キスなら、簡単。




 ――キスをするだけなら、簡単。
 決して逃げない彼の人から奪うのは、簡単。
 でも、――その先は?




「まったく、どこへ行きやがったんだあのバカ猿!」
 不機嫌な顔を隠しもしないで、金蝉は肩をいからせながら、宮中の建物内を闊歩していた。
 その光景は、彼が言うところの「バカ猿」――悟空が、金蝉の元に来てからは日常茶飯事となっていた。ただ、いつもと少し違うのは、その声に少々焦りが含まれているところだろうか。
 日中悟空がどこで何をしようが、金蝉は余程のことがない限り特に干渉したりはしない。元々悟空はこの天界で生まれ育ったわけではなく、理由あって下界から連れてこられた身だから、所詮あのお子様の行動範囲など限られているからだ。もちろん、金蝉の仕事の邪魔をする場合は、その限りではない。
 だが、いくら行動範囲が限られているからとはいえ、いざこのだだっ広い宮中で悟空を探すとなると、結構骨の折れる作業だった。しかも金蝉にとって、こういった体力のいる面倒なことなど煩わしい以外の何ものでもなかった。
 これもひとえに、いきなり『悟空を勢至菩薩に会わせてぇから連れて来い』などと、こちらの都合もおかまいなしに言い出した観世音菩薩が悪いと、金蝉は胸中で悪態をついた。
 そして、肝心な時にいないバカ猿もバカ猿だ、とも。
 結局、観世音菩薩と、そして勢至菩薩にも頭が上がらない金蝉はその申し出を断ることが出来ず、こうして回廊を歩き回って、悟空がいるであろう心当たりの場所をいちいち探し回っていた。
 次に目指すは、――金蝉の数少ない「友人」である天蓬の部屋。
 これだけ探し回っても見つからないとなると、多分悟空はここにいる可能性が高い。何しろ、悟空は妙に彼に懐いていて、天蓬からいろいろと勉強も教わっているようなのだ。
(――今は、出来れば会いたくねぇんだが)
 そう思って、金蝉は思わず顔をしかめた。そんな自分自身の感情にさえ面倒くさいと舌打ちする。
 判ってはいるのだ。天蓬の部屋に悟空がいる確率が一番高いと判っていてあえて避けていたのは、金蝉本人が一番よく判っている。だからといって、これだけ探して見つからない以上、悟空がいるかもしれないと判っていて行かないわけにもいくまい。
 金蝉は再度苛立たしげに舌打ちして、天蓬の部屋の扉に向かい盛大にため息をついた。そして、扉を二回叩く。
「――?」
 だが、中からは何の返事もない。しかし、彼が部屋の中にいても返事がないのはいつものことなので、金蝉は扉の取っ手に手をかけ、何の断りもないまま勢いよく扉を開けた。
「おい、天蓬! ――!?」
 天蓬の部屋の中は、あいかわらず彼が集めた本や文書の山でそれこそ足の踏み場もない状態であった。そのうず高く積まれた本の向こう側にある、本来なら政務用に使われるはずの机にうつ伏せて、机の上にも置かれた本の山とともに部屋の主である天蓬が寝入っていた。
 それはもう、めずらしいくらいにぐっすりと。
 とりあえず、金蝉は室内をぐるりと見回したが、どうやら悟空がいる気配はない。それならすぐにその場から立ち去ればよかったのだが、何故か熟睡している天蓬に興味を惹かれて、金蝉は後ろ手に扉を閉めるとそっと彼に近づいた。
 そして、その顔を覗き込むように、彼の右横に立つ。
 一見温和そうに見える優しげな外見とは裏腹に、その本質はどこまでも喰えない、油断ならない男である。だから、こんなふうに無防備に眠る姿など、長い付き合いである金蝉ですら初めて見た。だから、好奇心のほうが勝ってしまったのかもしれない。
 あんなに、今は天蓬と二人きりにはなりたくはないと、そう思っていたのに。
 ふと金蝉は天蓬の生え際へと手を伸ばした。そのまま前髪をかきあげると、彼の顔がよく見える。
 ――綺麗な顔だな、と金蝉は素直に思った。
 よく天蓬は金蝉のことを綺麗と言うが、金蝉に言わせると彼のほうが余程綺麗な顔をしていると思う。金蝉の顔立ちはいわゆる女顔であって、綺麗とはまた別物だと思うのだ。一般的にいうところの綺麗な顔というのは、恐らく天蓬のほうを指すのだろう。
 だから、天蓬の場合、その容姿に騙されて油断し、手痛いしっぺ返しをくらう輩も数多い。そう、柔和な笑みを浮かべながら、いつの間にか引き返せないところまで容赦なく追いつめてくる。――いつも。
「そんなに熱烈に見つめられると、嬉しくなっちゃいますねえ」
「!?」
 目覚めているはずのない人物からの喜々とした、それでいて間延びした声音に、金蝉は飛び上がらんばかりに驚いた。慌てて天蓬の額に伸ばしていた手を引っ込めようとしたが、それよりも早くその腕を天蓬に捕らえられてしまう。
「お前、狸寝入りだったのか!」
 騙された、と金蝉は顔を朱に染めて悔しげに天蓬を睨みつけた。天蓬は、いつもの何を考えているのか判りかねる笑みを浮かべたまま、机にうつ伏せていた上半身を起こした。そして、金蝉へと向き直る。
「まさか。本当に寝ていましたよ。でも金蝉の気配がしたから、まさかねえと思ってたら、本当に貴方だったんで驚きました」
