嬌笑




 金蝉がめずらしく自分から天蓬の部屋に赴くと、そこに彼の姿はなかった。
 天蓬の部屋の入り口で、金蝉は仁王立ちをしたまま、予定外のことに深々とため息をつく。
(――なんだ、いねぇのか)
 下界に降りているとも、軍の召集がかかっているとも聞いてはいない。ということは、今の彼の立場からすると軍法会議といったところか。ともあれ、あの出不精の男が部屋にいないとなると、行き先は限られている。実際、軍法会議なら長引きそうだ。
 そう結論づけると、金蝉はきびすを返して、そのまま天蓬の部屋から退出しようとした。が、一歩踏み出したところでふと足を止める。
 せっかくわざわざここまで足を運んだのに、これであっさり引き返すのも面倒だった。金蝉はそう思い直して、勝手知ったる他人の部屋とばかりに、入り口の扉を閉めて室内へと入っていく。そして、うず高く積まれた書物の山の中にあって、かろうじて使用可能状態であるソファに悠然と腰を下ろした。
 久しぶりに訪れた天蓬の部屋は、あいかわらず彼の趣味と実益によって集められた書物で、それこそ足の踏み場がないくらいにあふれかえっていた。必要最低限のものしか置かれていない金蝉の部屋とは実に対称的な、それ。
 ――部屋の中味が、その人の人となりを如実に現すと言ったのはいったいどこの誰だったか。
 金蝉はぐるりとその室内を一瞥して、顔をしかめつつ嘆息した。その言葉が真実ならば、天蓬の本質はこの雑然とした部屋そのまんまと言うことになる。金蝉にとって、天蓬とはそれなりにつきあいが長いほうではあるが、未だに判らないことだらけだった。そう、まるでこの部屋の中のように、結局は本心がどこにあるのか見せないし、判らない。
 ……考えすぎか、と金蝉はどんどん思考の淵に沈み込みそうな自分を引き戻すように、ソファに深く腰掛け直した。たかが、天蓬の部屋にいるだけでいったい自分は何を深刻に考えているのか。
(ただ、ずぼらなだけじゃねぇか)
 結局、いつも部屋を散らかしっぱなしにしている天蓬が悪い。金蝉はここには居ない彼の顔を思い浮かべ、ますます眉間の皺を深くした。これは戻ってきたら早々に片付けさせようと決意も固くする。もちろん、金蝉が手伝う気はさらさらない。この状態の部屋の中にいることで、いらぬ事を考えてしまうこと自体が煩わしかった。
「あれ、――金蝉、めずらしいですね」
 刹那、背後から聞こえてきた聞き覚えのある声に、金蝉ははっと我に返る。しかめっ面のままゆっくりと声のしたほうへと顔だけを向けると、扉を開けてこの部屋の主である天蓬が意外そうな表情を浮かべて入ってくるところだった。天蓬は上手に書物の山を避けながら、慣れた足取りで政務机へと近づき手にしていた書類のたばをほおり投げ、今度はまっすぐに金蝉が座っている向かいのソファへと腰掛けた。
 そして、金蝉に向かいにこりと微笑む。
「どうしたんですか。貴方が直接ここまで来るなんて」
「――来たらまずいのか?」
「とんでもない。大歓迎ですよ。ただ、用がなければここまでわざわざ来たりはしないでしょう、貴方は。だから、今日は何の御用かと思って」
 笑顔を貼りつかせたまま、天蓬は口の端をつり上げた。それへ、金蝉はいぶかしげに目を瞠った。
 天蓬の言葉にわずかだが苛立ちが含まれているような気がする。
 たいていの人間は、この表面的な笑みに煙をまかれ、その奥に隠されている天蓬の心の機微にまで気がつかない。金蝉とて、いつも彼の感情の動きが判るわけではないが、この時ばかりはすぐに天蓬の笑顔の裏にある棘に気づいてしまった。
 金蝉はわざとらしくため息をついて、じろりと天蓬を見据える。
「元帥に昇格したそうだな」
「ああ、そのことですか。ええ、ありがたくも昇進いたしましたよ。それで、さっきまで会議に出席させられていましたし」
 やはり天蓬の言葉はどこか刺々しい。こういった含みのある表情を貼りつかせている時の彼ほど手におえないのは、長いつきあい上金蝉もよく判っていた。だから、面倒くさいとばかりに舌打ちする。訳の判らない理由で、天蓬にあたられるのはまっぴらだった。
「……何かあったのか」
 ここで天蓬を突き放してしまえないのが、金蝉の金蝉たるところである。そんな金蝉の態度に、天蓬は決まり悪げに視線を宙に浮かすと、ぽすんと背中からソファへと沈み込んだ。
