星は見えない




「――ナニしてんの、そこで?」
 それまでひとりでぼんやりとしていた八戒の耳へとふいうちで届いた男の声に、思わず息をつめた。
 漆黒におおわれた静寂の中、八戒の息を呑む音がかすかに響く。
 それまでまったく気配を感じなかった男――悟浄の登場に、大樹の根元に膝を抱えて腰をおろしていた八戒は、驚きもあらわに声のしたほうを仰ぎ見た。
 見れば、悟浄は樹の幹に右手をついて、銜え煙草で八戒を見下ろしている。まったく光源のない夜の闇にあってもなお、彼のまとう紅だけはひどく鮮明だった。八戒は眩しげに目を細めながら、そっとつめていた息を吐き出した。
「……悟浄こそどうしたんです?」
「んー、夜のお散歩ってヤツ?」
 軽く肩をすくめつつ、どこまでが本気なのかわからない理由を告げる悟浄を、八戒は胡乱げに見やった。
 男四人で西へ向かう旅を始めて早数日が経過したが、今のところその旅程のほとんどが野宿だった。そして、今晩も山越えの途中で夜を迎え、各々がジープの指定席で睡眠を取ることになったのだが――
 基本的に他人の気配がすぐ近くで感じられる状況で眠ることに慣れていない八戒は、今晩も早々にジープを抜け出し、あえて彼らと距離を取って休んでいた。いつ敵の襲撃が来るのかもわからない状況で、本来なら彼らと離れて過ごすのは得策ではないこともわかっていた。だがどのみち、この状態で眠れないのもわかりきっているから、それならば少しでも神経を休めることができる環境に身を置くことを優先すべき、と誰にともなく言い訳をしながら。
 そんな八戒の行動など、悟浄には見透かされていたのだろう。
「そんな趣味なんてないくせに……」
 大方、目覚めた時にジープにいなかった八戒を捜していたに違いない。自惚れでもなんでもなく、それは確信だった。伊達に三年間も、誰よりも近くにいたわけではなかった。
 だからこそ、結果的に彼を起こしてしまったことに内心でひっそりと詫びる。
「そんなコトないぜ? ついこないだまで、これくらいの時間に散歩しながらうちに帰ってたワケだし?」
「まあ、確かに」
 そういえば、西域への旅に出る前――ほんの数日前までは、確かに悟浄の帰宅時間自体が真夜中だったから、それを指して“散歩”と称するのもあながち間違ってはいなかった。八戒は小さく苦笑しながら、再び白貌を前方に向けた。
「で? そーゆうお前こそナニしてんの?」
 再度の悟浄からの問い掛けに、八戒は少しだけ視線を上にあげた。深い森の木々の隙間から見える夜空は、星の煌きひとつも見えない真っ暗な空間でしかなかった。月明かりさえもない、ただ深い闇が広がっているだけ。
「――星が、見えないんですよ」
「はあ?」
 悟浄の言葉の意味をまったく無視したままで、八戒は小さくつぶやいた。
「……見えないとナンか困るワケ?」
 頭上から明らかに困惑している気配が伝わってくる。八戒は微苦笑を浮かべたまま、さらに口を開いた。
「なんとなく取り残された気持ちになりますよねぇ……」
「……」
 悟浄の深い深いため息だけが聞こえてくる。言葉より雄弁に彼の心情をあらわすそれに、八戒は密やかに笑みを深めた。
 きっと悟浄は、八戒の真意がわからず戸惑っているのだろう。わかってはいるものの、だからといって、おのれがそう簡単に趣旨変えできるほど可愛らしい性格ではないこともまた事実だった。
 悟浄は黙ったまま、それまで銜えていたらしい煙草を地面に落とした。その先にわずかに火が点いていたそれをすぐさま靴底で踏みつける。
「――アレか? 星が見えねえと方向がわかんなくなるっつーの?」
 前に北極星とか話してくれたよな、と悟浄がつぶやく。
 以前、そういえばそんな話を悟浄としたこともあったかと感慨深く思い返しつつ、八戒はゆったりと口の端をあげた。
「どちらかと言うと……亡くなったひとは天に還り、星になるそうですよ。だからかな、こうして星ひとつ見えない夜は、この真っ暗闇にひとりだけ取り残された気分になる、」
 そう言い切って、八戒はゆっくりと立ち上がった。軽く尻をはたきながら、ゆるゆると息を吐き出す。
「――なんてね。ただの感傷です」
「……ったく、くっだんねえな。あいかわらず」
