プラマイゼロ




 それはもう、うめられないものだと思っていた――




「――もしも、この旅の途中で誰かが恋におちたらどうなるんでしょうね?」
 八戒からのあまりにも唐突な問いかけに、悟浄は口にしていた酒をあやうく吹き出すところだった。
 むせかけた苦しさから、悟浄のまなじりに生理的な涙が浮かぶ。おもむろにグラスを眼下のテーブルに置き、盛大にため息をついた。
「お前ね、いきなりナンなんだよ……」
 三日ぶりに宿らしい宿にありつけ、これまた久しぶりに雑魚寝ではなくきちんとした寝台もある二人部屋で、寝酒とばかりに気が置けない友人――つまりは八戒と静かに酒を飲んでいる最中に突然降って沸いたような話題で、動揺するなというほうが無理な話である。
 しかし、元凶である八戒は、悟浄と机をはさんで向かい合わせに腰掛け、涼やかな笑顔をうかべたままだ。悟浄はたまらず、いらだたしげに深々と眉間に皺を刻んだ。
「いえね、ふと思ったんです。僕ら、揃いも揃ってお年頃にもかかわらず浮いた話のひとつもありませんけど、人生それこそ何があるかわからないでしょう?」
「まぁな」
「ということは、旅先で運命の出会いがあって、そこで恋に落ちちゃったりすることもないとはいえないと思いませんか?」
「……」
 にこやかにほほえみながら有無を言わさぬ口調で言い募る八戒を、悟浄は胡乱げに見つめ返した。
 ……いったい、何を言い出すのやら。
 脈絡がないように聞こえるが、彼が口にすれば何らかの含みがあるように感じてしまうのは、長くもなければ短くもないつきあいから悟ったことのひとつである。
 悟浄のもの言いたげな視線に気づいたのか、八戒はさらに笑みを深めた。
「やだなあ、そんなに警戒しないでくださいよ。モテ男を自称して一番可能性があるはずなのに、案外さっぱりなんだなあとか、そんなことを言いたいわけじゃありませんよ」
「ったくどの口が言ってやがる……」
 臆面もなく痛烈な言葉をならべるあたりが、いかにも八戒らしい。
 だが、彼とのそんなやりとりはすでに悟浄にとって日常となってしまっていた。だからこそ、ため息を深めつつもその先をうながす。
「で? 実際のところナニが言いてぇの」
 さすがに煙草でもくわえないとやってられないとばかりに、悟浄は手慣れた仕種で愛飲の銘柄を胸ポケットから取り出して器用に指先で回転させると、その先端をビシッと八戒に向けた。
 八戒は一瞬、ひるんだとも驚いたともとれる表情を浮かべたが、ふ、と口許をゆるめる。
「ちょっと思い出したんですよね。このあいだの悟空と彼女のことを」
「ああ……」
 くだんの砂漠のオアシスでのできごとを脳裏に反芻し、悟浄も少しだけ視線を落とした。
 三蔵と別行動をとり、偶然たどり着いた妖怪だけが暮らす集落。その末路は痛ましいものでしかなかった。ほんの数日間でのできごとではあったが、おそらく忘れることはないだろう。それくらい、悟浄たちの今後にとっても重要な何かを気づかせてくれたできごとであったのだ。
 そして、その集落で出会った、悟浄たち三人を砂漠から救ってくれた男の妹たる人物と悟空との出会いもまた、悟空を大きく成長させたできごとでもあったのだが――。
「あのままもう少しだけ、あの場所で平穏な時間を過ごしたら、悟空と彼女の想いってもっと深まったじゃないかなあと。と、思ったときにですよ。もし今後、悟空でも三蔵でも悟浄でも、偶然出会った素敵な女性とそれこそお互いひとめ惚れしてしまって離れがたくなってしまった場合、どうなるんだろうなって」
 しんみりとした後でいきなり本題に戻って想像力豊かに語る八戒に、悟浄は大きな脱力感を覚えるしかなかった。
 頭がいいくせに、時々こうして不毛なことを口に出すのもまた彼らしいといえばこのうえなく彼らしいのだが、今回の話題は悟浄にとってはいささか面倒な部類だった。
 悟浄の個人的な感情の都合上、あまり突っ込んだ話にもしたくなくて、あえて生返事をかえす。
「そりゃ……男が残るか女を連れていくかの二択じゃね?」
「それしかないですけど、現実問題、どちらもナシでしょう?」
「それ以前に三蔵サマが女と恋におちるとかそもそもありえなくね? つーか、アイツそもそも女と二人きりとかもねーだろ」
「わかりませんよー。案外、ああいうひとが年上のしっかり者の女性にコロッとおちたりするんですよ。悟空はイイ男に成長してきましたし、貴方も自称モテ男ですしね。可能性はどなたにもありますよ」
