えがお




「お前って、案外面食いだったんだなあ」
 金蝉の政務室に入ってくるなり、開口一番そう言い放った観世音菩薩に、金蝉は思い切り顔をしかめてみせた。
 にやにやと嫌な類の笑みを貼り付かせて近づいてくる観世音菩薩を、金蝉は椅子に腰掛けたままじろりと睨めつける。
「どういう意味だ」
「そのまんまじゃん。金蝉様がちっともうちの娘のお相手をして下さらないからどうしましょーと、どこぞのオヤジが泣きついてきたんでな。めんどくせーんで、ちょっとお前の身辺を注目したらだなあ、……なーんだいるんじゃねぇの、と思ってさ」
 くつくつと実に楽しげに喉を震わせて笑う、金蝉がもっとも頭が上がらない血族の一人に対し、金蝉は顔を真っ赤に染め上げてガタンと派手な音をさせながら椅子から立ち上がった。観世音菩薩の言い草に、金蝉も動揺を隠しきれない。
 この口調では、間違いなく金蝉の相手が天蓬だと解って口にしているのだ。この、どこまでも喰えない人物は。金蝉の胸中に苛立ちがつのる。
「てめぇ……何が言いたい」
「いいんじゃねぇのー? 俺はベツにそのことについてどうこう言いに来たわけじゃないぜ。あくまでも、わざわざ仕事を持ってきてやったんだ。ありがたく思いな」
 観世音菩薩はにやにや笑いを浮かべたまま、手にしていた書類のたばをばさりと金蝉の政務机の上にほうり投げた。それを黙って見届けてから、金蝉は再びじろりと目の前の人物を睨んだ。
「どちらにしろ、ありがたくもなんともねぇよ」
「まあまあ、そう言うなよ。アレなら、確かにそんじょそこらの面じゃあ、ひけ、とりまくりだよなあ」
「……喧嘩売ってんのか、てめぇ」
「まさか。楽しんでるだけに決まってんじゃん」
「――!」
 心底愉しげに言い切る観世音菩薩に、金蝉は顔を紅潮させたまま返す言葉もなかった。そんな甥の様子に十分満足したのか、観世音菩薩はにやりと口の端を上げるとそのまま踵を返して扉へと向かった。そして部屋を出る直前にわざとらしく振り返り、金蝉に向かいにんまりと微笑んだ。
「ま、どーせお前が振り回されてんだろー? せいぜいがんばんなよ、金蝉」
「ウルセェ、このクソババァ!」
 金蝉の絶叫は、だが即座に高笑いをしながら退出した観世音菩薩に届くことはなかった。閉じられた扉を悔しげに睨みつつ、金蝉はふと肩で大きく息をつくと、気が抜けたとばかりに椅子へと逆戻りする。そして、背中から深く背凭れに沈みこんだ。
 確かに、観世音菩薩なら、金蝉と天蓬がそういう意味で恋仲だと知っても反対したりはしないだろう。そのほとんどが凝り固まった価値観しか持ち合わせていない上級神のなかでも、観世音菩薩はおそろしくリベラルな思考の持ち主だった。しかし、別意味で面倒な相手に知られたと、金蝉は深々と嘆息した。
 こうして、今後は事あるごとに面白がって揶揄されるのかと思うと、ものすごくうんざりする。
 だが、それよりも。
(――面食い、だと?)
 先ほどの観世音菩薩の一言を脳裏に反芻し、金蝉は思わず眉宇を寄せた。それは天蓬の容姿を指した言葉だとは思うが、――自分は天蓬のそういう部分に惹かれたわけではなかったから、少なからずその言葉にはとまどいを覚える。ならば。
 自分は、いったい天蓬のどこに惹かれたというのか。
 金蝉はそろりと立ち上がると、気分転換でもするかと、真後ろにある横開きの窓を全開にした。
 その真下に天蓬の姿を認めて、どくんと金蝉の胸がひとつ鳴った。まさかそんなところに彼がいるとは思いもしなかったから、不意打ちのそれに金蝉は目を瞠った。
 そして、どうやら下から金蝉の部屋を見上げていたいたらしい天蓬とばっちり目が合った刹那、彼はふわりと、まるで花がほころぶようなあでやかな笑みを浮かべた。
(――っ)
 自分へと向けられた、その掛け値なしの笑顔に、金蝉は思わず息を呑む。
「金蝉、そこにいて下さいね!」
 天蓬はうれしそうに階下から声をかけてきたのに、金蝉ははっと我に返った。だが、金蝉が気がついた時には既に天蓬の姿はそこにはなく、金蝉は柳眉をひそめたまま一旦は開け放った窓をバタンと閉めた。
(そう、アレ、だ)
 あの、笑顔なのだ。多分。
 胸奥をよぎった先ほどの天蓬の笑顔を思い浮かべ、金蝉はため息を漏らした。
「金蝉、失礼しますね」
