沈黙の言葉




「おーい、入るぜ」
 力強く扉を叩く音と聞き慣れぬ意外な人物の声に、金蝉はふとペンを走らせていた手を止めた。
 何故、あの男が金蝉の元へわざわさやって来るのかと疑問符を飛ばしつつ、金蝉は思い切り胡乱げに眉宇を寄せた。そして、政務椅子に腰掛けたまま返事をする。
「開いているから、さっさと入れ」
 果たして金蝉の予想通り扉が開いた先にいたのは、ここに来ても飄々とした格好を崩さない天界きっての暴れん坊将軍、もとい捲簾大将そのひとだった。
 その名前と彼の噂だけは随分前から一方的に知ってはいたが、直接面識をもったのはつい先日、悟空と天蓬を介して、偶然とはいえかなり不本意極まりない出来事がきっかけだった。初対面から自分とは絶対にウマがあわない類の男だと金蝉は思っていたし、あれから特にこの男と親交を深めようとも思わなかったから、二人きりで話をすることも一切なかった。当然と言えば当然である。
 その彼が、わざわざ一人で金蝉の元を訪れる理由など、二つしか考えられない。
 そう結論づけて、金蝉は不機嫌極まりない面を隠しもしないで、じろりと捲簾を一瞥した。その視線を軽く受け流すように、捲簾はく、と片頬を器用に上げて微妙な笑みを形どる。
「――やっぱ来てねェよな」
「……天蓬、か」
 キョロキョロと視線だけで室内を見渡した後、捲簾はため息をつきつつ肩をすくめた。
 それにつられたように、金蝉もひとつため息を漏らす。
「あいにく、今日は一度も来てねぇよ」
「んー、なら仕方ねェなあ。ここなら絶対にいると思ったのによ」
「俺が知るか」
「あー、スミマセンでしたね。ったく、どこへ行きやがったアイツ」
 ここにはいない探しびとに対して文句を言いながら、捲簾はくるりと踵を返してそのまま部屋から出て行こうとした、その時。
 不意に、捲簾は何かを思い立ったかのように金蝉へと振り返った。そして、苦笑ぎみに呟く。
「アンタ、なんだな」
「……何がだ」
「結局、アイツがああなのは」
「それはどういう、」
 金蝉の問い掛けに捲簾は不可解な笑みを返すだけで、そのままするりと足早に退出してしまった。
 後は、訳が判らず困惑した金蝉だけが残される。
(いったい、なんだってんだ)
 金蝉は胸中で捲簾に対し悪態をつきながら、ふと先ほどの彼の言葉を脳裏に反芻した。

 ――結局、アイツがああなのは。

 金蝉は、軍での天蓬を知らない。
 多分、その金蝉の知らない天蓬の姿を指しての捲簾の意味深な言葉。
(“ああ”ってなんだよ)
 まるであてつけのような捲簾の言い方に、金蝉はだんだんと理由(わけ)もなく腹が立ってきた。わざと遠回しな言い方をした捲簾にも、そして、その原因をつくった天蓬に対しても。
 しかも、何故捲簾がわざわざあんな言い方をしたのか。その真意なんて解りたくもないが、解らないからこそ余計に苛つく。
 金蝉はぎり、と、奥歯を噛みしめると、深々と椅子の背凭れへ背中から身を沈み込ませた。
 どうして。
 こうも天蓬のこととなると、訳の判らない事で振りまわされてしまうのか。面倒な事に振りまわされることなど御免だと、あんなにも思っていたはず、なのに。
 金蝉は深く嘆息すると、そっと目を閉じた。
 とりあえず、気持ちを落ち着けようと、そう思った――矢先のこと。





