侵食




 その存在は悟浄の内側から少しずつ侵食していく。
 そうして、気づいたときにはもはや手遅れなのだ。
 その存在に侵されたと自覚したが最後、後戻りはできないのだ――と。




 一瞬にして脳内を泥のような漆黒の何かで塗りつぶされたような衝撃を覚え、悟浄は弾かれたように上体を起こした。心臓が激しく脈打ち、呼吸も荒い。そんなおのれの胸元を知らず左手で押さえながら、悟浄は大きく息を吐き出して目線を落とす。
 視界にうつるのはベッドの掛け布団――ということは今まで自室で寝ていたということで。つまり、自分は悪夢か何かを見ていたと、そういうことなのか。
 夢と言い切るにはさっぱり内容を覚えてはいない。覚えているのは覚醒する瞬間の、まるで黒闇に全身を侵食されたような不快感と恐怖感、それも気づいたときには追いつめられた悟浄のすべてを覆い尽くしたような錯覚さえ感じた。それも鮮明に。
 悟浄は、顔にかかる長い紅髪をがしがしと右手で掻きあげた。まったくなんて夢を見ているのか。普段夢自体を見ない悟浄にしてみれば悪夢以外のなにものでもなかった。だからこそ、気にはなる。どうしていま、こんな夢を見る羽目になっているのか、と。
 だが、夢の意味を考えたところで詮無きことだ。そもそも悟浄に夢分析をする才能などもとより存在しない。
 それよりもいい加減にベッドから降りようと、悟浄はすっきりしない頭をひと振りした。そろそろ居間に顔を出さないと、同居人の使者――つまりは白竜である――が容赦なく悟浄を叩き起こしに来るだろうから。


「おや悟浄、おはようございます。今日は早かったですね……ちょうどよかったです」
 悪夢の余韻冷めやらぬまま起床した悟浄は、いつも通り自室を出てからまっすぐに洗面所へ向かい簡単な身づくろいをして、あくびをしながら居間へと足を向けた。そこには、常とは違いあきらかに外出支度をしている同居人――八戒が立っていた。
 そして、八戒が口にした、何が『ちょうどよかった』のかがさっぱり見当がつかなくて、悟浄は思わず立ち止まった。
「ちょうどよかったって……どっか出かけんの?」
 すでにフード付きの上着を羽織っている八戒をまじまじと見ながら問う。八戒は身支度の手を止めぬまま、悟浄へといらえを返す。
「はい、これから慶雲院へ行ってきます。だから、行く前に貴方と顔をあわすことができてよかった、と」
「また生臭坊主の呼び出しかナンかかよ」
「いえ、義眼の調子がよくなくて。どうにも支障が出てきたので、三蔵のところで急ぎ検査してもらってきます」
 そう言われて、悟浄は目線を八戒の右眼へとうつした。ぱっと見ただけでは義眼とはわからないであろう精巧なつくりのそれ。八戒本来の翠瞳を見事に再現したのは、おそらく三蔵御用聞きの腕の立つ技師なのだろう。
 猪八戒と名を変え、自らえぐり出した右の眼窩へ義眼をはめてからそろそろ一年がたとうとしている。装着して日が浅いならともかく、いまさら義眼の不具合など出るものなのだろうか?
 その疑問は、悟浄の顔に如実にあらわれていたらしい。八戒は軽く目を瞠ると、ふいに口許をゆるめた。まるで自嘲するかのようなうすい笑みをうかべて。
「実はずっと違和感しかなかったんです。それでもよかったのでほうっておいたんですけど、さすがに三蔵から回される仕事をするようになったら支障が出るなあと思ったので」
「――は? それって、目をはめた最初っからおかしかったってコトなのか?」
 いきなりとんでもないことを言い出した同居人に向かい、悟浄は深々と眉宇をしかめた。一年近くも、違和感を覚えたまま体内に埋め込んでいたなど――
「お前……ドMかよ……」
 自虐にもほどがある、と思わず嘆息する。
「あははは、そうなんですかねえ。だって考えてみてくださいよ。体内に常に異物が挿入されてるんですよ? ――犯されているみたいじゃないですか」
「――」
 今度こそ悟浄は絶句した。もはやあきれるしかなかった。まったく、いつもながらロクでもないことしか言わない男を、ただ凝視するしかできなかった。
「……お前、犯されたかったのか……?」
 ようよう、悟浄は口を開いた。かく言う自分もロクでもないことしか口にできなかった。低く、喉奥からしぼり出すような声音しか出てこない。
 悟浄の問いかけに、八戒は苦笑を深めつつ、そっと視線をそらした。まるで、そこにはない何かを見つめるように、遠方を見やる。
「そこまで狂ってはないつもりですけど。……そうですね、その違和感こそが僕にとっての現実に思えていたからかなあと」
 やっぱり自虐じゃねえか、と悟浄は胸中で悪態をついた。半年前の鷭里の件を経て少しは落ち着いたのかと思っていたが、そんなことはまったくなかった。いまだに出会った当初と同じ、いろいろな意味で危ういままだ。
 だが、彼のそんな危うさから目をそらせない自覚は、いやでもあった。むしろ彼――八戒と過ごす日を重ねるごとに深入りしているのはあきらかだった。そう、まるで悟浄の内側を徐々に侵食していくかのように。
 そこで悟浄は、大きく紅瞳を見開いた。気づきたくはない――否、気づいてはならないことにとうとう気づいてしまった、そんな心持だった。知らず全身に鳥肌が立つ心地さえする。
「ああ、でも……侵されたかった、のほうが正しいかもしれません」
 にっこり、と。一見、ほがらかにさえ見える柔和な微笑をうかべながら、違和感を覚えるというその翠眼はまったくわらってはいなかった。むしろ見る者が寒々しささえ覚える、それ。
 彼の本質ともいうべき笑みを目の当たりにして、悟浄は胸の内に重くこごる想いごと息を吐き出した。そうだ、先ほどの悪夢は予知夢だったのだ――悟浄も、そして八戒も、お互いが抱える薄暗い感情ごと侵食しあって後戻りができないのだと。そう、どうしようもないほどに。
 ふいに、悟浄は嗤った。くつくつと、いやな類の嗤いが喉をついて出る。侵されたいのはそう――自分も同じなのだ。この、悟浄の目の前にいる、どうしようもできない危うさを抱えた男に。
 いきなり嗤いだした悟浄を、八戒は胡乱げに見やった。そのいぶかしげな視線を感じて、悟浄はそろりと面をあげる。
「イヤ……お前らしいな、と」
「悟浄?」
 ――気づいたからには、もう後戻りする気はねえし。
 悟浄は胸裏でそうつぶやくと、眼前の青年を侵食し尽くすべく、自らの意思でもって八戒へと双腕をのばした。
 自覚した想いごと、わからせるために。








FIN

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