 扉を叩く音と、扉を開ける音と、天蓬のかけ声がほぼ同時だった。いかにも急いで来ましたと、少し息を弾ませながらそれでもにこやかな笑顔で現われた天蓬に、金蝉はわざとらしく顔をしかめる。こんな時――金蝉はどんな表情を浮かべたらいいのか、いまだによく判らない。だからつい、いつもの通りの仏頂面しかのせられない。天蓬に対しても、そんなふうにしか接することができない自分自身に苛立ちを覚えながらも。
 だが、そんな金蝉の心中の葛藤さえもお見通しなのか、天蓬はにこにこと満面の笑みを浮かべながら、金蝉の正面までやって来た。その彼の笑顔に惹かれつつも、なぜかつきりと金蝉の胸が痛んだ。
「どうしたんです? 休憩中ですか?」
「……なんでこの下に居たんだ?」
 天蓬からの問いかけには答えず、金蝉はわざと今、一番気になっていることを天蓬へと投げかけた。それに、天蓬は特に気を悪くすることもなく、ふわりと白皙の貌に淡い笑みをのせる。そのうれしげな笑顔に、またもなぜか金蝉のなかで苛立ちが募る。
 こんなにも、自分は彼の笑顔から目が離せないのに。
 こんなにも、自分は天蓬の綺麗な笑みに囚われているのに。
「たまたま通りかかっただけなんですよ、実は。ただ、この真下まで来た時に『金蝉が顔を出さないかなあ』なんて思いながら上を見上げたんですよね。そしたら、本当に金蝉が窓を開けたじゃないですか。もう、うれしくて」
 これっていわゆる以心伝心ですかね、と笑みを絶やさぬまましゃべり続ける天蓬の顔を、金蝉はひどく神妙な面持ちで凝視した。そんな金蝉の視線をいぶかしく思ったのか、天蓬が不意に目線を金蝉へと合わせてきた、その時。
「天蓬」
 金蝉はそろりと右手を伸ばして、目の前に立つ天蓬の左腕を掴んだ。
 こんなふうに、この手にははっきりと掴むことができるのに。
「――金蝉?」
 どうしていつも掴みきれないと思うのだろう?
 その、笑顔すらも。
 金蝉は、笑みを浮かべたまま少し戸惑った視線を向けてくる天蓬を、そのままじっと見つめた。
 この笑顔も自分だけに向けられるものだと、判ってはいる。それでも、時々届かないと思ってしまうのだ。金蝉をとらえてやまない、なのにどこかとらえどころのないこの笑みに、結局のところ振り回されている。いつも。
 金蝉は小さく嘆息すると、ゆっくりと、掴んでいた天蓬の腕を解いた。そして、ふと彼から視線を外す。
「いや、……なんでもねぇ。それより、お前、時間はいいのか」
「――金蝉って、本当にズルイですよねぇ」
 今度は金蝉の問いかけを無視するかたちで、天蓬がまったく金蝉の言葉とは関係のない返事を返してくる。それに、金蝉は胡乱げに目を細めた。
「天蓬?」
「そんな含みのある視線を向けられたら、僕はどうしていいか、判らないじゃないですか。こうやって、いつも金蝉に振り回されているのが僕かと思うと、なんだかズルイなあと。…ああ、すみません。つい本音を」
 全然すまなさそうな口調ではなく、まるで金蝉を追いつめるような口調で、天蓬は再び優美な笑みを刷く。その彼の表情に、金蝉は思わず瞠目した。
 金蝉を追いつめるだけ追いつめておいて、手を伸ばせば届きそうなのに、――届かない。
 こんなとき、それこそどうすれば手が届くのか、金蝉にはさっぱり判らなかった。でも、届かないのは判る。天蓬の笑顔の前にある「なにか」に、阻まれているのも解る。それなのに、天蓬のほうが金蝉を「ずるい」と言う。
 天蓬のほうが、こうして「笑顔」で金蝉を振り回しているくせに、だ。
 金蝉は憮然とした表情を浮かべると、今度は不意に天蓬の腕を引いて自分のほうへと引き寄せた。そのいきおいで天蓬との間の距離が一気に縮まる。
「ずるいのはお前だろ」
「そうですか? 今だって、こうして僕を懐柔すれば黙るとか思ってません?」
「……嫌なのか?」
 金蝉が真顔で返すと、天蓬は一瞬、大きく目を見開いた。くすりと、どこか困ったふうな微苦笑を浮かべる。
「そーゆーことを素で言うところがズルイんですよ、貴方」
 天蓬はそう呟くと、自分から金蝉の肩に腕を回して、苦笑を面に貼りつかせたまま、そっと唇を合わせてきた。思いの外しっとりとした天蓬の唇に、金蝉は少しだけ驚いたように身を竦ませたが、そのまま天蓬のしたいように、彼に合わせるかたちで接吻を続ける。
 こうして互いの距離を縮めても、それでも、金蝉の胸中にまとわりつく、この焦燥感にも似たもどかしい「なにか」が消えることはなかった。





 掴めそうで掴めない、この――ジレンマ。








FIN

「妖狐堂」様へ進呈。

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