「あれ、金蝉居眠りですか?」
 珍しいですねえ、という突如金蝉の耳に飛び込んできた間延びした声音に、金蝉はそれこそ音がしそうな程の勢いで、ばっと目蓋を開けた。
「天蓬!?」
「あ、起こしてしまいましたか。すみませんでした」
 金蝉が目を開けた途端、天蓬の端整な白貌がかなり至近距離にあって、予期せぬことに金蝉の心臓が跳ね上がる。その動揺を悟られまいと、金蝉はわざとらしくき、と、眼前の彼を睨めつけた。
「……ひとの顔、覗きこんでんじゃねぇよ」
「僕、金蝉の顔、すっごく好きなんですよねぇ。やっぱり、間近で見たいじゃないですか」
「はあ? 何言ってんだお前」
「だから、金蝉の顔が綺麗だってコトです」
 にこにこと屈託の無い笑みを浮かべながら、金蝉にとって意味不明な言葉を重ねる天蓬に向かい、金蝉は訝しげに柳眉をひそめた。天蓬がこういう事――金蝉が綺麗だなどと不可解な事を口にするのは今に始まったことではないのだが、今はそのことをどうこう言うよりもっと気になる事が金蝉にはあった。
 金蝉は軽くため息をつくと、ちらりと上目遣いで目の前に立つ天蓬を見る。
 ――今まで、天蓬のすることに、敢えて口をはさんだことは殆どなかったけれど。
「天蓬」
「…なんです?」
「なんで軍に入ったんだ、お前」
 唐突な金蝉の問い掛けに、天蓬は大きく目を見開いて、金蝉を見つめ返した。だが、すぐに目を細めつつ口許へ含み笑いを浮かべる。彼が何かを誤魔化そうとするときに浮かべる、曖昧な微笑み。
「どうしたんです、いきなり」
「別に。ただ、気になっただけだ」
 金蝉がこの質問を天蓬に投げかけたのは、実はこれで二度目である。
 一度目は、かなり昔、天蓬が天界軍に入ることを金蝉に初めて知らせに来た時のこと。この時は、見事に天蓬にかわされ、その答えは聞けず終いだった。
 そして、今もまた天蓬その答えをはぐらかすつもりなのか、誤魔化すように面に笑みを貼り付けて、思案ぎみに肩をすくめた。
「どうしても答えないと駄目ですかねえ?」
「――答えたくない、というのは俺だからか?」
「金蝉?」
 天蓬を凝視しながら、金蝉は机上に投げ出していた両手を組んで、思わずぎゅっと握りしめた。
 天蓬がこうして自分に会いに来る時には、軍での係わりを匂わすもの一切を敢えて殺ぎ落としてくるような気さえしていた。金蝉の予想が正しければ、多分、天蓬は意図的にそうしているのだ。
 つまりは、ほぼ完全に金蝉の前では軍でのことを切り離しているということ。
 どうしても金蝉が立ち入ることは出来ない、天蓬のもう一つの場所。しかも、――彼にとっては、軍(そこ)が真の生きる場所、かもしれない。
 そして、それを匂わすような、先ほどの捲簾の言葉。
 ――だから、訳もなく、苛立ちを覚えるのだ。
「もしかして、何かありました?」
 金蝉の態度に何か思うところがあったのか、天蓬は不意に厳しい表情を浮かべ、探るような視線を金蝉へと向けてきた。ほんのわずかの間、二人の視線だけが絡む。だが、先に目を逸らしたのは金蝉のほうだった。
「なんでもねぇよ。ただ、俺は軍でのお前を知らない。それだけのことだ」
「――」
 天蓬が息を呑む気配が伝わってくる。それに、金蝉は顔を上げて再度天蓬を見た。途端、ゆるりと、天蓬の口許が微苦笑へと変わる。
「ひとつだけ言わせてもらうと、甘えてるんですよね、僕」
「……ああ?」
 突然、脈絡のないことを言い出した天蓬を、金蝉は怪訝そうに見やった。そんな金蝉にかまうことなく、天蓬はなおも言葉を続ける。
「結局、貴方が許してくれるから。いつも」
「……何言ってんだお前」
 天蓬は困ったような笑みを湛えたまま、金蝉を見つめ返している。
 今度は金蝉のほうが言葉を失う番だった。天蓬が何を言いたいのか、さっぱり判らなかった。
「全然答えになってねぇよ」
「そうですか? この上なく、的確に答えたつもりですけど」
