つきのあかり




「悟浄ってかっこいいですよね」
 ぽろり、と。
 まさに、ぽろりと口から勝手にこぼれおちた、といったありさまでつぶやいた目の前の青年――八戒を、悟浄はうっそりとした仕種で怪訝そうに見あげた。
 せまい作りの室内に押し込めるように並ぶ二つの寝台。そのうち、窓際の寝台の縁に大股開きで腰掛けていた悟浄がくわえていた煙草の先から、ほろほろと白い灰が舞い散る。室内を照らす明かりは古ぼけた白熱灯と、窓から差し込む月光のみのせいか、互いの輪郭がうっすらとぼやけ、周囲のほの暗さだけが際立っていた。
 いまの悟浄は普段はおっている皮ジャケットだけを脱いで、白いタンクトップだけを着たラフな格好ではあるが、この姿自体はいつもとなんら変わりはない。だからこそ、眼前の彼がいったい何をもって普段口にすることのない単語をこぼしたのか皆目見当がつかなかった。いまだ旅装束を着崩すことのないまま、おのれの前にしずかにほほえみながら立ちはだかる八戒に向かい、悟浄はさらに眉間のしわを深くした。
 そうなると、思い当たる節は特にはないが、これ以外に思いつくことはなくて。
「…………俺、ナニかやらかしたか?」
 ここで、罰ゲーム的な何かだろうか、と思った悟浄に罪はないはず――だ。しかし、その回答は八戒のお気に召さなかったらしく、それまで浮かべていた微笑がわかりやすく剣呑なそれに変化した。まずいと思ったが、後の祭りである。
「なんでそうなるんですか。失礼ですね」
「お前がいきなり俺のコトかっこいいとか言うからじゃねーか!」
 確かに俺様カッコイイけどな、とつけ加えれば、八戒からは「そうですねー」とたいそう気のない返事が戻ってきた。そうだった。普段はこういう態度をとる奴だからこそ、絶対に何か裏があると思った悟浄は間違っていないはず、である。……多分。
 そんな悟浄の胸中での葛藤を察したのか、八戒はちいさく肩をすくめながら口許をゆるめる。
「いえね、この角度から月あかりに照らされて見える悟浄の表情が、光と影のコントラストに映えてて……ああ本当にかっこいいな、と思ったんですよ」
「……」
 はからずも、再び真顔で、しかもやわらかな笑顔つきでくりかえされ、悟浄は絶句するしかなかった。いままで八戒からこんなことをストレートに言われたことなどない。いくら長く恋仲とはいえ、想いびとからこういうことを口にされると――照れる。それはもう盛大に。
 ――ナンなんだよこいつはいきなり!
 すでに吸いきった煙草が指先からこぼれ落ちるのもかまわず、悟浄は左手で口許を押さえた。どうにも視線が泳ぐ。耳許も熱い。きっと、わかりやすく赤くなっているさまを八戒に見られているのかと思えば、よけいに顔面に血が昇る心地がした。
「マジでナンだよ」
 照れくさいせいで、つい吐き捨てるような口調になってしまった。自分の物言いに一瞬冷やりとしたが、八戒は意に介したふうはなく、悟浄を上から見つめたまま、困ったように笑みを深めた。
「えっと……多分、舞いあがってるんじゃないかなあ」
「は?」
「久しぶりでしょう、二人部屋」
 そうなのだ。
 玄奘三蔵一行としての旅路もそろそろ終着地――西域にかなり近づき、日々の敵の襲来もよりいっそう激しくなってきていた。そのため、ここ最近はまともな宿に遭遇することすら困難になってきている。さらに、宿に泊まれたとしても、四人同室が当たり前。たとえどんなにせまい宿部屋でもとにかく四人で行動を共にすることが絶対だった。
 だからこそ、今日は偶然の僥倖なのだ。本当にたまたま、二人部屋が二つしか空いておらず、しかも二人部屋に四人全員を押し込むことが不可能なほどせまい部屋だったからこその。
「そういや、そーだな」
 確かに彼の言うとおり、こうして室内で二人きりなど、いったいいつ以来だろうか。ようやく実感した悟浄は、それまであがっていた熱がふいに引いていくのを自覚する。
「貴方と二人きりなんて、昔は当たり前だったのに」
 いまはそのこと自体が贅沢になってしまった、と苦情まじりに洩らす八戒を、悟浄は再び仰ぎ見た。
「それで? 久しぶりに二人っきりになって見た俺はそんなにカッコよく見えたって?」
 わざとらしく口の端をあげながら揶揄するように言えば、八戒の翠眼がすう、と細められた。まるで悟浄へと見せつけるように、大げさなため息をついてみせる。思い切り含みをもたせるような、意味ありげな感情をのせた相貌からは八戒の真意が読めなくて、悟浄はまたしても胡乱げに顔をしかめるしかなかった。
「――はっ、かい?」
「まったく」
 八戒はおもむろにカーテンのない窓を背に立ち、その位置から悟浄を見おろした。
 月あかりを背景にし、表情を消して悟浄を見つめる八戒の白皙は、端整なだけに凄みすら感じる。悟浄は思わず息をのんだ。その姿態はひどく煽情的に見えた。悟浄の身の内にこれまであえて押し込めてきた熱情が、じわりと湧きあがるのを感じた。それでもあえて表に出さないようにした、つもりだったのだが。
「……悟浄って、案外にぶいですよね」
「ああ?」
「こんなにわかりやすく誘っていることに気づかないなんて、自信なくしちゃいますよ僕」
 ……さすがに、悟浄も直前に気づいてはいた。だが、殊勝にもそれに見なかったふりをしようとしただけだ。自分らしくないとわかってはいたが、それでも。
「あのなあ、さすがにそこまでにぶくはねーよ。でも、ショージキ、加減できる気がしねえ」
「ここで加減とかされるともっと自信なくしますよ。それに、」
 ふいに、悟浄の前に影が落ちた、と認識したとたん、おのれの左頬にあたたかな体温を感じた。それが八戒の掌だと、そう思ったそのとき、今度は唇に体温を感じる。軽く触れただけで離れたそれは、八戒との久しぶりのキスだった。たまらず、名残惜しげにその残像を視線で追えば、眼前の彼がふ、と口許をあでやかにほころばせる。
「いま、貴方に触れたいんです」
 ――ここまで言われたら、もう後になど引けるはずもない。
 悟浄とて、いつだって八戒がほしいのだ。本当はいつだってもっともっと触れたいと思っている。けれど現況がそれを許さないからこそ、貴重な『いま』――二人だけのこのときに、二人でしかできないことをしよう。
 悟浄は情欲を孕む瞳を細めながらゆったりとほほえむと、眼前のいとしい彼を自らの懐に引き寄せるべく、そっと左手をのばした。




 冴え冴えとひかる、月のあかりに照らされながら。








FIN

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