この感情を何と言うか、知らない。




「天蓬」
「…はい?」
「――天蓬、お前な」
「……だから何ですか?」
 心ここにあらず、といった気のない返事を続ける天蓬に、金蝉は堪忍袋の緒が切れたと云わんばかりの勢いで、ダンッと政務机から立ち上がった。
 前方の応接セットでのんびりと本を読んでいる天蓬をキッと睨み上げる。
「うぜぇんだよ! 用がないなら出てけ! 仕事の邪魔だっ!!」
「あ、ひどいなあ金蝉。僕、ここでおとなしく本を読んでいるだけで、何も邪魔なんかしてないじゃないですか。それを出てけだなんて、」
 酷すぎる、とわざとらしく哀しげな雰囲気を作って上目使いで見上げてくる天蓬に、金蝉はうっと表情を固めた。金蝉がこの手の表情に弱いことが判っていて、意識してやるのだから始末におえない。
 そして、判っていても流してしまえないのが金蝉らしいところだった。そんな自分を腹立たしく思いつつ、金蝉はあからさまに深いため息をつく。
「何もここで読まなくても自分の部屋で読めばいいだろうが。目障りなんだよ、まったく」
「いいじゃないですか。少しでも好きな人と一緒に過ごしたいと思うオトコ心ってコトで」
 にこやかに満面の笑みを浮かべて言い切る天蓬の言葉に、金蝉は絶句した。――いったい、どこまで本気で口にしているんだか。
 ただ、その台詞をそのまま鵜呑みにするほど、金蝉と天蓬のつきあいは浅くはなかった。だから、いったい何を言い出すのかと、金蝉は言葉もないまま胡乱げな視線を彼へ向ける。それへ、天蓬はくすりと口の端を上げて笑った。
「何ですか、その顔。僕、そんなに変な事言いましたか?」
「とぼけんな。そんなんで俺はごまかされねぇぞ」
「そのまんま、なんですけどねえ。まあ、そういうコトにしたくない金蝉のために理由を言わせてもらうと、ここだと絶対に僕の読書の邪魔をしに来る人が来ませんからね。ちょっと避難させてもらいました」
「……避難?」
 一旦自室で読書に没頭しようものなら、誰がどんなに呼びかけようとも天蓬はその世界に入り込んだままなかなか戻ってはこない。その彼の性癖には、彼の上司・部下とも辟易しているようで、天蓬のその変わり者ぶりは天界内でもかなり有名だった。そんな天蓬の読書中にずかずかと部屋に入り込んで、その意識を向けさせることができる人間など、金蝉以外にいただろうか?
 そこまで考えて、不意にある人物の事が金蝉の脳裏をよぎって、思わず眉宇をひそめた。もしかして、天蓬が「避難」してきたという相手とは。
「もしかして、割と最近お前の下に入ったとか言っていた、…捲簾という男か」
「まったくねぇ、失礼な男なんですよコレが。片付け上手なのは認めますが、僕の読書の邪魔をするのはいただけませんからねえ」
 のんびりとした口調で、どこか思わせぶりな笑みを浮かべたまま、件(くだん)の男の事を口にする天蓬の表情に、金蝉の胸中を何とも言い難い感情がよぎる。それは金蝉が初めて目にする表情で、――天蓬が他人に対して露骨に何か思う素振りを見せること自体、初めてだった。この何者にも関心を示さない男が。
 ちくりと、金蝉の胸に訳が判らぬまま痛みが走る。それが「何」なのかよく判らないまま、金蝉は顔をしかめた。
 この感情は、――何だ?
「あ、もしかして金蝉、妬いてくれてます?」
 天蓬のまのびした嬉しげな声音に、金蝉は我に返る。すると、先程の表情とはうってかわって、天蓬は実に嬉しそうににこにこと微笑んで金蝉を見つめていた。そのあからさまな視線と言葉に、金蝉の頬がカッと紅潮する。
「何言ってやがる! 妬いてるって誰がだっ!?」
「ええと、金蝉が捲簾にかなーなんて思ったんですけど。…違います?」
「誰が妬くか」