 天蓬の言葉は抽象的過ぎて、金蝉にはすぐには判りかねた。けれど、その言葉の意味をよく考えないと、何か大事なことを見落としてしまいそうな気がする。
 今の彼の言葉の真意はいったいなんなのか。それとも、金蝉をはぐらかしたいだけなのか。
 だが、いつものはぐらかしにしては、天蓬のこの表情が妙に気になる。金蝉はじっと、天蓬を無言で見据えた。
 そんな金蝉の視線に、天蓬はくすりと口許を緩め、不意にその身を屈めてそっと金蝉の唇に己のそれを押し当てた。触れるだけの軽い接吻。だが、ふと金蝉の鼻腔を甘く燻した香りがくすぐる。天蓬がいつも咥えている煙草の香り。
 天蓬の唇が名残り惜しげに離れた途端、金蝉はため息まじりに紫瞳を伏せた。
「そうやって、誤魔化す気か」
「どうしたんです、今日の貴方。――もしかして、捲簾がここに来たでしょう? 僕を探しに」
 政務机に両手をつき、金蝉へと迫る姿勢で、天蓬は有無を言わさぬ口調で訊いてくる。金蝉はちらりと天蓬を見上げ、再度ため息を漏らした。
「……ああ」
「で、何か余計なことを言ったと。そういう訳ですね?」
「お前、奴が探していることを知ってて、」
「言ったんですね、何か」
 にっこりと容赦なく金蝉を追い詰める笑みを刻んで、わざとらしく小首を傾げる天蓬に、金蝉は心中でこっそり嘆息した。こんな表情を浮かべている天蓬に、金蝉は勝てたためしがない。
「だから、どうだって言うんだ」
「気になるに決まってるじゃないですか。これが逆の立場なら、金蝉は、――気になりませんか?」
 気には、なる。それこそ、なるに決まっている。
 けれど、どうやってその感情を表に出せばいいのか、よく判らないし、何より――面倒なだけだ。
 表に出すことも、そんな感情に振りまわされることも。
 だから、何も言わない。何も訊かない。
 しかし、面倒だからと流してしまうには、先ほどの捲簾の言葉は、何故か金蝉の心の琴線に引っ掛かったのだ。
 それは、多分、判ってしまったから。
 自分の知らない天蓬のことをはっきり仄めかすことが出来る存在など、今までは誰もいなかった。
 だが、捲簾は違う。金蝉とは別意味で、天蓬と近しい場所にいる存在。
 今まであまり意識しないでいた天蓬の別の顔――もしかしたら、彼の本質かもしれないその顔を、自分がまったく知らないことにどうしようもない強い苛立ちを、金蝉は初めて感じた。そういう意味では、決して自分と天蓬は同じ場所に立っているわけではないのだと、思い知らされた気分だった。
 決して、金蝉には踏み込めない場所――それはどんなに望んでも手に入れることは出来ないと、金蝉自身よく解ってはいるけれど。
 それでも。
 それでも、天蓬を望んだのは金蝉自身。
 そして、そんな金蝉を貪欲に求めてくる天蓬。
 結局、より深く相手を求めているのは、果たしてどちらなのか。相手のすべてをより知りたいと、そう思っているのは、果たして。
 しかし、それでも金蝉はその想いをどう言葉にしていいのか判らなかった。かろうじて、例の質問を口にしたものの、それてもまだ足りない。――それは、判るのに。
 金蝉は意味ありげに天蓬を一瞥すると、不意に彼の左腕を取り自分の方へと引き寄せた。そして、自分のそれを天蓬の唇に押し当てる。ただ掠めるだけの不器用な接吻は、すぐに離された。天蓬はそんな金蝉をまったく表情を変えずに受け止める。
 だが、金蝉が離れた刹那、ふ、と小さくため息を零した。
「貴方のほうが、そうやって上手に誤魔化すんですから」
 接吻ひとつで舞い上がっちゃう僕のほうが損をした気分です、と悔しそうに呟く天蓬を、金蝉は意外そうに見つめ返した。
「何言ってやがる。そうやって、いつも俺を誤魔化すのはお前だろうが」
「そうですか? まあ、さっきの質問の返事を聞いていない気がしますが、今は誤魔化されてあげます。だから」
「……だから?」
「捲簾が何を言ったのかだけは教えて下さい」
