無防備に金蝉に押し倒されたままの天蓬を、金蝉はひたと見つめた。ふと、天蓬と目が合う。途端、彼は微笑んだ。それはまるで、花が一気にほころぶような、綺麗な――はかないほどに綺麗過ぎる笑貌だった。
「――貴方が僕を求めてくれているのに?」
 逃げるなんて出来るわけないでしょう?
 そうやって嫣然と微笑む彼を、金蝉はただ凝視した。胸裏を渦巻く、言葉にならない感情の奔流――いとおしさと切なさともどかしさが入り混じったそれをどうすることも出来ないまま、金蝉は再び天蓬へと接吻を落とす。
 ……このまま。
 そう、こうして――天蓬と触れ合うこの刻が、このまま続けばいいのに、と。
 それはかなわぬ願いだと解っているからこそ、切ない。
 だから、せめて今だけはと、金蝉は湧き上がる想いのまま天蓬を抱き締める。そうして、同じように求めてくる彼に、どうしようもないほどのいとおしさを感じながら、さらに深く口づけた。
 まるで、……最期の抱擁のように。




 だから、今だけは。
 せめて、今、この瞬間だけは、願うことを赦して欲しい。
 どうか。

















 ――時間よ、止まれ。








FIN

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