好きという気持ちは




 意識の底から浮かび上がる途中に感じた、肌越しに伝わるあたたかさに惹かれるように、悟浄はゆっくりと深紅の双眸を開いた。
 まだ夜が明け切っていないようで、室内は薄暗いままだ。普段ならば、こんなに朝早くから目を覚ますことなど滅多にない。
 めずらしいこともあるもんだ、と心中で呟きつつ、悟浄はふと隣にひとの気配を感じて、そろりと顔だけをそちらへと向ける。すると。
(――っ、)
 これまた、常ならばいるはずのない人物の姿を認めて、悟浄は思わず息を詰めた。
 つい先日、ただの同居人から悟浄の恋人という立場も加わった八戒が、悟浄とひとつベッドの中で、悟浄へ背中を向けて眠りについていた。確かに昨晩、悟浄が賭場から帰宅後そのまま八戒と躯を重ねたのだから、別段ここに八戒がいてもおかしくはない。
 ただ。
 慣れないだけだ。
 八戒が隣にいるというだけで、思い切り胸中でうろたえてしまうくらいに。
 悟浄はちいさく吐息を零すと、再度八戒の背へと視線を飛ばす。
 女のようにまろみを帯びてはいないが、ごつごつした印象はまったくない白くて薄い背中。よく見れば小さな傷跡がいくつもあって、なんとなく彼の凄惨な過去を彷彿とさせる。けれど、その傷跡すら、今はいとおしく思えるから不思議だった。
 欲しいと、悟浄が望んで初めて手に入れることの出来た、大切な存在。
 こうして想いと躯を重ねてはいるが、実際、互いにはっきりと「好き」とか「愛している」といった判りやすい愛の言葉を口にしたことは一度もない。悟浄自身、八戒に対して「ここにいろ」とか、彼を「欲しい」と口にすることは出来ても、それがすぐに「好き」という言葉に結びつくかどうかは別問題だったのだ。
 だいたい「好き」とただ口にのせることは簡単である。けれど、「好き」という言葉の持つ意味が、正直悟浄にはよく判らなかった。
 ――今までは。そう、八戒に出会うまでは。
 だから、八戒が特別だとそう自覚してからも、それがすぐに「好き」という感情には結びつかなくて。
 悟浄は寝転んだ姿勢のまま、そろりと八戒の後頭部へと手を伸ばした。さらりと、濃茶の髪の毛が悟浄の指先をかすめる感覚に、悟浄は楽しげに口許を緩める。
 八戒と躯を繋いだのはまだ片手に足るほどでしかないが、コトが終わっても、彼がそのまま悟浄とともに眠りにつくことはほとんどない。
 こんなふうに、八戒が悟浄の横で朝を迎えたこと自体、実は初めてだったりするのだ。そう思うと、自然と悟浄の男前な頬もつい緩んでしまう。
 案外俺もベタな男だったのねぇ、と苦笑しつつ、悟浄は八戒の髪を触っていた手をさらに肩へと落とした。そして、ゆっくりと、その肌裡の感触を確かめるように撫で上げる。
 ぴくりと、八戒の肩が揺れた。それに一瞬だけ動きを止めるが、それでも悟浄は八戒に触れる手を引っ込めようとはしなかった。このまま彼の背中を見続けるのもいいが、今はそれよりも。
「――……ん、……」
 不意に、あまやかな吐息のような呟きが八戒の口から漏れた。覚醒が近いのか、それまで静かに閉じられていた眦が小さく震えている。その様を目で捉えた悟浄は、さらに笑みを深めて、上半身だけを伸ばしてそっと彼の瞼に口づけを落とした。