 ――全然、誤魔化される気はねぇんだな。
 にっこりと脅迫じみた笑みを浮かべて詰め寄る天蓬に、金蝉はがくりと肩を落とした。こういう言葉のやりとりだと、明らかに金蝉のほうが分が悪い。いつものことではあるが。
「お前の事は何も言ってねぇよ。俺の事を口にしただけだ」
「……ホントですか?」
 天蓬は、露骨に探るような視線を金蝉に向けてくる。金蝉は肩で大きく息を吐き出しつ、そっと目を伏せた。
 嘘では、ない。
 確かに、捲簾は“アイツ”と言っただけで、天蓬の名はまったく口にしなかった。ただし、金蝉の事を口にしつつ、婉曲的に天蓬の事を言っていたことには間違いないが。だからと言って、その事実を天蓬に言う気はなかった。
「ああ。これで気が済んだか」
「全然済んでないんですけど、仕方ないですねぇ。これ以上は、貴方絶対に口を割らないでしょうし。でも、」
「何だ」
「貴方がいるから。僕は僕のやりたいようにしか出来ないけれど、――“ここ”にいられるんです」
 まっすぐ金蝉を見据えながら言い切る天蓬に、金蝉は思わず息を呑んで彼を見上げた。
 天蓬のこの言葉の意味は、いったい――。
「天蓬、」
「こんなこと、金蝉だから言えなかったんですよ、今まで」
 そう苦笑する天蓬を、金蝉はただ茫然と見つめるしかなかった。
 ――肝心なことはいつも口にしないくせに。
 今、こんなふうに、不意打ちで大事な、とても大事なことを言葉にした天蓬を理由(わけ)もなくずるいと、金蝉は思った。何かを言わなければと、思う。けれど、咄嗟にどう言葉を返していいか、金蝉は判らなかった。
 ただ、無言で天蓬を見つめることしか出来ない。
 何か言いたげな視線だけを向ける金蝉に、天蓬はさらに苦笑を深めた。言葉で伝えられないならと、金蝉は再び天蓬の腕を取ろうと手を伸ばした。
 ――すると。
「テメェ、やっぱりここにいたのかよっ!」
 あと少しで天蓬の腕を掴める寸前に乱入してきた人物の怒声に、金蝉は思わずその姿勢のまま固まってしまった。天蓬は深いため息をひとつ漏らすと、そのまま顔だけを闖入者へ向ける。
「ああ、見つかってしまいましたか。残念」
「残念じゃねェよ。俺がどれだけ探したと思ってる!? ここで見つけたが最後、ぜってー出席してもらうからな」
「はいはい、仕方ないですねぇ……。という訳で、金蝉、失礼しました」
 離れ際、天蓬は名残惜しげにそろりと金蝉の指に触れてきた。その冷ややかな指の感触に、金蝉は我に返って天蓬を見る。途端、天蓬の口元に刻まれた、さまざまな感情が入り混じったような複雑な笑みに、金蝉は目を瞠った。
 ――離したく、ない。
「……っ、」
 不意に胸裡に浮かび上がった強い感情に、金蝉は思わず息を呑む。だが、しかし。
「金蝉?」
「……いや、なんでもねぇ。早く行けよ。奴が待っているだろ」
「ええ。じゃあ、また来ます」
 そろりと踵を返した天蓬と捲簾が退出するのを無言で見送ってから、金蝉は詰めていた息を吐き出しつつ椅子に深く腰掛け直した。そして、自分の感情を持て余すように、宙を見上げる。





 黙っているだけでは、何も変わらない。
 金蝉にしろ、天蓬にしろ、自分達の間にあまりにも「言葉」が足りないことに気づいてはいる。今も、結局のところお互いに、肝心なことや決定的なことは何も口にしていない。
 本当は、もっと色々なことを、ちゃんと言葉にしなければいけないのではないかと金蝉は思う。
 けれど、大切だから伝えられないことも、ある。互いが大切だからこそ、自分達は今まで、「沈黙」という一番曖昧で一番楽で一番もどかしい手段でしかつきあえなかったのだけど。
 本当に、彼が欲しいと思うのなら。
 それだけでは、駄目なのだと。






 沈黙の言葉だけでは。








FIN

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