君のとなり




 いつもなら夕食後はすぐに賭場へと出掛けてしまう悟浄が、食後に席を立つことなくのんびりと椅子に腰掛けているのに、八戒はめずらしいなあと、悟浄に気づかれないように首を傾げた。
 そして、一応洗いものを終えてから、ゆっくりと悟浄のそばへと足を向ける。
「今日は行かないんですか?」
「んーと、気分がのらねぇからパス」
 食後の一服とばかりにうまそうに紫煙を吐き出す悟浄を見ながら、八戒は彼の前に立った。布巾でテーブルの上を拭きながら悟浄に尋ねる。
「それなら、コーヒーか何か飲みます?」
「お前は?」
「僕はコーヒーでも飲もうかと」
「じゃあ、俺の分も」
 短くなった煙草をビールの空き缶の口に押し付ける悟浄をちらりと横目で見て、八戒は少々口元を引きつらせながらそれでもにっこりと完璧な笑みを浮かべた。もちろん、内心「後で説教」と決意して。
「判りました。少し待ってて下さい」
「――なあ、八戒」
 コーヒーを淹れるために、再度台所へ戻ろうとした八戒を、不意に悟浄が呼び止める。その声に、八戒も思わず立ち止まり、くるりと悟浄へと向き直った。
「はい?」
「お前のそのしゃべり方、――昔っからこうだったの?」
 悟浄の問いかけの意味をすぐには理解できなくて、八戒は何事かといったふうに、目をしばたかせながら悟浄をじっと見つめた。よほど自分は間の抜けた面をしていたのか、途端、悟浄がムッと拗ねた表情を浮かべる。
「ンだよ、その顔。俺、変なコト言ったか?」
「……すみません、ちょっとすぐに理解できなかったもので。それで? 僕のこの口調のこと、ですよね?」
 そんな悟浄の態度に苦笑しつつ、八戒は再び悟浄の横に立った。そして、椅子に腰掛ける彼を上から見下ろすかたちで、ふんわりと微笑む。
「そ。だってよ、んな俺とかわんねー歳の男が、そーゆうしゃべりしてんの、そういや八戒以外いねぇなって、急に思ってさ」
「もしかして嫌、ですか? こーゆうのは」
 悟浄の言葉の裏に、もしかしたらそういう感情が含まれているかもしれないと、八戒はうすく微笑みながらあえてその疑問を口にした。
「そーゆうんじゃなくて、純粋な疑問ってヤツ? 八戒にはあってると思うし。で、どーなん?」
 さらりと切り返された悟浄の返事に、八戒は一瞬だけ目を見開いた。
 判って言っているのかそうではないのか、八戒にその真意は判らないが、こうしていつも、さりげなく八戒の自虐的なところをなんでもないことのように、それと意識させないまま上手に流してくれる。
 かなわないなあと、八戒は苦笑ぎみに口元を緩めると、立ち話もなんだしと自分用の椅子に腰掛けた。
「いいえ、そんなことはないです」
「じゃあ、ナンて?」
「まあ、普通に。悟浄や三蔵ほど口悪くはなかったですけど」
 三蔵と引き合いに出されたのが嫌だったのか、悟浄はげんなりと顔をしかめると、ちっと舌打ちを漏らした。そして、じろりと軽く八戒を睨みつけてくる。
「わぁーるかったな。で、ナンでさ?」
「……よく考えると、悟浄に拾われてから、ですよねぇ……。あの時は、貴方は知らないひとだし、助けてもらったしで、なんとなく敬語を使わないとって感じだったんですけど…。そして、次に会ったのが三蔵でしょう? なんだか、これで定着してしまいましたよ」
 悟浄に言われるまで意識したことなかったですねぇ、と八戒がのほほんと呟くと、悟浄は紅瞳を細めて、じっと八戒を見据えた。
「ナニ? 俺がきっかけってコト?」
「そういうことになりますかね。…あ、なんだかアレみたいですね」
 八戒の脳裏に不意にあることが浮かんで、にこにこと楽しげに微笑んでみせる。その笑みに何か不穏なものでも感じたのか、悟浄は怪訝そうに眉宇をひそめた。
「……アレ?」
「産まれて初めて見たものについていく雛鳥気分、ってことで。……じゃあ、悟浄は親鳥なんですね」
「…………はっかいぃ……、お前ねぇ……」
 がっくりと肩を落とす悟浄を、八戒は不思議そうに眺めた。
 ……自分は、そんなに変なことを言っただろうか?
「悟浄?」
「親鳥って、……タメだろーが! 俺らはっ」
「僕、まだ1歳ですよ」
「はあ?」
 ふんわり笑顔で、わざとなのか天然なのか判らないことを口にする八戒を、悟浄は信じられないようなものを見る目つきで凝視した。そんな露骨な態度を見せる悟浄に、八戒はくすりと、笑みを漏らす。
「悟浄に拾われてから、まだ1年しかたってませんもんねぇ。……まだ、親鳥のあとをよちよち歩いている雛鳥なんですよ、僕」
 確かに「猪八戒」として新たな生を歩み始めてから、ようやく1年以上たった。
