覚悟




 金蝉が書類の束を抱えて観世音菩薩の政務室へと赴くと、彼女にしてはめずらしく慌しい動作で部屋からとびだして来た。扉を開けた途端、きびしい表情を浮かべた観世音菩薩と真っ向からぶつかりかけて、金蝉のほうが思わずひるむ。
「――っ、」
「ああ、……どーした金蝉」
 観世音菩薩のほうは、金蝉に気づいた途端、ふいに表情を和らげた。先ほどとはうってかわって、いつもの人を喰ったような笑みを刷く眼前の伯母に向かい、金蝉は睨めつけるように見据える。
「どうしたもなにも、急ぎの仕事だっていうから、持ってきたんだよ。…出掛けるのか?」
 あからさまに慌てたふうだった観世音菩薩に、金蝉はいぶかしげに目を細めながらも書類の束をかざして見せた。この、いつも余裕綽々の観世音が、こうもはっきりとせわしさを態度に出すこと自体が稀なことで。それだけ事は緊急を要するものなのかと、金蝉なりに気をつかってみる。
 すると、観世音菩薩はちらりと金蝉を流し見ると、深々と嘆息した。額にかかる、ゆるく流れる前髪を苛立たしげにかきあげ、一旦外に向けていた身体ごと室内へと戻す。そして、視線だけで金蝉に入室するよう指示をすると、開きかけていた扉を閉めた。
「下界の南域のほうにな。面倒なことになってるんで、俺様のご登場ってトコかぁ」
 観世音菩薩は意味深に唇端を上げて、くつりと嘲笑った。そして、金蝉の前に手を差し出し、書類を渡すよう態度で示す。あいかわらず尊大な伯母の態度にむかつきながらも、金蝉は眉間の皺を深めながら黙ってその手に書類の束を差し出した。
「あんたがわざわざ降りなきゃならんとは、余程の事態なんだな」
 天界軍のなかでも相当上位に位置する観世音菩薩自らが出向くことなど、滅多にない。つまり、その菩薩が直接出向く、となると、その事件は相当なやっかい事――既に、ただの軍人では対処出来ないほどの――であるといえた。
 それを指しての金蝉の言葉に、だが観世音菩薩は嫌そうに盛大なため息をついてみせた。
「まーね。っつーわけで、俺はしばらく留守にするから。まったく、腹ァくくって覚悟決めた輩ほど面倒臭ぇモンはねェしな」
「そんなもんか?」
 観世音菩薩が言うところの面倒さがどれほどのものかまったく検討がつきかねた金蝉は、なにげなくその疑問を口にしていた。そんな金蝉に対し、観世音菩薩は一瞬大きく目を瞠ったが、すぐにニヤリ、と、含み笑顔全開で金蝉を見据えてきた。
「なぁ、――金蝉」
 にやにやと、嫌な類の笑みを口許に浮かべて目を細めた観世音菩薩に、金蝉は柳眉をしかめた。彼女がこんな笑みを浮かべているときは、たいていろくでもないことを口にすることは長い付き合い上、金蝉は嫌と言うほど身にしみて判っていた。だから、思わず身構えるように息を詰める。
「なんだ」
「お前は、覚悟なんて、決めたことねぇだろ?」
 露骨に揶揄する口振りで、観世音菩薩が言う。金蝉は思わず目を見開いて、眼前の観世音を凝視した。
 ――覚悟、だと?
 何も言葉を返せないでいる金蝉に向かい、観世音菩薩はにんまりと意味ありげに微笑んで、そのまま黙って自室から出て行ってしまった。その背をじっと無言で見送り、その姿が見えなくなった途端、金蝉はそれまで詰めていた息をゆっくりと吐き出した。
 ひとり取り残された室内に佇み、金蝉はきびしい表情を浮かべたまま、先ほどの観世音菩薩の言葉を脳裏に反芻する。
 ――そう。
















 『覚悟』って、ナンだ?
















