桜の滴




 しんと静まり返った室内に、こつこつと、控えめに扉を叩く音が響いた。
 その音に、金蝉はいぶかしげに扉のほうを見やった。はしゃぐ悟空をようやく寝かしつけて一息ついたところへの来訪者に、金蝉は深々とため息をついた。
 こんな夜半に、金蝉の私室を訪ねてくる人間など一人しかいない。
 金蝉は仕方がなさそうに寝台から降りると、肩にかかる長い金糸をうっとうしげにかき上げつつ、扉へと向かった。鍵を外してゆっくりと取っ手を外側へ引く。
「――天蓬」
 果たして金蝉の予想通り、扉の前に立っていたのはにこやかな笑顔を浮かべた天蓬だった。金蝉はこれ見よがしに顔をしかめて、不機嫌さを隠しもしないで彼を見つめる。
「もしかして、もうお休みでしたか?」
 就寝中、金蝉は後ろでまとめている髪の毛をほどくのが常である。悟空を寝かしつけたらそのまま寝ようと思っていたから、今金蝉の金糸はおろされている状態だった。その姿を見て、天蓬は少々苦笑ぎみに尋ねる。
「今やっとサルを寝かしつけたところだ。……で、お前は何しに来た」
「ちょっと夜這いに」
 くすくすとしのび笑いを洩らしながら天蓬が言うのに、金蝉はますます嫌そうに柳眉をひそめた。天蓬の場合、どこまで本気か判らないからこそ、とっさにどう反応していいのか判らない。だから、その思いを誤魔化すように、金蝉はとんでもないことを口にした彼を睨みつけた。
「お前、」
「冗談ですよ、金蝉。そんなに怖い顔をしないで下さい。いえね、これから僕と花見酒としゃれこみませんか?」
「……花見酒だと?」
 天蓬はにっこり微笑みながら、どうやら後ろ手に隠していたらしい酒瓶を、すいと金蝉の目の前に掲げた。それをまじまじと凝視してから、金蝉は再度天蓬を見つめ返す。
 下界と違い、天界の桜は年中咲き誇っていて、その花が絶えることはない。それを、何をわざわざ今、しかもこんな夜中に花見などしなければならないのか。天蓬の真意が判らなくて、金蝉はますます眉間に皺を寄せた。
「実はですねえ。僕、さっきまで自室でずーっと本を読んでいたんですけど、ふと窓越しに、部屋のすぐそばにある桜を見たらそれはもう見事に咲いていてですね。今、金蝉とこの夜桜をいっしょに見たいと、そう思ったんでつい」
 そして、花見といえば酒でしょう、とにこやかに言い切る天蓬に、金蝉は絶句した。だが、天蓬の言葉にそれだけではない何かがあるような気がして、このまま天蓬の誘いを断る気にもなれなかった。
 金蝉はちらりと寝台の上で行儀悪く眠る悟空を見て、しばらくは絶対に目を覚まさないだろうことを確認してから、そのまま扉の外に出て鍵をかけた。そして、くるりと天蓬へと向き直る。
「おい、行くぞ」
「金蝉?」
 先に歩き出した金蝉をいぶかしむような天蓬の声音に、金蝉はちらりと彼を流し見た。そして、またまっすぐに前を向いて歩き出す。ふわりと、金蝉の金糸が天蓬の視界をかすめつつひるがえった。
「花見、するんだろ。お前の部屋で」
「――ええ」
 金蝉の横に並んだ天蓬がうれしげに微笑む。その笑みに、金蝉は一瞬目を瞠ったが、すぐに前方を向いて目的地へと向かった。
 そこにたどり着けば、この天蓬の笑顔の意味も判るような気がした。




