I'm here saying nothing.




 このところ、ちっとも天蓬が姿を見せない。訪ねてもこない。
 これに業を煮やした金蝉は、めずらしくも自分から天蓬の私室へと足を伸ばすことにした。大方、私室で読書三昧に明け暮れているんだろうと、不機嫌さ全開で彼の部屋へと向かう。
 金蝉の部屋から天蓬の部屋までは、まったく建物の立つ敷地が異なるため、それなりに距離がある。体力皆無の金蝉にとって、たかだかこの程度の距離を歩くことすら、煩わしかった。それでもわざわざ自分から足を伸ばすその意味を、だが金蝉ははっきりと意識したことはなかった。だから、胸中でぶつぶつ文句を言いつつも、それでも足は天蓬の部屋へと歩を進める。
 ようやく彼の部屋の前にたどり着いて、金蝉は少し上がった息を整えるように、肩で大きく一息ついた。そして、まずは扉を叩こうと右腕を上げた、その時。
「――金蝉童子様」
 不意に背後からかけられた呼びかけに、金蝉はいぶかしげな視線を声のしたほうへと向けた。すると、西方軍の制服を身につけた下士官が、息せき切って金蝉へと近づいてきた。少々慌てたふうな下士官の様子に、金蝉は怪訝そうに眉宇をひそめる。
「どうした」
「あの、実は、ここ三日ほど、天蓬元帥が行方不明なのであります。特に連絡ひとつもなく、出勤もなさらずの状況で。多分、この部屋にいらっしゃるとは思うのですが」
「なら、なかに入ればいいだろうが」
「それが、……どんなに呼んでも、何度扉を叩いても、何の返事もないのです。こうして、時間を空けてずっとくり返してはいるのですが」
 下士官の言葉に、金蝉は心底呆れたと、ちいさく瞠目した。
 まったく、……天蓬という男は。
 今回も多分、読書に熱中しすぎていて、まわりの雑音などいっさい耳に入らない状態に違いないのだ。ずぼらもここまでくれば呆れるしかないと、金蝉は深くため息をついた。
「判ったよ。俺がなかの様子を見てくるから、お前はもう詰所に戻れ。大方、読書に熱中しているんだろうよ」
「……金蝉童子様は、どうやってなかへお入りに?」
「ここの鍵を持っている。なんかあったら、奴に連絡させるから」
「了解いたしました。それでは失礼いたします」
 金蝉の台詞に、下士官は恭しく頭を下げると、そのまま踵を返して来た道を戻っていった。その姿が回廊から見えなくなったのを見届けてから、金蝉は再度扉に向き直ると、ゆっくりと合鍵を鍵穴へと鎖しこむ。この鍵を無理やり天蓬から押し付けられた時には、絶対に使う機会なんてないと思っていたのに、案外早く使う羽目になったと、彼に対して心中で悪態をつくのも忘れない。
 鍵を開けて、そろりと扉を開ける。金蝉は、ゆっくりと部屋のなかを窺うように体をすべりこませた。途端、目に入った予想だにしていなかった光景に、金蝉は思わず息を呑んだ。
 部屋のなかに、確かに天蓬はいた。ただし、二人掛け用のソファの上に、ぐったりと仰向けに寝転んでいた。明らかに、ただ寝ているのとは様子が違う。
 金蝉はひどく驚いて、つかつかと彼のもとへと近寄った。そして、その顔を覗き込む。
 顔が赤い。ということは。
 金蝉がそろりと天蓬の額に手をのせると、ものすごく熱かった。つまりは、高熱を出してぶっ倒れているというわけだ。
 これはどうにかしないとと、神妙な面持ちで金蝉が彼の額から手を離した刹那。
「……すごい夢だなあ……とうとう金蝉まで登場ですか……」
 熱でとろんと潤んだ瞳を半開きにして、天蓬はそうつぶやきつつ、ほわんと嬉しそうに微笑んだ。
 彼のどこか間の抜けた声音に、金蝉のなかでぷつんと何かが切れた音がした。そして。
「何バカなこと言ってやがる! 俺は本物だ!」
 思わず金蝉は、天蓬が病人であることを忘れて怒鳴りつけた。それでようやく、天蓬ははっきりと覚醒したのか、ぱちりと目を見開き、眼前の金蝉を凝視した。
「あ、れ、……金蝉、ですか?」
「あれ、じゃねぇよ。ほら、俺の肩に掴まれ。ベッドに運んでやる」
 熱にうかされた目でぼんやりと金蝉を見つめてくる天蓬をちらりと見やると、彼の体を起こしながら自分の肩に天蓬の体をもたれかけるように腕をまわした。高熱で体に力が入らないのか、天蓬の体重がそのまま金蝉の肩にかかって、立ち上がり際、金蝉の体が少しよろめく。
「……だいじょうぶ、です……?」