「何でもお見通しなんですねぇ、金蝉は」
 かないません、と天蓬は苦笑した。そして、おもむろに白衣のポケットから煙草を取り出し火をつけた。
「誤魔化すなよ」
「すみません。ちょっと慣れないこと続きでつい苛々していたんです。元帥なんて大層な階級をいただいたら好き勝手できると思ってましたけど、そうでもないんですねぇ。確かに好きにできることも増えましたけど、その分面倒なことも増えて、ちょっとうんざりしてるんですよ」
 天蓬はシニカルな笑みを刷いて、金蝉に向き直った。天蓬の言い分に、金蝉はやれやれと肩をすくめる。
「お前……、これ以上何を好き勝手したいんだ!?」
「だって、下っ端のままだと何するにしてもいちいち全部上の指示を仰がないといけないんですよ? そのためにいちいち書類書くのも報告に行くのも面倒だし、さすがに元帥ともなると自己裁量の幅が広がりますからねぇ。そしたら、ある程度の方向性が上から示されていたら、後は僕の判断でどうとでも動けるわけですよ。これに惹かれて、頑張ったんですけどねえ。想いの外、煩わしい会議や提出物が多くて、これはしてやられたと」
 酷いと思いませんか!? と、天蓬から同意を求められ、金蝉はただ呆れるしかなかった。要は、――何事においても興味のないこと以外には恐ろしくずぼらな天蓬が、煩雑な雑用から逃れたいがために昇格を目指したはいいが、予想外の煩わしさに腹を立てているということらしい。理由が理由だけに、金蝉は返す言葉もなかった。
 だが、それらしく並びたてたこの理由もいったいどこまでが本音なのか、実際のところ金蝉には判りかねた。はぐらかすことにかけては、この男に敵う者などいない。
 金蝉は渋面のまま、改めて対面に腰掛けている天蓬を見た。その視線に気づいて、天蓬はそんな金蝉の態度を窺うようにくすくすと喉を震わせて笑った。
「それで、結局、貴方がここに来たのは、元帥になった僕の顔でも見にきたと、そういうことですか?」
「ああ、元帥になったお前の面でも拝んでやろうと思ってな」
「へええ。で、実際のところどうです?」
 どうやら面白がっているらしく、天蓬は色素の薄い瞳を悪戯っぽく細めて、金蝉ににっこりと微笑みかけた。そんな彼の様子に、逆に金蝉のほうが不機嫌そうに顔をしかめる。
「特に変わった様子はねぇな」
「あははは。いったい貴方は何を期待していたんです? ――例えば? もしかして、元帥になったからといって、僕があの暑苦しい軍服をきちんと着ているとでも思ったんですか?」
 天蓬はさも心外と失笑した。あからさまな彼の態度に、金蝉の機嫌がますます急降下をたどる。しかし、天蓬へと言葉を返すべく金蝉が彼を見つめ返した刹那、金蝉は思わず息を呑んだ。――天蓬の玉貌に浮かぶあまりに剣呑な感情をのせた笑みに、視線が釘付けになる。  目が、離せない。
「それこそ願い下げですよ。僕は強要されるなんてまっぴらですから」
「お前に物事を強要できる命知らずな奴がいるとは思えんがな」
 ちらりと彼を窺いつつ、ため息まじりにつぶやいた金蝉の台詞に、天蓬はぴくりと片眉を器用に上げてみせた。それこそ心外な、といった表情を浮かべている。
「失礼ですねぇ、金蝉。それじゃあ、僕が極悪非道な人みたいじゃないですか」
「違うのか?」
「貴方ねぇ。いったい僕のことを何だと思ってるんです? これでも軍の組織の中でちゃんとやっていってるじゃないですか。そんな僕のどこが極悪非道なのか教えていただきたいものです」
「……そういえば、前に来た時には着任したばかりの副官がいたと思うが、あのうだつのあがらなそうな奴はどうした?」
「ああ、彼なら速攻でやめてしまいましたよ。なんでも、僕の下でやっていける自信がないとか。失礼ですよねぇ。金蝉の言う通り、まさにうだつがあがらない男でしたから、まあいいんですけど」
「――これで何人目だ、副官の交代は……」
「そんなこといちいち覚えてられませんよ。昇格してからは僕に任命権があるんで、もう面倒だからしばらく副官はなしでいこうかと。その分、大将にでも雑務をこなしていただこうかとは思ってるんですけどね」
