心地よい場所




 ぱらり、ぱらりと紙をめくる音と、リズミカルに紙にペンを走らせる音だけが、不思議に共鳴しながら室内に響いている。
 天蓬は、政務机でいつも通りの仕事をこなす金蝉の座る椅子の足元に、椅子の足を背に床に腰を下ろして持ち込んだ本を読みふけっていた。突然彼の部屋を訪れて、何をするまでもなくただ黙って金蝉の近くに座り込んだ天蓬を、金蝉は呆れはしたものの、黙って好きにさせてくれている。
 たいてい読書に勤しむときは、自室に閉じこもって意識のすべてをそこに集中させる天蓬だが、時々ただゆったりと心地よい空間にまどろみながら本を読みたいときもある。そんなときは、計ったように金蝉のもとを訪れ、こうして彼が許してくれるのをいいことに、なるべく金蝉の近くに寄り添うようにして本を読んでいた。こうしていると、ひどく安心している自分がいた。
 そして、今日も天蓬は金蝉のそばでこうして読書をしている。ただ、ここに来るときは読書が目的というよりは、もっと別の何かを求めてきているせいか、自室でするときよりも本を読むことにさして集中できてはいなかった。だから、ふと天蓬は我に返ると、それまでのんびりと目で追っていた文字の羅列から視線を外した。本の内容を脳裏に反芻してみたものの、ろくに頭に残っていないことに苦笑する。
 今日はいつも以上に、自分の意識が金蝉に向いているらしい。
 天蓬はかたちだけ本に視線を落としたまま、傍らの彼にはっきりと意識を向けた。
 あらためて考えると、――つくづく不思議な廻り合わせだと思う。本来なら、天蓬の立場からして、こうして金蝉のような上級神の親族で、しかも軍部と一切関わりのないひとと懇意に付き合うことなどありえない。それが、たまたま幼少のころにふとしたきっかけで出会い、離れていた時間があったにもかかわらず、さまざまな紆余曲折の末、結局今はこんなにも傍にいる。
 彼と廻りあえた――奇蹟。
 天蓬の存在ごと、不器用なあたたかさでもって受け止めてくれる金蝉。
 不意に込み上げてくる何かに、天蓬は思わずほぅとため息を洩らした。すると、それまで黙って仕事を続けていた金蝉も、これみよがしに深々とため息をつく。
「――集中してないなら出てけよ」
「あ、ひどいなあ金蝉。人の事、言えるんですか?」
 それまでの感傷をごまかすように、天蓬はことさら明るい口調で切り返した。
 刹那、金蝉は左手でがしりと天蓬の肩を掴むと、無理やり天蓬を自分のほうへと向かせた。そして、不機嫌な貌もあらわに、じろりと天蓬を見据える。
「ここは俺の部屋だから、俺が何しようと俺の勝手だ」
「…だから?」
 めずらしく、天蓬の思惑を探るような金蝉の視線に、天蓬はわざとらしく口元に笑みを刷いた。その表情を見て金蝉がどう思うか、計算づくの微笑で。
 案の定金蝉が目を瞠ったその間合いを計ったかのように、天蓬は婉然と微笑み、そっと立ち上がった。椅子に腰掛けたままの金蝉を上から見下ろし、そっと彼の口唇に触れるだけの接吻を落とす。
「だから、――何ですか、金蝉?」
「お前、…わざとだろう」
 金蝉は柳眉をひそめながら、今度は自分から天蓬の腕を取ってその躯ごと自分へと引き寄せた。二人の距離が一気に縮まる。
 それに誘いをかけるように、天蓬はさらに笑みを深めた。こんなふうに、自分の甘えを感じ取って、そして受け入れてくれる金蝉に、こんなにも自分は救われている。そのことに、天蓬はひどく安堵し、――けれど貪欲な自分はそれだけでは足りないと、よりいっそう金蝉を求めるのだ。
 だから、天蓬は自分から身を屈めて金蝉へと顔を寄せた。視界いっぱいに広がる金と紫のコントラストに、天蓬の胸が高鳴る。
 彼が――いるから。
 彼が――許してくれるから。
 自分はここにとどまり続けることができるのだ。
 天蓬の胸中の想いを見透かしてか、金蝉は不意に天蓬の右頬に片手をそえると、かすめるように口づけた。そして、すぐに離れると、もう片方の手も天蓬の頬にそえ両手で天蓬の顔を挟みこむかたちになる。その手のあたたかさに、天蓬は思わず息を呑んだ。心奥からこみ上げてくる想いに、胸がつまる。
「――俺はここにいるだろうが」
 だからそんな泣きそうな面、してんじゃねぇよ。そう、ぶっきらぼうに呟く金蝉のやさしさに、天蓬は笑った。それは金蝉の前でしか見せることのない、きれいなきれいな――心からの笑みだった。
「泣いてなんかいませんよ。……それとも、泣かしてくれます?」
 天蓬はあでやかな笑みを浮かべたまま、嬉しそうに誘い文句を口にのせる。金蝉は嫌そうに顔をしかめると、天蓬の腰へと腕をまわして天蓬の躯を自分の正面へと向けさせた。天蓬も、金蝉の肩へ腕をまわす。
「その言葉…後悔するなよ?」
「もちろんです」
 そう言い切って、天蓬は再度自分から金蝉に口づけた。それに合わせて天蓬の躯を深く抱き込んでくる金蝉に、天蓬はゆっくりと身をゆだねた。
 天蓬だけに許された、心地よい場所である――金蝉の腕の中に。








FIN

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