「ウルセェ。お前は黙ってよっかかってろ」
 思ったよりうまく天蓬の体を支えきれなかったことを、ばつが悪げに顔をしかめると、それでも金蝉はひきずるように隣室にある寝台まで彼を連れて行った。漸う天蓬を寝台へと横たわらせたところで、ひとまず安堵の息をつく。
 そして、寝台の横に仁王立ちして、金蝉は天蓬を見下ろすかたちできつく睨んだ。
「なんでこんなになるまで黙ってんだよ。こうなる前に、誰か呼べ!」
 天蓬の無頓着ぶりに腹をたてている金蝉は、ついきつい口調で言い放った。それに、天蓬は自嘲気味に口の端を上げると、すっと金蝉から視線をそらす。
「うーん、……どうでもよかったんですよ。なぜか」
 その言葉に、金蝉はなんとも言えない表情を面にのせた。それは、まるで、金蝉すら否定している響きに聞こえたのだ。不意に冷水を浴びせられたような、頭の芯が冷えていくような感覚に、金蝉は思わず息をつめた。
 そんな金蝉の表情を見て、天蓬は困ったように笑みをこぼした。
「ああ、……すみません。言葉、足りなくて。……金蝉以外、どうでもよかったんですよ。でも、貴方、簡単に呼べないじゃないですか。それなら、もうどうでもいいや、って…。なのに、貴方が来てくれて、……びっくりですよ」
 少し苦しそうに息をつぎながら、それでも天蓬は嬉しそうに心情を吐露する。そんな天蓬を見ていられなくて、金蝉はこの胸中をうずまくもどかしさを悟られないように、わざと柳眉をひそめた。そして、再度、眼下の天蓬を睨めつけた。
「何も言わないで伝わるわけがねぇだろうが」
「……貴方が、それを言うんですか…?」
 高熱で苦しそうでありながら、しっかりと意思のある、探るような眼差しを向けてくる彼に、金蝉はまた言葉をなくす。金蝉の言葉に対して、どうして天蓬がこんな台詞を返してくるのか、その真意が金蝉には判らなかった。
 それはいったい。
(――どういう意味だ?)
 金蝉は無言で天蓬を凝視すると、同じだけの強さで天蓬も見つめ返してきた。互いの視線が交錯する。
 先にその沈黙に耐えられなくなったのは、金蝉のほうだった。金蝉はこれ見よがしに深々とため息をつくと、ちらりと天蓬を見やる。
「……もう寝ろ。俺がいるから」
「……でも、」
「俺のほうから来たんだ。気にするな」
 金蝉の言葉に、先ほどの強気の視線が嘘のように、天蓬はひっそりと窺うような瞳を向けてきた。そんな彼の、めずらしく心もとない面持ちに、金蝉もふわりと口元をゆるめる。それに安堵したのか、天蓬はうっすらとあわく微笑んだ。
「じゃあ、ひとつだけ我侭を言っていいです……?」
「なんだ」
「…僕が眠るまででいいんで、そばにいて下さい」
 それ以上は望みませんよ。はかなげな笑みを浮かべながら、そう言い切る天蓬に、金蝉の胸奥に複雑な思いがよぎる。こんなふうに、天蓬が判りやすいかたちで甘えてくるのは、本当にめずらしいから。
 だから。
 金蝉は、部屋の隅で本置き場と化していた椅子を使える状態にすると、そのまま寝台の横へと置いた。そして、そこへ腰をおろす。
「――判った」
 金蝉の返事に安心したのか、天蓬はふんわりと破顔して、そのままゆっくりと双眸を閉じた。熱のせいか、少し苦しそうな寝息をたて始めた天蓬を見つめ、金蝉は思わず、とため息を漏らす。
 何も言わないで伝わるものなど、物理的にはあるはずがない。
 それでも、何も言わなくても伝わるときも確かにある。金蝉と天蓬の関係は、まさにそれに近い。けれど。
 それだけでは、駄目な気がする。
 何も言わないで、とどまり続けているだけでは。
 天蓬の寝顔を黙って見つめ続けながら、金蝉はふと思った。
(もしかしたら、――天蓬は、そう言いたかったのか?)
 何も言わないまま、ただ互いの距離を計っているような今の関係に、天蓬も思うところがあるのだろう。だが、あくまでも、頭ではそうと判っていても、だからどうしたらいいの今の金蝉にはまったく判らなかった。
 それならば、――今のままでいい。何も言わないまま、何も伝えないまま。
 金蝉は心中のわだかまりを吐き出すように嘆息すると、もう一度天蓬を見つめた。
 こんなときですら、金蝉に不可解な言葉をぶつけてくる天蓬を、遠いと思いながら。








FIN

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