「あ、そんな風に照れなくてもいいじゃないですか。僕は嬉しかったんですけどね、金蝉が妬いてくれて」
「だから、誰も妬いてねぇって…」
「いやいや、照れなくてもいいですよ金蝉。ちゃんと判ってますから、僕」
 どうにも会話が噛み合っていない事に金蝉は力一杯脱力した。そして、へなへなと重力に合わせて椅子へと座り込む。
 口で天蓬に勝てる訳がない。
 金蝉は大きく嘆息して、諦め混じりの視線を天蓬へと向けた。――あの、先程胸に浮かび上がってきた、訳が判らない感情を「嫉妬」と呼ぶならば、それは。
「金蝉?」
 無言のまま、ただ天蓬をじっと見据える金蝉に、天蓬は困ったような笑みをうっすらと口元に刷いたまま、いぶかしげに声をかけた。金蝉は目を細めて、天蓬を凝視する。
 ――自分が思っている以上に、この男に囚われているということらしい。
 不意に自覚させられた胸中の想いに、金蝉は天蓬に悟られないよう、心中で嘆息した。天蓬と対峙していると、金蝉の中に、それまで知らなかったさまざまな「感情」という、金蝉にとっては煩わしいものがどんどん掘り起こされていく。それは、金蝉にとって確かに煩わしいものであったが、――しかし天蓬と向き合うことで知る「感情」は、そればかりではなかった。むしろ、甘い痛みを伴うこともあるそれは、煩わしくても嫌ではなかった。
 だからこそ、始末におえない。
 金蝉は不意に天蓬から視線を外して、深々とため息をついた。そして、再び彼を見遣る。
「おい、天蓬。お前、いつまでここに居る気だ?」
「そうですねぇ。本当にお邪魔なら退出しましょうか」
 金蝉に気を遣ってか、天蓬はめずらしくもお伺いをたてるように苦笑気味に尋ね返した。そんな殊勝な彼の問いに、金蝉はふと口元を緩めた。その表情に天蓬が息を呑んだのが伝わってきて、金蝉は少し照れた表情を隠すように顔を横にそむけた。
「今日はずっとここにいればいいじゃねぇか。――邪魔、されたくねぇんだろ」
「金蝉。……それって、僕の都合のいいように解釈してもいいんですか?」
 天蓬は金蝉の真意を探るように、射るような視線を容赦なく向けてくる。その視線をまっすぐに受け止めて、金蝉はゆるりと笑みを刷いた。ちゃんと、天蓬に届くように。
「ああ、――ただし、もうしばらくは俺の邪魔をするなよ」
 目の前の山だけは今日中に片付けておかないと不味いんだよ。そう金蝉が言い捨てると、天蓬は仕方がないですねぇと言わんばかりに苦笑した。そして、ふわりと艶やかな笑みをこぼす。
「いいですよ、それくらいは。後でゆっくりできるんでしょう?」
 金蝉からの誘いを正しく受け取ったらしい天蓬が、確認とばかりに念押しする。それに、金蝉はちらりと紫暗の双眸を向けただけで、すぐに目の前の書類の山と格闘をし始めた。そして、再び読書を始めたらしい天蓬にそろりと視線をとばす。
 天蓬を何故かここから帰したくないと思った。だから、自分から引き止めた。
 この感情もまた、天蓬と関わり合うことによって得たものだ。苦しくて、何と表現したらいいのか判らない、けれどもなくしたくない、もの。
 こうした感情も、いつかは言葉にして、彼に伝えることができるのだろうか。それは今の金蝉には判りかねた。だが、今、天蓬を離したくないと思ったこの気持ちを後でゆっくり伝えてやる。――金蝉はそう決心して、再度書類へと向き直った。




 ――この感情を「何」と言うかは知らない。
 けれど、確かに「ここ」に存在する、目には見えない大切な「何か」を手放したくはないから。それを伝えるために、金蝉は天蓬に触れたいと、そう思った。
 心から、そう思った。








FIN

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