「お前ね……」
 呆れ半分で悟浄は紫煙を深々と吐き出した。
 気づいているのかいないのか、八戒はまったく自分のことは口にしない。あくまでも対象は自分をのぞく三人だ。
 八戒にとっていまだに恋愛そのものがタブーなのか、それともいまだに亡き彼女だけに想いをはせているからなのか。少なくとも数ヶ月前に訪れた街の橋の上で悟浄と語り合ったときは、彼もようやく未来に向けてひとを想う、ということに対して前向きにふっきれてきたのかと思っていたのだが。
 だが、あえてその違和感を受け流して、悟浄はふたたび八戒へと向き直る。
「で? 結論はナニ?」
「結論って言われても出てませんけどね。今までどなたも奇跡的にロマンスに発展することはありませんでしたが、こんな旅の道中で恋愛をするのはたいへんだなあって、そう思っただけです」
 ――そもそも旅の目的が恋愛うんぬんとかけ離れているだろう、とか、どう考えても三蔵と悟空はそれよりも先立つものがあるからありえないのではないか、といったさまざまな突っ込みが悟浄の脳裏をかけめぐる。しかし、こういうときの八戒に何を言っても無駄だということも重々承知している悟浄は、余計なことは口にしないで、ごまかすように重たい煙を肺いっぱいに吸い込んだ。
 元々、気安い仲で他愛のない話はいくらでもするが、悟浄と八戒が恋愛談義をすることはまずない。どこか意図的にさけてきた節さえもある。それは彼の凄絶な過去の一端を知る者として、さもありなんと思っていた。
 だからこそ、今このタイミングで、八戒がこの話題を出してきた真意はわからない。
 だが、この流れなら言ってしまってもいいか、と悟浄はふいに思った。
 そう――今まで言いたくても言えなくて、ずっと胸にしまいこんでいたある気持ち、を。
 一旦吸い込んだ紫煙を、悟浄は深呼吸するかのように大きく吐き出した。そして、口の端を軽くつりあげて笑みをかたちどる。
「――それなら一番いい方法があるぜ?」
 悟浄の表情の変化に、今度は八戒のほうが胡乱げに翠眼を細めた。
 少しだけ空気が固まる。
 八戒は八戒で、こういう表情を浮かべるときの悟浄はロクでもないことを言い出すに違いないと警戒しているのだろう。そのさまが手にとるように伝わってきて、悟浄は内心苦笑を禁じえなかった。
 実際、これからロクでもないことを口にしようとしているからなおさらだ。
「たとえば?」
「俺らがくっつけばいいんじゃない?」
「――はい?」
 八戒の笑顔がわかりやすく硬直した。
 他の奴らが見たらわからないくらいの変化だが、間違いなくパニクっているであろう八戒の姿に悟浄は苦笑を深めつつ、なおも言い募る。
「俺、お前のコトが好き、みたいだし」
 だからさ、これなら一緒にいられるから問題なくね? と、流れにまかせて言ってしまう。
 まさかこういったかたちで密かにかかえてきた想いを告げる羽目になるとは思ってもみなかったが、これもなりゆきと言ってしまえばそれまでだった。
 ふと、固まったままだった八戒の口許がゆるんだ、と思った途端、今度はなんとも言いがたい微妙な表情を浮かべた。ふぅ、とつめていたらしい息を小さくこぼす。
「それは、……本気で言ってるんですか」
「いくら俺でも冗談でこーゆうコトは言えねーな」
「――」
 とうとう八戒は絶句した。
 手放しで受け入れられるとは思っていなかったが、八戒のこのありさまは悟浄にしてみれば想定内だった。むしろ、即時拒否をされることすら覚悟していたから、そうならなかっただけマシと思えるあたり、なにものにも期待しない癖というものはなかなか抜けきらないものらしい。
 少々居心地の悪い雰囲気となったところで、悟浄はどうしたものかと視線を泳がせて思案する。確かに、おのれが爆弾発言をしでかした自覚はあるので、まずこの状況をどう打開したものか――と、そのとき。
「――本当にいいんですか?」
 真顔で八戒に問われ、今度は悟浄が硬直する番だった。
 すぐには彼の言葉の意図が理解できなかった。煙草の先から灰がこぼれおちることにも気づかないまま、思わず目を瞠る。
「……へ?」
「だから……僕なんかでいいんですか、って」
 ――それはつまり、八戒も悟浄に対して同じ想いをいだいていたのだと、そういうことなのだろうか。