 そう言って笑顔で追いつめてくる天蓬に、金蝉は内心焦りを覚える。早く天蓬の元から立ち去りたいのに、天蓬はまったく金蝉を離す気配はない。金蝉は紫暗の瞳を眇めて、苛立たしげに天蓬を見据えた。
「それはいいから、この手を離せ」
「嫌です」
 天蓬は即答して、金蝉を捉えている手に力を込め、きつく握った。その痛みに、金蝉は思わず顔をしかめる。
「てめぇ、いい加減に、」
「僕の寝顔を見て、楽しかったですか?」
 不意に天蓬は真剣な面持ちで、金蝉を見つめ返してきた。立ったままの金蝉を、椅子に腰かけたまま捉えているため、自然と天蓬は見上げるかたちになる。金蝉は彼を見下ろしつつ、訝しげな視線を向けた。
「……何?」
「ずるいですよ、金蝉。あんなふうに見つめられたら期待してしまいますよ?」
 困ったような笑みをこぼしながら、それでいて容赦ない視線を向けてくる天蓬に、金蝉は釘付けにになる。口元に浮かぶ彼のあでやかな微笑が目に入った途端、金蝉は胸のうちから湧き起こる衝動のまま、天蓬を自分のほうへと引き寄せた。そして、彼に覆いかぶさるようなかたちで強引に唇を合わせた。
 その、金蝉のいきなりの行動に、天蓬はひどく驚いたようだった。けれど、すぐに気をとり直したのか、金蝉の接吻にあわせて深く舌を差し込んでくる。天蓬はゆっくりと金蝉を捉えていた手を解くと、金蝉の肩に手を回してきた。その動きに、金蝉は一旦唇を離す。
 そして、再び互いに向き合って、さらにもう一度唇を合わせようとした、その時――。
「天ちゃん! 遊びに来たよー、あれ金蝉?」
 二人の背後から突然聞こえてきた悟空の声に、金蝉はびくりと身体を震わせた。その声にようやく我に返った金蝉は瞬時に顔を真っ赤に染めて、慌てて天蓬から離れた。その金蝉の慌てぶりに、天蓬のほうが驚いた視線を向ける。
 金蝉は天蓬と目を合わさず、赤い顔のままくるりと天蓬に背を向けて、部屋の中に入って来た悟空の首筋の服を引っ掴んだ。
「邪魔したな! 行くぞ猿!!」
「ええ!? なんで金蝉ーっ!?」
 金蝉の豹変ぶりに呆然としている天蓬を尻目に、振り返ることのないまま、金蝉は訳が判らない悟空を引きずるように足早に彼の部屋を後にした。
 その勢いのまま、金蝉は悟空をひっぱるように回廊を駆け抜けていく。何だか訳が判らぬまま、顔を思いきりしかめつつも、金蝉の脳裏に浮かぶのは天蓬の顔ばかりで。そんな自分が腹立たしく思えて、金蝉はますます眉間の皺を深くした。そんな金蝉の様子に、悟空も困惑しているのか一向におとなしくなる気配はなかった。
「なあなあ、何怒ってるんだよ金蝉ー」
「うるせえ。てめぇが勝手にいなくなるからだっ!」
「なんでだよー」
「いいから黙ってついてこい、バカ猿!」
「猿って言うなよ!」
 悟空との不毛な言い合いを続けながらも、不意に先程の天蓬との接吻が脳裏に浮かび、金蝉は思わず口元に手をやった。途端、彼の体温をまざまざと思い出して、金蝉は顔を真っ赤にしてその場に立ち止まった。
「――――!!」
 そう、――初めて自分から口づけた。彼に。
(俺はなんで――自分から)
 自分自身が一番よく判らない。その事に金蝉はひどく狼狽した。確かにあの時、天蓬に口づけたいと思った。でも、それはいったい何故?
「さっきからどうしたんだよ、金蝉?」
 いきなり何の断りもなく立ち止まって顔を赤くしている金蝉を不思議に思ったのか、悟空が金蝉の腕を引きつつ尋ねてくる。それでようやく自分の状態に気づいて、金蝉はばつの悪い顔を浮かべて自分を見上げている悟空を見つめ返した。そして、深々とため息をもらすと、また歩き出す。
(――嫌じゃなかった)
 そう嫌ではなかったのだ、天蓬とのキスは。不意に浮かび上がる本音に、金蝉はうろたえるように手で口元を押さえた。この、何事にも無関心で通してきた自分が。どうして天蓬の言動一つ一つに揺さぶられなければならないのか。どうして無視できないのか。
 むしろ悟空が来なければ、あの先どうしていたか正直金蝉は自信がなかった。何故、あの時こんなにも天蓬に触れたいと、そう思ってしまったのだろう。確かにキス、は簡単だった。むしろ、――問題は。
「…面倒くせぇ」
 金蝉は忌々しげに言い放つと、再度深く嘆息した。こういう訳の判らない感情を持つことすら煩わしい。こうした感情をもてあますことも、何もかもが。
「何か言った? 金蝉」
「……何でもねぇよ」
 悟空の問いかけを軽く流して、金蝉は前方を見据えて目的地へと歩く。
 そして、金蝉は再び先程の天蓬とのやりとりを思い浮かべた。――そう。
 キスをするだけなら、容易い。今まで天蓬から口づけられたことはあったし、キスをすること自体今更どうこうとは思わない。問題は、その感情が行き着く先だ。
 考えれば考えるほど金蝉にとって面倒な結論が出そうで、悟空に気づかれないよう、嫌そうに顔をしかめた。今はまだ、――出来れば向き合いたくない。というのが、金蝉の正直な気持ちだった。