 早く、その瞳を開けて。そして、俺だけを映して。


 果たしてそんな悟浄の想いが通じたのか、ゆるゆると、八戒の翠の双眸が開かれてゆく。悟浄が惹かれてやまない翠玉の瞳が、その刹那、眩しげに細められた。
「……ご、じょ……ぅ?」
 起き抜けなのと、昨晩さんざん喉を酷使させたせいか、八戒の声は少しかすれていた。そんな些細なことすらも、悟浄をうれしくさせる。
 悟浄はニッと口の端を上げ、八戒を見下ろすかたちで、今度はその薄紅色の唇に己のそれを軽くあわせた。ふわんと、どこかまだ夢見心地な八戒の貌が笑みをはいて、間近にある悟浄へと自らキスをする。それは深くはならないまま、悟浄はそろりと上体を起こした。
「おはようございます、悟浄」
「はよ。……って、まだ夜が明けてねーけど」
「……そうみたい、ですねぇ……」
 八戒の口調に思い切り含みを感じて、悟浄はふと眼下の男の顔を見た。
 ――すると、八戒は、それはそれは不本意極まりないとはっきり顔に刻んで、にこにこと微笑んでいた。それまでの甘い気分が一気に吹っ飛ぶほどの寒い笑みに、悟浄はぎょっと目を見開いて八戒を凝視する。
 今まで知らなかったが。もしかして、八戒はいわゆる「寝起きがものすごくよろしくない」タイプなのかもしれない。
 だとしたら、わざと起こすようなことをしたのは拙い以外の何ものでもないわけで。
「悟浄、わざと、ですよね……?」
「イヤ、そーゆうわけでもねーんだけど。ただ、」
「ただ、なんです?」
 八戒はますます寒々しい笑みを深めて、じっと悟浄を見つめ返した。多分、悟浄の予想通り、八戒の寝起きは最悪の部類に入るようだ。しかも、これは本人自覚なし、と見た。
 だからといって、ここで彼の笑顔に怯んだら、せっかくの「初めて一緒に迎える朝」に水を差してしまう。それは、悟浄にとっても譲れない部分だった。だから。
 悟浄はニヤリと色悪な笑みを浮かべると、八戒の耳元へと唇を寄せ、わざと声を低めて囁きかけた。もちろん、彼がその声に弱いと判っていて。
「そりゃあ……、ある意味『初めての朝』だし? 八戒のカワイー寝顔だけじゃもの足りなくなってさぁ……」
「……っ!」
 途端、八戒の頬が真っ赤に染め上がる。してやったり、と悟浄がニンマリと笑うと、八戒はシーツをひっ掴んでそのまま躯に巻きつけ、いきおいのまま悟浄から背を向けた。
「はっかいー? ナニしてンのー?」
「……うるさいです。まだ朝じゃないなら、僕はもう少し寝ます」
 シーツ越しに聞こえる彼の声はどこか早口だった。微妙に照れを含んで聞こえるのは、悟浄の耳が都合よくできているからか。
 しかし、起き抜けの八戒の行動はどこか普段の彼らしくなくておもしれぇ、と悟浄はくつくつと楽しげに喉を鳴らした。こんな些細なことからも、彼へのいとしさが募る。
 悟浄は上から覆いかぶさるように、全身シーツに包まれた八戒の躯を抱きしめた。そして、彼のうなじ辺りに、わざと押し付けるように唇を落とす。そのままシーツに隠れた耳元へも、キスを。
「じゃ、俺もこのまま寝よーっと」
「……そのままでは苦しいです」
 シーツの下から抗議の声が上がる。しかし、悟浄はもちろん聞く耳を持つ気はない。今度は顔の辺りにキスをしながら、くくっと楽しげに悟浄は笑った。
「こんなの巻いてるから苦しいんだろ?」
「……苦しいままでいいです。おやすみなさい!」
 変なところで意地っぱりな男は、それでも悟浄の言う通りにはしたくなかったのか、ぶっきら棒に言い放つとさらにシーツを手繰りよせてその身に巻いた。そんな八戒の行動に、悟浄も笑うしかない。
 こういう可愛くないところも彼らしくてイイと、そう思えるのだから、大概自分も終わっているとの自覚はある。だからこそ、きっと。
 悟浄は口許を緩めたまま、シーツ越しに、そっと彼の背中に口づけた。
 そう、きっと。



 悟浄にとって、「好き」という気持ちは。
 ――「八戒」というカタチをしているのだ、と。
 今なら、そう思えるから。



 こんな気持ちを初めて気づかせてくれた彼の背中に、想いをこめたキスをひとつ――。








FIN

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