「――なんだって?」
 金蝉がいつも通り決済完了の書類を抱えて観世音菩薩の元を訪ねると、その書類を受け取りながら彼女が何気なく口にしたことに、金蝉はいつになく過敏に反応した。
「西方軍元帥の変わり者のにーちゃん、お前の友人(ダチ)なんだろ。なんか派手に怪我したらしいぜ」
「怪我ってどんな状態なんだよ!?」
 金蝉が血相を変えて、ダンッと観世音菩薩の政務机に両手をついた。そんな甥の様子を軽く受け流しながら、観世音菩薩は椅子に腰掛けたまま、じっと金蝉を見上げる。
「そんなのは知るか。俺はただ聞いたそのまんまをお前に伝えただけで」
 観世音菩薩にとっては取るに足らないことであるのがありありと判る、どうでもよさげな言い草に、金蝉は怒りでますますカッと頬を紅潮させる。
「知るかって、怪我してんだろ!?」
「金蝉、お前なぁ」
 観世音菩薩はこれ見よがしに嘆息すると、すっと切れ長の眦を眇めた。まるで、聞き分けのない子供に向かいこれから説教をするような表情を浮かべる。
「それこそお前がどうこう言うことじゃねぇだろ。だいたい奴も軍人しているくらいだから、何があっても覚悟は決めてるだろうしよ」
「――…っ!」
 いつものふざけた物言いではなく、事の外きびしい口調で言い切られ、金蝉はただ瞠目するしかなかった。
 ――それは、確かに。
 金蝉がどうこう言う筋合いではない。
 だが、金蝉にとって、彼はそういう存在ではなく――。
 金蝉はきゅっと下唇をかみしめると、不意にきびすを返して観世音菩薩の部屋から退出しようとした。とにかく、今は彼の顔を見ることのほうが先決だと、そう思った。
 すると。
「なぁ、――金蝉」
 ふと、背中越しに声をかけられ、金蝉は仏頂面のままゆっくりと振り返った。観世音菩薩はあいかわらず椅子に腰掛けたまま、にやにやと人の悪い笑みをその口許に刻んで、じっと金蝉を見ていた。
 その台詞と観世音菩薩の表情に、ぼんやりと既視感を感じて、金蝉はわずかに眉宇をひそめる。
 ――確か、前にもこんな会話をした、覚えが。
「なんだ」
 ――そして、金蝉も同じように返した、覚えが。
 まるで霞がかったような曖昧な輪郭でありながら、けれど確実に覚えのあるやりとりに、金蝉が目を細めた、その時。
 観世音菩薩は、ゆうるりと、肉厚で官能的ともいえる唇を意味深につり上げた。
「お前、覚悟はあるのか?」

(――覚悟、って)

 いったい、何を指して観世音菩薩がこんなことを口にしたのか、金蝉には判らなかった。ただ絶句するしかなかった。
 にやにやと含み笑いを続ける観世音菩薩から逃れるように、金蝉はその問いに返す言葉もないまま、足早にその部屋から飛び出した。今度は、特に呼び止められることもなくて、金蝉は不自然に鼓動を刻む己の胸元をぎゅっと掴む。
 どうして、こうも観世音菩薩の言葉に振り回されてしまうのか。
 それは、彼女の言うことが、いちいち金蝉の痛いところを突いてくるから、ということは不本意ながら判ってはいた。だが、観世音菩薩の言うことは、いつも抽象的で、含みをこめたものばかりであることが多く、金蝉にはすぐには判らないことだらけだった。そして、今も、また。

(お前、覚悟はあるのか?)

 何の、とは一言も口にしなかった観世音菩薩。いったい、何を指してそう言ったのか。
 金蝉は、とある先を目指しながら、ぐるぐると脳裏で考える。
 それ以前に、金蝉にとって何より不可解な言葉が、『覚悟』だった。
 そもそも、覚悟って、ナンだ?
 金蝉はきつく口許を引き結びながら、思う。
 そんなものはしたことなどないし、今まで生きてきてそんなことをする必要なんてなかった。けれど、観世音菩薩の含み言葉が妙に気になった。まるで、覚悟をしたことがないであろう金蝉を揶揄するような、それでいて哀れむような物言いが、やけに気に障った。
 これもすべて、話のきっかけは彼――天蓬の負傷の話を聞いてから。
 ならば、とにかく彼に会えば判るのかと、――いや、それよりも天蓬の怪我の具合のほうが気になって、金蝉にしてはめずらしく急ぎ足で軍の本館へと足を向けていた。
 怪我と、天蓬と、覚悟。
 この三つのキーワードをぐるぐると脳裏で反芻しながら、金蝉はひたすら足を動かし続けた。