 思ってもみなかった結論に、悟浄のほうがすぐには追いついていかない。それでも、目前の彼の、どこか必死な相貌が悟浄を後押しする。
「お前なんか、じゃなくて、八戒がいいんだけど」
 つーか、八戒じゃないとダメみたいだ、とはっきり言葉にのせれば、少しだけ彼の口許に笑みが浮かんだ。そのほほえみを目の当たりにして、悟浄の胸裏にあたたかな、言葉にできない想いが去来する。
 そう――本当はずっとずっと八戒が特別だった。
 けれど、ずっとずっとかなうはずがないと、あきらめていた。
 だから、ずっとこの想いを告げることはないと、そう思っていた。
 それでもこうして、いざ口にしたら、その想いは一方通行ではなかったことに、どうしようもないよろこびがこみあげてくる。
 ――だから、こそ。
 悟浄はいつのまにか短くなっていた煙草を離して、灰皿に押しつけた。
「八戒こそ……俺でいいの?」
 きちんと彼の白貌と向き合って確認するように告げれば、ようやく八戒の表情が晴れやかなものに変化した。いつもの彼らしい笑顔を浮かべて、手にしたままだったグラスの酒を一口あおる。
「僕も言うつもりはなかったんですけどね……悟浄に対して恋愛感情があるか、といわれたら正直よくわからないです。ただ、貴方が誰よりも特別なことは間違いないですし、この気持ちが好きというのではないか、と言われたらそうかもしれません。何より貴方にそういう意味で好きと言われてうれしいと思えるぐらいには同じ気持ちなのではないか、そう思えたので」
「それってつまり、俺とおんなじってコトだろ?」
「ええ、たぶん」
「なら、問題ねぇだろ――俺とお付き合いしよーぜ?」
 乾杯、とばかりに悟浄のグラスを掲げて八戒のそれに合わせる。
 ガラスのふちが重なって、ティン、と小さな音をたてたのを、八戒は苦笑まじりに見つめた。
「こういうつもりで恋愛がどうこうって話題にしたワケじゃなかったのに……なんだかやけに気軽に決まっちゃいましたね」
 悟浄の内心としてはまったくをもって気軽でもなんでもなく、ある意味一大決心をして告白したのだが――。
 それでも、そのことを八戒に告げる気は悟浄にはなかった。むしろ、流れにまかせて八戒とあらたな関係を築く第一歩を踏み出せたのだから上々である。
 それに、自分たちは、これくらいの気軽さで始めるほうがちょうどいいのかもしれない。
 それでなくても、普通ではない出会いをして、普通ではないときを過ごして、普通ではない関係を築いてきたのだ。そもそも一般的な概念など、悟浄と八戒にはあてはまらなくて当然であるといえた。
「まあ……らしいんじゃねーの、これくらいのほうが」
「そうですねぇ。……ま、そういうことにしておきましょうか」
 ふいに、八戒がにこりと、意味深にほほえむ。
 その笑顔の裏にどんな真意が隠されていたのか、少々気になったものの――今はあえて見なかったふりをして悟浄も酒を口にした。そして、時間はずいぶんかかったけれど、結果的におさまるところにおさまってプラマイゼロってヤツだな、と胸中でひっそりとつぶやいた。


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 なんだが妙にすっきりした表情をしている悟浄を盗み見ながら、八戒もまた今まで感じたことのない安堵感に、そっとおのれの胸に右手を当てた。
 あの日以来――今まで、なにをどうしてもうまらなかった心のちいさな隙間。
 右眼にはめた義眼のように、物理的にうめられるものはわかりやすい。
 けれど、心の空虚は、見えないうえにわかりにくい。簡単にうめられるものでもない。いくら今、特別な彼らと濃い時間を過ごしていたとしても、見えない何かをうめることなど、八戒には永遠にできないとさえ思っていた。
 たとえ、悟浄が自分にとってさらに特別だと自覚したとて、それだけではうまらないこともわかっていた。かといって、彼にこれ以上を求めるのもありえないと勝手にあきらめていた。
 だからこそ、今、こうして悟浄から想いを告げられたことが奇跡のようで。
 今こうして胸裏にわきあがる、言葉にできない特別な何かを大事にいだきつつ、八戒は悟浄に見えないように小さくほほえんだ。
 やっとここにうまった想いごと、前へと踏み出せることに。








FIN

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