 悟浄と並び立ったところで、くぐもった低い声が聞こえてきた。怒っているようにも呆れているようにもとれるその声音に、八戒は苦笑うしかできない。ロクでもないことを口にした自覚は十分にあった。
 だから、あえてそのことには触れず、曖昧に誤魔化そうとした八戒は左足を一歩前に踏み出す。
「そろそろジープに戻りましょうか? 貴方も寝て、」
「――星なんざ見えなくてもいいし。だって生きてンじゃん」
 八戒の言葉尻を強引に奪うように、悟浄が口を開いた。
「悟浄?」
 お前生きてるだろ、と、悟浄が隣に立つ八戒へと言い聞かせるようにくり返し口にする。
「……悟浄」
 そこでようやく悟浄の真意に気づき、八戒は知らず瞠目した。ゆっくりと、すぐ左横にいる彼へと顔を向ける。
 天上の煌きに、亡き彼女(ひと)をなぞらえていたことなど、悟浄にはお見通しで。
 そして、その煌きの先に、八戒が“何を見ていたのか”さえも彼には気づかれていて。
 こうして今もなお過去をひきずる八戒に、現実を――そして前を向かせようとする彼の想いが如実に垣間見える言葉に、どう返事をしたらよいかも思いつかなくて。
 八戒はそろりと左腕をあげた。その手を、そっと、悟浄の剥き出しの右腕へと伸ばす。まるで、言葉にならない思いを伝えるかのように。
「八戒?」
 掌から彼の体温が伝わってくる、そのことにひどく安堵を覚えながら、八戒はかすかに微笑んだ。
 まったく――悟浄というひとは。
 どこまで強引で、どこまで容赦ないのか。そして、どこまで八戒を甘やかしてくれるのか。
 何より、そんな彼がたまらなく愛おしいと、心の底から思う。だから――
「悟浄」
「ナンだよ」
「僕は幸せ者ですね」
「……はい?」
 唐突に脈絡のないことをつぶやいた八戒をいぶかしく思っているのだろう。悟浄がわかりやすく困っている様子さえも愛おしくて、八戒はさらに笑みを深めた。ほんの少し首を傾げ、眼前の彼のそれへとおのれの唇をあわせる。だが、その口づけは軽く触れるだけですぐに離し、同時に右腕に添えていた手も離した。
「……八戒」
 突然の八戒からのキスに、悟浄は茫然としたまま見つめ返してきた。だが、すぐに自分を取り戻したらしい悟浄が、今度は八戒の左腕を掴む。
「アレだけじゃ、全然足んねぇんだけど」
「僕もですよ」
「じゃあ、」
 と言うや否や、八戒をおのれの懐へと引き寄せようとした不埒な男の腕を、八戒は無理やり押しとどめた。
「でもここではダメです。……続きは明日、宿に着いたらゆっくりと、ね?」
 にっこり笑顔でその先の触れ合いに駄目出しを告げれば、悟浄が不本意そうに顔をしかめる。けれども、こういう状況で八戒が絶対に妥協しない事を嫌でも知っている彼は、しぶしぶといった風情で嘆息した。
「……明日は覚悟しとけよ?」
「ほどほどでお願いしますよ。……いい加減にそろそろ戻りましょう」
 名残惜しそうにつぶやく悟浄を軽くいなして、八戒は今度こそ仲間の待つジープへと戻るべく、その場から離れようとした。途端、悟浄の右手が、八戒の左手首を引き止めるように掴む。八戒はその腕に引かれるまま、後ろを振り返った。
「悟浄――」
「星見えねぇし暗いからさ、――手ぇ繋ご?」
 そう言って、まるで誘うように唇端を軽くあげた悟浄を、八戒は思わず凝視した。そして、ふいにその意味に気づき、――ゆったりと口許を柔らかくほころばせた。


 『星は見えない。』
 見えなくてもいい――それはつまり、悟浄の願い。
 この世を去った者が待つその場所へと、まだ八戒がたどり着くな、という彼の心からの願い。
 その想いが痛いほど八戒にも伝わってきたから。


「……はい」
 眼前の彼が満足げに笑うのを目の端でとらえ、八戒はその手に引かれるままに並んで歩き始める。
 唇に、安堵の笑みを刻んで。








 例え、星は見えなくとも。
 この存在が傍らにある限り。
「……平気ですから」
 悟浄には届かないほどの小さな小さなささやきは、夜の静けさの中にそっと消えていった。







FIN

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