 ようやくたどり着いた天蓬の自室の前に立ち、金蝉はゆっくりと深呼吸をしながら扉を叩こうと手を上げた。途端、目の前の扉がものすごい勢いで開かれ、金蝉はあわてて後づさる。
「あれ、金蝉」
 見れば、天蓬は左腕を包帯でぐるぐる巻きにされ、肩から白い布でつり下げてその腕を固定していた。見るからに痛々しいその姿に、金蝉は思わず目を瞠る。
「天蓬、それは」
 金蝉が漸うそれだけを口にすると、天蓬は少し困ったような笑みを浮かべた。そして、入り口に立ったままではなんだから、と金蝉に入室をすすめて、扉を閉める。
 しかし、入り口に佇んだまま中に踏み込もうとしない金蝉に、天蓬は小さくため息をついてみせた。
「えっと、この間の出征でちょっとドジってしまいまして。利き腕をね、ザクッとやられちやったんですよ。その他、まあいろいろあったんですが、この程度で済んで本当によかったなって」
 あはははは、とごまかすように笑う天蓬に、金蝉は訳もなく苛立ちを覚えた。
 まったくたいしたことのないようにふるまっているが、その腕の傷だけでも十分酷いと、金蝉は思う。今の言葉の端々から、今回の遠征がとても大変な状況だったことくらい、金蝉にだって判る。なのに、金蝉の前では、そんなことは億尾にも出さない天蓬。
 彼にとって、自分は。
 こんなときですら、頼りにならない存在なのだろうか。
 余程、金蝉は不機嫌そうな面をしていたのだろう。眼前の天蓬が不意に目を見開き、眼に見えて微苦笑を浮かべた。
「利き腕をやられたんで不便でねぇ。休みを取りたくても忙しいし」
 だからなかなか金蝉のところにも顔を出せなくて、と口にする天蓬に、金蝉の怒りはますます膨れ上がった。
 こんな事態になってもなお、休んでいない、だと?
「――お前、そんな状態で休んでないのか!?」
「ええ。休む暇なくて。ま、動かせないのは左手だけだし」
「こんな時くらいちゃんと休め!」
 金蝉はとうとう声を荒げた。
 どうして、彼は、天蓬は、こうも自分を大事にしないのか。見ている金蝉が痛いほど、に。
 それはまるで、金蝉すら拒絶しているようにも見えて、金蝉はそれが何より辛くて。
 結局、軍に係わることになると、金蝉はただ見ているだけしか出来ないから、余計に。
 金蝉の真摯な表情に、天蓬がちいさく息を詰めたのが伝わってきた。一瞬、その秀麗な白貌から笑みが消え、深い湖の底を思わせる双眸がじっと金蝉を見据える。きついその視線にひるむことなく、金蝉もまた同じだけの強さで、目の前の男を見つめ返した。
 静かに重なり合う視線と視線。
 先に目をそらしたのは天蓬だった。わざとらしく肩をすくめながら嘆息すると、くすり、と、口許を緩める。
「なんてことないですよ。今、貴方の前にちゃんといることを思えば。――さすがに、一時だけ本気で覚悟を決めましたけど。でも、金蝉のことを想って、絶対に帰ると、そう思ったから」
 そう言って、天蓬は金蝉に向かい微笑んだ。その笑みは、おだやかでやわらかなものでありながら、強い揺るぎない想いの込められたもので。
 その笑みに、金蝉は思わず息を呑んだ。彼から向けらける想いの強さと深さ、そして肌があわ立つほどの真剣さに、知らず天蓬を凝視する。


 もしかして、今、天蓬から痛いほど感じる、この想い自体が。
 覚悟、というものなのか。


 金蝉は、返す言葉も見つからないまま、ただひたすら天蓬を見つめ続ける。
 果たして、自分は、これ程の思いでこの男を求めているだろうか。
 いつも天蓬に負けていると、かなわないと、そう思えるのは、結局のところ。
 金蝉はおろしていた掌をぐっと握り締めると、不意に腕を伸ばして天蓬を体ごととらえた。そして、彼の傷にさわらないよう、ゆっくりと腕を回してその痩身を抱きしめる。突然の金蝉の抱擁に、腕の中の天蓬がわすがに身動ぎした。それを封じ込めるように、――己の胸に抱きこむように肩ごと深く引き寄せる。
「あの、…金蝉?」
 天蓬の困惑気味な問い掛けにも、金蝉は答えなかった。ただ、ぎゅっと抱きしめることで返事を返した。すると、天蓬もゆるゆると空いた右腕を金蝉のうすい背中に回してきた。久しぶりのちゃんとした抱擁に、二人ともが安堵の息を零す。
 こうして触れ合っていれば、確かに安心はできる。何も考えなくても、今のまま、このままでいいと。
 けれど、いつまでもこのままではいられないと、現実を突きつけられた気分になった。
 曖昧な心地好いだけの生温い関係ではなく。天蓬から向けられる想いの強さと同じだけのものを返すことが出来る、つよさが必要なのだ、と。
 その想いから目をそらすように、金蝉は天蓬の肩を抱きながら、ゆっくりと紫の双眸を閉じる。





 今まで、わざと逃げてきた。けれど。
 本気で、この男を自分のものにしたいのならば。
 もう決めなければならないのかもしれない。








 彼を想うことの『覚悟』を。








FIN

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