 天蓬の私室に入った途端、全開に開け放たれた窓から見える桜の咲き誇るさまに、金蝉は思わず息を呑んだ。
 常々、彼の私室のすぐそばにある桜の大木の咲きようは、昼間見ても見事だと思っていた。実際この宮中にはそれこそ何十本もの桜の木があるが、その中でも一二を争うほどの立派なものであると、金蝉は思っていた。
 こんなふうに、夜まじまじと桜を見ることなど、金蝉にとっては初めてである。だから日中見るのとはまったく赴きが違う桜に、金蝉はただ黙って見つめることしかできなかった。
「ね、見事でしょう?」
 呆然と立ちつくす金蝉の横を擦り抜けて、天蓬はまっすぐに窓のほうへ向かうと、慣れた動きで窓枠へと腰掛けた。入り口に立ったままの金蝉に向かい、ふわりと微笑む。
「そんなところへ立ったままなのもなんですから、椅子でも持ってこちらへどうぞ」
 天蓬の誘いに、金蝉は我に返ると、ばつが悪げに顔をしかめてゆっくりと彼の示した場所――窓の真正面へ立った。椅子に座るよりも、このほうが桜がよく見えると思った。
「金蝉、座らないんですか」
「このままでいい。それより、酒は」
「はいはい。今つぎますから」
 どこに隠し持っていたのか、天蓬は小さな杯をふたつ窓枠に置いて、ゆっくりと酒をつぎ始める。酒をそそいだ杯をそっと金蝉に渡しつつ、天蓬はすぐに自分の分の酒をあおった。
「やっぱり、一人で飲むより、貴方といっしょだと酒もおいしいですよねえ」
 にこにこと、先ほどからまるではしゃいでいるような雰囲気の天蓬に、金蝉は内心で嘆息した。何やら、今日の天蓬はどこかおかしい。先ほどのうれしげなのに、貼り付けたような、どこか消え入りそうな笑みといい。
 金蝉は、窓枠に腰掛ける彼を見下ろしながら凝視した。
 その露骨な金蝉の視線に気づいて、天蓬は苦笑じみた曖昧な笑みを向けてきた。金蝉は手にしていた酒を一気にあおって、無言で空になった杯を窓枠に置く。
「おかわりですか、金蝉?」
「なんで、今なんだ?」
 金蝉の問いかけに、天蓬は一瞬大きく目を見開いた。だが、まっすぐ見据える金蝉から視線をはずして、桜の大木へと瞳を向ける。
「どうして、貴方には判ってしまうんですかねえ?」
「俺をみくびんな」
「いえいえ、そんなつもりは全然ないです。むしろ、うれしいですよ」
 天蓬はくすりと笑みを洩らすと、ゆっくりと金蝉を見つめ返した。
「なんだか、今、貴方とこの桜を見なければと、すごく駆り立てられる気分になったんですよ。変ですよね。何も今、と僕も思います。でも、――もしかしたら、ってこともあるかもしれないと、そう思ってしまったんですよね」
 ただの感傷かもしれませんが。そう淋しげに微笑む天蓬に、金蝉の胸中を何と表現していいか判らない不可解な感情がよぎる。ざわざわと、胸の奥から湧き上がる、不安にも似た――。
「もしかしたら、って何だよ」
「……永遠なんてないかもしれないってことです」
 天蓬ははっきり言い切って、金蝉から視線をはずした。そして、再び杯に酒をそそいで、杯を両手で持ちゆらゆらと揺らす自分の手元をじっと見た。
「僕たちは一応“永遠”が約束された身です。でも、本当に明日もまた、貴方とこうしていられる保証などどこにもないじゃないですか」
「何言ってるんだ、お前」
「だから、今貴方と、この桜を見たかったんです。今見ないと後悔するような気がして」
「――」
 いったい、何を言い出すつもりなのか、天蓬は。
 彼の口から語られた理由に、金蝉はただ茫然と天蓬を見た。こんなに近くにいるのに、どうしてこんなにも天蓬を遠くに感じるのだろう。手を伸ばして彼を掴んでも、金蝉の手からさらさらと、まるで舞い散る桜の花びらのごとく、擦り抜けていくようで――。
 自分の前から天蓬が消えてしまいそうな錯覚に、金蝉はぎりと奥歯を噛み締めた。
 金蝉は不意に天蓬の頬を両手で挟みこんで、ぐいと持ち上げるように彼の顔を起こさせ、立ち上がらせた。しっかりと天蓬とほぼ同じ高さで目線を合わせて、きつく射抜くような視線を送る。彼を、ここから逃がさないように。
「ちゃんと、俺が見えてるか?」
「ええ、大丈夫です」
 そう言って、天蓬はあわく微笑んだ。まるで桜の散り様にも似た、はかなげな笑みに、金蝉は息を呑む。
 桜に、さらわれるのか。このまま散りゆく桜とともに、天蓬もさらわれるのか――?
 夜桜から醸し出される、どこか狂気を孕んだ雰囲気に、金蝉も呑まれているのかもしれなかった。だから、それを振り切るように、金蝉はそろりと天蓬を抱きしめる。すると、金蝉の肩口に顔をうずめた天蓬が、くすくすと笑いをこぼした。
「好きですよ、金蝉」
「ああ、――俺もだ」
 天蓬のつぶやきに応えるように、金蝉はいとおしげに彼の背を撫でた。この、誰よりも強くて、誰よりも刹那的で、そして誰よりも脆い魂を持った彼を、心からいとおしいと金蝉は思う。
「本当に嫌になるくらい、貴方のことが好きなんですよ僕」
「……嫌なのか?」
「いいえ、そういう意味ではなくて――」
 天蓬はゆっくりと金蝉の肩に腕を回した。そして、至近距離でささやく。
「こんなにも貴方のことが好きで、貴方もそれに応えてくれて――。幸せすぎてこわいくらいですよ」
「天蓬」
「だから、あんな埒もないことを思ってしまったんですかね。……すみません」
 こんなとき。
 何も言えない自分自身に歯噛みしたくなる。
 気の利いた言葉ひとつ言えなくて、でもどこか泣きそうな笑みを浮かべて微笑む彼に何か返したくて、――金蝉は目の前の彼をただ抱きしめることしかできなかった。ちゃんと天蓬に伝わるように、静かに彼を抱きしめる。
 そろそろと、金蝉の背中に無言で腕を回してきた天蓬に安堵しつつ、金蝉はもっと深くその痩身を抱き込んだ。二人の間に舞い散る桜の花びらごと。




 この、はらはらと散りゆく桜のように。
 天蓬が自分の元から擦り抜けていかないようにと、誰にともなく祈りながら。








FIN

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