あめ




「これ、おみやげです」
 コトリ、と、机と硝子瓶がぶつかりあう軽く鈍い音が響いた。
 突然、目の前に置かれた謎の物体を、金蝉はまじまじと見つめる。そして、その物体を持ち込んだ張本人――天蓬を、政務椅子に腰掛けたまま見上げた。
 見れば、天蓬はにこりと、いつも通り感情の読めない笑みを浮かべて、政務机を挟んで金蝉の前に立っていた。
 だらしなく着た白衣のポケットに、両手を突っ込み、にこにこと微笑んでいる。
 それまで仕事中だった金蝉は、気がそがれた、と深くため息をつきながら筆を置いた。じろり、と上目遣いで眼前の彼を軽く睨む。
「何だ、これは」
 机の上に置かれた硝子瓶を指差し、金蝉は仏頂面で問い掛けた。
 掌に乗るほどの小さな硝子瓶の中に、色とりどりの小さな丸い物体がいくつか入っていた。赤や黄色、緑といった原色に近い色合いのものが混在している。よく見れば、その表面は、うっすらと白いもので覆われているようだ。
 それが何なのか、金蝉にはさっぱり解らなかった。胡乱げに眉宇をしかめると、くすくすと、天蓬がどこか愉しげに喉を鳴らした。
 天蓬の、こういうふうに愉しげで、けれど何か企んでいそうな笑顔は、苦手だ。
 彼がこの手の笑みを浮かべているときは、大抵金蝉にとってあまりありがたくない事柄を含んでいることが多かった。それを長いつきあいのなかで、嫌というほど思い知らされている金蝉は、不機嫌そうな白貌の眉間の皺をさらに深くする。
 金蝉の表情の変化に、天蓬は困ったように笑みを深めた。
 それから、そっと手を伸ばし、薬指の先で硝子瓶の蓋を撫でる。
「飴、っていうんですよ、これ」
「……あめ?」
 初めて聞く響きの単語だった。金蝉は、軽く紫眼を瞠る。
「そうです。飴、と書くんですけどね」
 天蓬は、ゆっくりとした仕種で、硝子瓶を取り上げた。
「天界(ここ)には存在しない食べ物なんですけど。簡単に言えば、下界にある砂糖菓子です。なかには違うのもありますけど、大抵は甘いですよ」
 食べてみます?と、天蓬は慣れた手付きで金属製の蓋を開けた。そして、その中から一粒、飴なるものを取り出し、金蝉へと差し出す。
「…本当に食べられるのか?」
 見慣れないこの鮮やかな丸い物体が、本当に食べ物だと言われても、にわかに信じがたい。その疑問を素直に口にすれば、天蓬が苦笑した。
「試してみますか?」
 にこり、と、天蓬が意味深に微笑んだ。
 その笑みに、金蝉が思わず彼を凝視している間に、天蓬は手にしていた飴なるものをそのまま自らの口に入れた。
 金蝉を見つめたまま、整った唇が綺麗に弧を描いた。と、その刹那。
「――…っ」
 ふいに、天蓬の顔が寄せられた、と思った瞬間、彼の唇が己のそれに触れていた。
 唐突に仕掛けられた接吻に、金蝉は大きく眼を見開いた。そんな金蝉の動揺などかまうことなく、天蓬の舌先がするりと金蝉に差し入れられる。
 その熱いぬめりとともに、ころりとした固いものが口内に入ってきた。ふいに、舌先に甘さが広がる。つくりものめいた奇妙な甘さ。今まで金蝉が味わったことのない、直接的な甘ったるさだった。
 天蓬は満足げに微笑みながら、すぐに口づけを解いた。そして、ふふふ、と柔らかな笑みを零す。
「ね? 甘いでしょう?」
「………甘すぎる…」
 初めて味わう“飴”の甘さと、その食感に、金蝉はどうしたらいいのか判らないまま口をもごもごさせた。そもそも食べ物と言われても、こんな固いものをどう食べていいのかさえも検討がつかないのだ。
 だから、飴を舌の上に乗せたまま、じっと天蓬を見上げる。
「それは口の中で舐めればいいんです。そうすれば溶けていくんですよ。まあ、ちょっとしたおやつだと思ってもらえれば」
 天蓬の言葉通り、とりあえず口内のものを舐めてみた。確かに、舌先で舐めれば、口の中で飴が小さくなるのと同時に、甘さがどんどんと広がっていく。