 やっと自分が猪八戒であることにも慣れてきて、――この短くも長くもない時間の経過のなか、常に八戒の傍らには悟浄がいた。
 そう、よく考えてみれば「今」の八戒をかたちづくるきっかけは、悟浄との出会いから始まり、そして、それらの殆どが悟浄から起因するもので。だから、悟浄が“親鳥”というのも、あながち間違ってはいないと思う。ただ、今の自分たちの関係は、そんな親子関係ではないことくらい、八戒にもよく判っていた。
 同居人から始まり、友人に昇格してから、さらに一悶着あって互いが大切なひと、となった今は。
 ――さまざまな紆余曲折があって、そして、そのとなりに悟浄がいて「今」の自分がある。
「それじゃあ、俺たち“親子”ってコトか?」
 悟浄が不本意だと云わんばかりに、口を尖らせる。その、どこか拗ねたような表情がおかしくて、八戒は思わずとくすくす笑いを零した。
「八戒!」
「すみません、……僕たちが親子なわけ、ないじゃないですか。もののたとえ、ですよ」
「ったく、……だいたい親子じゃ、こーゆうコトできねぇもんな」
 ニヤリと口の端を上げて、悟浄はすばやく体を伸ばして八戒の唇に軽く口づけた。悪戯が成功した子供のような笑みを浮かべて、八戒の顔を覗き込む。
「な?」
「まったく、貴方ってひとは……」
 こういうところは本当に抜かりがないと、八戒はため息をつきつつ、苦笑した。悟浄も満足げに笑うと、上体を戻して再び椅子にきちんと座り直した。
「ま、ナンにせよ、俺は今のお前がいいけどな。過去がどうであれ」
「悟浄」
「別にしゃべり方を変えろとか、そーゆー意味で訊いたんじゃねぇから」
 悟浄の言葉に、八戒はふわりと笑みくずれた。
 彼の、こういった言葉や気遣いは、いつも八戒の胸の奥を、あたたかくする。それが、何と言うものか、まだはっきりとかたちにすることは八戒には出来ないけれど。
「判っていますよ。それに、今さら僕が悟浄や三蔵のようにしゃべっても違和感ないです?」
「そーかあ?」
「たとえば、『空き缶を灰皿代わりにすんなって、何度言ったら判るんだテメェは(怒)』とか♥」
 花も綻ぶような綺麗な笑顔を浮かべつつ、その口から繰り出された柄の悪いどすをきかせた声音に、悟浄は心底驚いたようで、ぎょっと目を見開いて八戒を見つめ返した。にこにこ笑顔を浮かべ続ける八戒に何やら薄ら寒いものを感じたらしい悟浄が、そっとテーブルの上に置かれたままになっていた空き缶へと視線を落とす。そこには確かに、先ほど悟浄が灰皿代わりに押し付けた煙草が、飲み口に何本か刺さっていた。
「え、遠慮しとくわ。……あ、コレ、片付けとく……」
「判ればいいんですよ、判れば」
 こえーと呟きながら、空き缶を片付けるために席を立った悟浄の背中を見送りつつ、八戒はくすくすと微苦笑を漏らした。そして、自分も2人分のコーヒーを淹れるために台所へと向かう。
 ぶつぶつ言いながらも空き缶を片付ける悟浄の横に並び立って、コーヒーサーバーの準備をしながら、八戒はちらりと悟浄を盗み見た。
 正直、今でも彼のとなりに、こんなふうに自分がいてもいいのかと、八戒は思う。
 けれど、この場所――悟浄のとなりは、とても居心地がよくて。そして、彼がいてほしいと、そう言ってくれるから。こんな自分でも、必要だと言ってくれる彼のためにも、悟浄のとなりにいたい。
「今」の八戒をかたちづくるきっかけと、何より大事なものをくれた、彼のとなりに。
 八戒はコポコポと音をたて始めたコーヒーメーカーに視線を戻すと、悟浄に気づかれないよう、うすく微笑んだ。片付けが終わったらしい悟浄へ再度その眼差しを向ける。
「ご苦労さまです。もうコーヒーも入りますから、あちらで一服しましょう」
「なあ、八戒」
 不意に悟浄が意味ありげな視線を向けてきて、八戒も何事かと目線だけで返事をする。すると、ニヤリと人の悪い笑みを浮かべたかと思うと、悟浄はぐいと八戒の腕を取り、自分のほうへ引き寄せその耳元にかすめるようなキスを落とした。
「ごじょ……!」
「さっきも言ったけど、俺は今のお前がいいんだから、な」
 だから、そばにいろよ。そうささやく悟浄の言葉に、胸がつまる。まるで、八戒が考えていたことなどお見通しだと云わんばかりの彼の言葉が、胸に痛い。
 だから、八戒はその想いを誤魔化すように、悟浄に向かいふわりとあわく微笑んでみせた。
 泣き笑いのような、笑顔で。
「――はい」




 悟浄が望むだけ。
 こうして、――貴方のとなりに。







FIN

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