幸福論




 夕刻から降り続いていた雨がようやくあがったらしい。
 それまで耳に障ってしかたがなかった雨音がおさまったことを認識して、金蝉はつめていたらしい息をゆるゆると吐き出した。
 天界では、雨が降ることはめったにない。
 しかも今日のように激しい降雨はさらにめずらしかった。そのせいか、常ならばほとんど音のない時間に、聞き慣れない自然の轟音が響いていたせいか、すっかり夜もふけてなお、金蝉はまったく眠ることができないでいた。
 もともと神経質なたちではあるが、一度雨音が気になったらどうにも落ち着かない。そのため、いつもならとっくに寝台で休んでいる時間であるにもかかわらず、いまだ政務机の前の椅子にぼんやりと腰掛けたまま、金蝉は漫然とすごしていた。
 室内はすっかり夜の闇におおわれているのに、部屋の明かりはつけないで、雨が止むのをただ待つだけ。退屈このうえなかった。
 それでも、同じ退屈な時間をすごすのなら、まだ静かなほうがいい。
 よけいな雑音は、金蝉のいらだちを深めるものでしかなかった。その雑音がやっとおさまり、それまでどうにも落ち着かなかった心地が少し和らいだところで、ふいに前方の扉から小さな音が聞こえた。
 コンコン、とわずかな音ではあるが、深夜の静けさの中ではひときわ響く。
 それはあきらかに人為的に生み出されているものだ。とすれば、こんな夜更けに金蝉の部屋を訪ねてくる人物などひとりしかなく――。
「……誰だ」
 わかっていてもなお、あえて確認する。はたして扉の向こうから現れたのは、金蝉の予想通りのひと――天蓬だった。
「こんばんは。……貴方が起きていてよかった」
 暗闇の中、見慣れた白衣姿の男の輪郭がぼんやりと浮かびあがる。
 天蓬はうっすらと笑みを浮かべて、ゆっくりと金蝉のほうへと歩み寄ってきた。
「……戻っていたのか」
 おそらく来訪者が天蓬だろうとは思ったが、あえて誰何したのは、彼が数日前から下界に降りていたのを知っていたからだった。確かに日程的には、すでに天界に戻っていてもおかしくはなかった。
「今日の夕方に戻ったばかりですよ。そしたらめずらしく雨が降っているなあと思っていたらですね、これまたもっとめずらしいものが見れたので、駄目もとで貴方のところに来てみました」
 天蓬は金蝉のわきをすりぬけ、その背後にある大きな窓の前で歩を止めた。
 金蝉は椅子に座したままの姿勢で、そんな彼をいぶかしむように見上げる。
「もっとめずらしいもの?」
「えぇ。……こちらです」
 金蝉の目の前で、天蓬がゆっくりと観音開きの大きな窓を開けた。
 途端、眼前に広がるのは、満月にうっすらと靄(もや)がかかる中、薄白い大きな半円がぼぅと浮き出ているなんとも幻想的な光景だった。
 月光のあわい光源とほの白い半円が、暗闇に浮き上がるさまは、美しくもありどことなくさびしささえも感じる。
「これ、は――」
「白虹(はっこう)ですよ」
 金蝉が茫然とつぶやくのに、天蓬は前方を見つめながらそっとささやいた。
「僕も正直、本物は初めて見ました。いわゆる月の虹ですが……頻繁に雨が降る下界でもめったに見ることはできません。ましてや雨自体ほとんど降らない天界(ここ)ではまずお目にかかることはないと思っていましたが、まさかこうして実際に見ることができるなんてびっくりですよ」
 天蓬の饒舌な語りを耳にしながら、金蝉は白虹なるものを凝視した。
 それは自然が偶然生み出した稀有なもの。
 だからこんなにも美しくて、こんなにも儚くもの哀しく感じるのだろうか。
 基本的に何に対しても感情をゆさぶられることはない――唯一の例外をのぞいて――おのれが、この幻想的な景色を見てそう感じるくらいには、この光景は金蝉の心のどこかをかすめたようだった。
「そうだな。……それでお前は、わざわざこれを俺に見せたいがために、ここに来たのか」
「もちろんです。だって、虹というくらいですから、今すぐにじゃないと早々に消えてしまう可能性のほうが高いですし」
 実際、半円の白い虹は、金蝉たちの目の前で徐々に薄くなっていた。七色の虹もそうだが、あくまでも光が生み出す自然現象である以上、長くひとの前にはとどまってはいないものなのだ。だからこそ、その一瞬を見せたいと思ってくれた天蓬の想いが、金蝉の胸裏にじんわりとしみいる。
「そうか……」
「ああ、もう消えちゃいましたね……残念」