「それで。なんだって、これを下界から持って帰ったんだ?」
 そう、――何よりの疑問はそれ、だ。
 この天界に存在しない飴なるお菓子を、わざわざ金蝉のもとに持ち込んだ彼の真意がまったく読めない。
 飴を口にしたまま、見つめ続ける金蝉に向かい、天蓬はほんの一瞬、眼を細めた。だがすぐに、いつもの含み笑いを秀麗な口許に刷く。
「金蝉、口さみしくないのかなあ、と思って」
「……は?」
 まるで脈絡のないことを言われた気がする。
 金蝉は天蓬を見上げたまま、目を丸くした。
 けれど、天蓬は困ったような微笑を浮かべて、軽く肩をすくめる。
「僕には煙草がありますけどね。金蝉には何もないでしょう? だから、僕がいなくて口さみしいときは、これでも舐めててください」
「――」
 金蝉は、呆然と彼を見つめた。見つめることしか出来なかった。
 突然、何を言い出すのかと思えば。――まったく、天蓬という男は。
 こんなふうに、いつもいつも不意打ちで、しかも変化球ばかりを金蝉に投げつけてきて。金蝉の困惑などおかまいなしに。そう思うと、金蝉に胸裏をなんともいえない感情が駆け抜けた。けれど、その感情をなんというのか、あいかわらず金蝉には判らなかった。
 だから。
 それなら、思うまま、したいまま行動するのみ、だ。
 金蝉はほんのわずか、深い紫暗の双眸を眇めた。そして、軽く舌打ちをすると、ふいに椅子から立ち上がり、眼前の彼の左腕を取った。そのまま己のほうへと強引に引き寄せる。
「!」
 天蓬の痩躯が、自分のほうへと倒れこみそうになったのを空いたほうの腕で支えながら、今度は金蝉のほうから接吻した。
 あわせた唇の隙間から、舌を差し入れる。
「……ぅ」
 金蝉のほうから深く唇同士をあわせれば、天蓬の唇からくぐもった、それでいて感じ入るような甘い吐息が漏れた。その彼の舌先に、それまで己の口内にあった飴を乗せる。
 そして、天蓬の頬に手を這わせながら、そっと唇を離した。
 ほぅ、と、眼前の彼があえかなため息を零す。その艶気に、金蝉の胸奥がどくりと高鳴った。
 金蝉の前だから見せる、天蓬のほどけた姿。それに、知らず煽られる。
 その胸の内を隠すように、金蝉はふと眼を伏せた。そして、困惑ぎみに視線を泳がせる。
「そんなの――飴なんかなくったって、お前がいればいい話じゃねえか」
「金蝉」
「俺が口さみしいときは、お前がいい」
「……」
 天蓬の息を呑む気配が伝わる。金蝉はさらに言い募った。
「俺よりも、お前が口さみしいときに飴を舐めておけばいいじゃねえか。甘ったるい煙草より、そっちのほうがずっとマシだ」
 くすくす、と、今度はあからさまな笑み声が聞こえてきた。この笑みに引かれるように、金蝉はそろりと顔をあげる。
 すると、天蓬は笑っていた。うすいつくりの肩を震わせながら、くすくすと手を口許に当てながら笑っていた。
「あははは…、金蝉って…本当に凄いですよ」
「……凄いって」
 何がだ、と、言い掛けた金蝉の口許に再びあたたかいものが触れた。それは天蓬の唇だった。しかし、ほんの一瞬触れただけで、それはすぐに離れていく。
「確かに、飴よりも、金蝉のほうがいいです」
 にっこりと、綺麗な笑顔で言われてしまえば、金蝉も悪い気はしない。それよりも、なんだか照れくさい心地がする。
「……とりあえず」
 金蝉は不覚にも上気してしまった顔を隠すように、もう一度天蓬を己のほうに引き寄せた。そして、再びほんのりと濡れた彼の唇を、自らのそれで塞いだ。
 ――今、口さみしいから、お前を。
 そう、ひっそりとささやいて、接吻を深める。
 飴の甘さが残る口づけは、いつものそれよりもずっとずっと甘く感じた。

 そう――まるで。天蓬そのもののような甘さだった。








FIN

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