 何でもないことのように言い切る天蓬に、金蝉は思わずこめかみを押さえ、深く息を吐いた。まったく、どこまでもマイペースなこの男は、自身がいかに危険人物であるかという自覚がないらしい。それとも、天蓬のことだ。判っていない素振りをみせながら、本当は判っていてやっているのかもしれなかった。まったく、――どこまでも喰えない男である。
 そして、金蝉は、その喰えない男にいいように振り回されている自覚があった。だから、天蓬の口元が、ゆるりといやな類の笑みを形作ったのを目の端で捉えた途端、金蝉はいやな予感に心中で嘆息した。彼の口から紡ぎだされるであろうとんでもないことに対処すべく、身構える。
「そうだ、金蝉。せっかくだから、僕に何かお祝いでもくれませんか?」
「…………お祝い、だと?」
「せっかくここまでご足労いただいたわけだし、ね」
 いいですよね、と笑顔で迫る天蓬に、金蝉はいやな予感とはこれか、と肩を落とした。そして、こんな脅迫じみた笑みを満面に浮かべている時の彼に、金蝉は勝てた例がなかった。
「何が欲しいんだ、お前は」
「そうですねぇ。……せっかくだから、金蝉からキスしてもらえませんか?」
「……誰に」
「僕に決まってるじゃないですか」
 そう言って、天蓬は艶然と微笑んだ。その、あでやかな笑みに惹かれるように、金蝉は思わず目を見開いて目の前の男を凝視した。
「天蓬、」
「これくらいなら簡単でしょう?」
 天蓬はさらに笑みを深めて、じっと金蝉を見据えてくる。その瞳の奥に見え隠れする色香に気づいて、金蝉は諦めまじりにため息をついた。結局、こうして天蓬に囚われるのはいつも自分のほうだと、思い知らされる。
「俺を煽って楽しいか?」
「――楽しいですよ。こうでもしないと貴方、こちらを向いてくれませんからね」
 惜しげもなく嬌笑を浮かべる天蓬は、凄絶なまでにあでやかだった。――この笑みから逃れられる術があるならば教えて欲しいくらいだと、金蝉は心から思った。だが、本気で逃れる気がない自分がいることも、金蝉には判っていた。
 金蝉はそろりと腕を伸ばして、上向き加減に天蓬の顎を捕らえた。そして、ゆっくりと自分の口唇を天蓬のそれへと触れ合わせる。
 一度口づけてしまうと、後はなし崩しだった。あんな風に煽られて、キスだけで終われるはずがなかった。だから、金蝉は深く口づけたまま、彼をそのままソファへと押し倒す。その弾みで接吻が解かれた瞬間、天蓬は困った風な表情を浮かべて、自分を組み敷く金蝉を見上げた。
「あの、ここで、ですか?」
「煽ったのはお前だろうが」
「いや、するのはいいんですけど、せめて寝室に移動しません? ここだと誰が訪ねてくるか判ったもんじゃないですからねぇ」
 のんびりとした口調で色気のないことを口にしつつ、でもあいかわらず婉然とした笑みを刷いて、天蓬はそろりと金蝉の頬を撫でた。その手の動きにぞくりと金蝉の背筋が泡立つ。
 一瞬、このままキスだけで終わらせてしまおうかと思ったが、眼下の天蓬の双眸は、口づけだけでは満足できないと雄弁に物語っていた。金蝉は仕方がないと顔をしかめて、ゆっくりとした動作で天蓬の眼鏡を取り上げ、ソファの端へとほおり投げた。
「鍵はかけたのか」
「ええ、一応は」
「なら、いいじゃねぇか。ここでも」
「……金蝉、貴方ね」
「移動するのが面倒臭ぇ」
 金蝉の言い分に、天蓬は絶句したようだった。一瞬、彼の貌から笑みが消えて、何ともいえない表情を浮かべる。が、すぐに苦笑ぎみにうすく笑った。
「いかにも貴方らしいですねぇ。ここでも、ちゃんと満足させて下さいね」
「お前な……」
 天蓬はその先を強請るように、両腕を金蝉の首へと回してきた。切り替えの早い天蓬に舌を巻きつつ、金蝉も諦めたように再度彼へと口づけた。今度は、一気に熱を煽るような激しい接吻を互いに仕掛け合う。
 ――その時、金蝉の脳裏に浮かんだのは、先ほどの天蓬の嬌笑。
 その笑みを見ることができるのは、果たして自分だけと自惚れていいのかどうか、金蝉には判らなかった。でも、今、この瞬間の天蓬の笑みは、間違いなく金蝉ただ一人のためだけのもの。
 だから、金蝉は彼を抱きしめる力を強くした。もっと、天蓬の微笑を自分だけのものにするために。
 ――強く。








FIN

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