 しだいに輪郭をなくしていた月の虹は、うす靄に同化して見えなくなってしまっていた。名残惜しむように天蓬は夜空を見つめながら、みずから開け放った窓をゆっくりと閉めた。その姿勢のまま、そっとつぶやく。
「それだけじゃなくて、――白虹にはこんな言い伝えがあるんです」
「天蓬?」
「この、白虹を観ることができたひとは幸せになる、と」
 そう言って、天蓬はうすく微笑んだ。そして、彼を言葉なく見つめていた金蝉を見下ろす。
 窓ガラス越しに届く満月の光が、彼の横顔をあわく照らす。その陰影は天蓬の端整な顔立ちをさらにひきたてて、かえってつくりものめいて見えた。
 ふいに、胸の奥がひどくざわめく。落ち着かない心地にたまらず、金蝉は彼の右手首をきつく掴んだ。
 天蓬の手首は思ったより細く冷たくて、金蝉の掌にあまった。その心もとなさに、はっと金蝉は我に返る。自分が何をしたかったのかわからなかった。どうにも居たたまれない心地に、金蝉は自分から捉えた彼を離そうとした、そのとき。
「――そのままで聞いてください」
 天蓬はさらに笑みを深めながら、金蝉を見つめていた。
 何かを言いたげなその双眸にさからうことができないままに、金蝉は彼を捉えた手の力だけをゆるめる。
「なんだ?」
「……“幸せ”って、何でしょうね?」
 かすかに目をすがめて、天蓬は小さく嗤った。
「さっき、簡単に『幸せになる』なんて言いましたけど……そもそも“幸せ”の定義なんてひとそれぞれでしょう? 下界の人間から見たら、僕らみたいに永遠の刻(とき)の中で生きることが幸せだと思う輩もいるようですし、一概には決められませんよね」
「……それで?」
 天蓬が何を言いたいのか、金蝉はすぐにはわかりかねた。
 彼は時々、こうした謎かけのようなことを口にする。そのたびに、金蝉は、おのれのいたらなさを実感するのだ。そして、どこまでも金蝉には理解しえない彼――天蓬と対峙するこわさ、も。
 けれど、そんな彼を離したくはないと想う気持ちもまた、確かなのだ。
 だからこそ、金蝉は、天蓬の発する言葉は聞き逃さないように、意識をしっかりと彼に向ける。
「僕は、――貴方のそばにいることをゆるされている、そのことだけで十分幸せですけど……はたして金蝉はどうなんだろうって。だから僕は、貴方に白虹を観てもらいたかったのかもしれません」
 ――やはり自分は、とことんいたらないのだ。
 金蝉は思わず息をのんだ。紫暗の瞳を小さく瞠る。天蓬の真意をぼんやりとではあるが理解したところで、ふたたび彼を掴む手の力を強めた。
 こんなとき、どうしたらいいのか、金蝉にはわからなかった。
 だが、わからないままでは駄目なのだ。わからないならわからないなりに、きちんと天蓬に伝えなければ。こうして金蝉がすぐに気の利いたことが言えないこともわかったうえで、天蓬は待っている。
 そんな彼を特別だと思うからこそ、今は逃げたりごまかしたりしてはいけないのだと金蝉は思った。
 ――だから。
「あの白虹、綺麗だったな」
「……えぇ」
「綺麗で、……お前みたいだと、思った」
「金蝉」
「だから―― 天蓬、お前と一緒に観れて、よかったと思う」
 ――だから、一緒に幸せになるのだと。
 天蓬の手首をしっかりと掴んで、金蝉ははっきりとそう告げた。
 はたして金蝉の真意はきちんと彼に伝わっただろうか。いや、伝わってほしいと、胸中で祈るようにつぶやく。不器用な自分は、天蓬の想いにきちんと応えているのか、自信がなかった。けれど、今伝えたい、この言葉と想いは伝わってほしいと心から思った。
 金蝉の顔をじっと見つめていた天蓬は、ふいにほんの少しだけ驚いた表情を浮かべた。だが、すぐさま、にこりと花がほころぶように微笑む。それは金蝉でもめったに見ることのない、それこそ幸せそうな笑貌だった。
「……よかった」
 ほぅ、と吐息まじりのささやきが、天蓬の唇からこぼれおちる。
 うれしいです、と言いながらしなやかな両の腕を伸ばしてきた痩躯を、金蝉はおのれのほうへと引き寄せて、しっかりと胸の中に閉じこめた。







 ――両腕いっぱいに、しっかりと抱えて。
 おのれの幸せそのものを逃さないように、と。








FIN

『ten! ten!! ten!!!』参加作品。

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