「あーあ、逃げられちゃいましたねぇ」
 金蝉を引き止める間もなく逃げられた後、天蓬はしばらく呆然と彼が立ち去った扉を見つめていたが、不意に仕方がなさそうに苦笑した。そして、唇に手を当てて、ふわりと嬉しげに微笑んだ。
「金蝉からの初めてのキス、だったんですけどね…」
 天蓬はうすい笑みを浮かべたまま椅子から立ち上がると、まっすぐに大きな造りの窓際へと歩いていった。両開き式の窓を大きく開け放ち、慣れた仕草で窓枠へと腰かける。窓から外を眺めると、すぐ近くに大きな桜の大樹が満開の花を惜しげもなく咲かせていて、その花びらを散らしていた。その花びらが風に乗って、天蓬の元にも飛んでくる。
 桜の散りゆく様をゆっくりと目で追いつつ、天蓬はふと金蝉の後姿を脳裏に浮かべていた。天蓬にとって、金蝉の一番印象的な姿は、彼のその背中だった。誰からも、――そして、天蓬からもいつも背を向けている金蝉。
(本当に、キスだけなら簡単なんですけど)
 ――嫌われてはいないと思う。先程の接吻も、天蓬の想いを判った上での事のようだし。けれど。
 天蓬の手のひらに、そっと桜の花びらが数枚舞い落ちてくる。それをじっと見つめつつ、天蓬は困ったような何ともいいがたい笑みを浮かべて、そっと瞳を伏せた。
「僕は欲張りですから…、キスだけでは満足できないんですよ」
(ねえ、――金蝉?)
 天蓬はそう呟いて、彼の事を思いつつ苦笑した。深いため息とともに。





 キスをするだけなら、簡単。

 でも、――その先は?








FIN

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