この雪に願えるならば




 いつもの店でその日予定分の買い物を一通りすませた八戒は、紙袋いっぱいの荷物を右腕に抱えたまま、なじみの店主と軽く挨拶をかわして、古い造りの引き戸をゆっくりと開けた。
 途端、身に突き刺さるような冷気を全身に受けて、思わずぶるりと体を震わせた。そして、その寒さが店内に入り込まないようにすばやく引き戸を閉める。扉を背に八戒は前方を向くと、思わず息を吐いた。その息は寒さのせいかすぐに真っ白になり、かえって八戒に厳しい寒さを実感させる。
 かつて猪悟能と名乗っていた頃に生活していた土地は、ここよりももっと南に位置していたせいか、冬の寒さはさほど厳しくなかったように思う。だから、猪八戒と名を変えてからこの地で迎える初めての冬は、覚悟はしていたものの、想像以上に寒い。
 あまり寒さというものに免疫のない八戒は、思ったよりもずっと早い冬の訪れにまだ慣れないでいた。この地でそれなりの年月を過ごしている悟浄にとって、この程度の寒さは寒いうちに入らないらしく、いたって飄々としたものである。だから、始めのうちは八戒が寒さが苦手であることになかなか気がつかなかった。どうも様子がおかしいとは思っていたようだが、その理由までは判らなかったらしい。
 不意に、その時のやりとりを思い出して、八戒はふんわりと微笑んだ。通りを歩きながら、空いている方の左手を口元にもっていき、冷たくなった指先を暖めるようにそっと息を吹きかける。
(そういえば、新しくストーブを買う買わないで一悶着ありましたよねぇ……)
 八戒と同居を始めるまで、殆ど家に長居することがなかった悟浄は、冬でもあまり暖房器具を使うことがなかった。だから、特に台所の寒さがこたえるからと八戒が言った時、悟浄が物置の奥からほこりまみれのストーブを出してきたまではよかったのだが、ろくに手入れもせずにほおりこんだまま放置されていたらしいそれは、はっきり言って使い物にならなかった。多分修理をすればどうにかなりますよ、と苦笑まじりに告げた八戒に、悟浄は今すぐ新しいものを買うと言い張った。だが、使えるのなら何もわざわざ新しいものを買わなくてもと八戒が言ったものだから、後はとにかく「買う」「買わなくてもいい」と両者とも一歩も引かないでしばらく言い合いを続けた結果、最終的に八戒のほうが折れた。悟浄が自分のことを思って、新しいものを買うと言ってくれているのが、痛いほど伝わってきたからだ。
 確かに、その時八戒は、寒さを我慢するのもそろそろ限界に近いかもと思っていた。だから、本当に直るかどうか判らないストーブを修理するよりは、お金はかかるものの新しくストーブを買ったほうがすぐに暖がとれることを悟浄はちゃんと判っていて、それで言ってくれたのだ。ただ、そのために予定外の買い物を悟浄にさせるのが、八戒としては心苦しかった。悟浄にとって今すぐに必要なものではなかったから、余計に。
 悟浄とともにこの地で生活を始めて、もうすぐ半年近く経とうとしている。それまでいろいろと引き摺ることも多くて、彼の家に篭りきりだった八戒も、ようやくここでの生活に慣れてきてそろそろ職探しをしようかと思い始めたところだった。いつまでも悟浄の稼ぎだけに甘えていたくはなかった。そう思っていた矢先のストーブ騒動だったから、つい八戒もいつも以上にむきになってしまい、悟浄にものすごく呆れられてしまったことまで思い出して、八戒は決まり悪げに視線を宙に泳がせた。
「――あ、」
 八戒の視界に、空から白い花びらのようなものがひらひらと舞い降りてくる様が映し出される。八戒はそのままの姿勢でその場に立ち止まると、思わず息をつめて、その白い花が自分の手元まで届く様子をじっと見ていた。そして、手のひらの上でふわりと溶けたのを見届けから、八戒はようやくそれが雪であることを認識した。
「……初雪、ですね……」
 この地で初めて目にする雪。それは、日中でそれなりに人通りがある場所であるにもかかわらず、その空間から音を消し去ってしまったかのような不思議な静けさを漂わせながら、ゆっくりとゆっくりとまるで羽根のようにふわふわと舞い落ちてきた。
 八戒は、空を見上げたまま、その奥から溶け出すように雪が降りてくる様をただ見ていた。
 ――この雪を視界に捉えた途端、目が離せなくなってしまったのだ。そう、この天上からはらはらと舞い散る雪はまるで――。
(……花喃)
 そう、まるで花喃の亡骸のよう――。
 不意に八戒の脳裏に浮かび上がる愛しいかの人の面影。どうしてこの雪を見て花喃だと思ったのか、八戒自身よく判らなかった。むしろ、雪のように凍てついていた悟能の心を春の日差しのような暖かさで溶かしてくれたひと、なのに。
 それでも、音もなくしんしんと降りゆくこの雪花は本当に花喃のようだと、八戒はその場に立ち尽くしたまま自分の元に降りてくる雪をゆっくりと目で追い続ける。
 この雪は、儚くも散った花喃の想いそのもののような気がした。花喃の想いの亡骸が、この世に一人残された八戒の上に、まるで何かを語りかけるかのように舞い落ちてくる。
 花喃さえいれば、何もいらなかったのに。
 例えどんなカタチでさえ、生きていてさえくれたら何だって出来たのに。
 今でも、あの時花喃を取り戻すために多くの命を奪ってしまった事に罪悪感を覚えることはあっても、後悔をしたことなど一度もない。
 それで花喃を取り戻すことが出来たなら、八戒は全然かまわなかったのだ。後でどんなに酷い罰を受けることになろうとも、花喃さえいてくれたら。
 けれど、そうまでしてこの手に取り戻したかった花喃の骸さえなく、今はこうして雪となって、ただ静かに八戒の元へと降り積もるのみ。
「……花喃」
 いくらこの腕に擁こうにも、雪はすぐに八戒の腕の中を擦り抜けてしまう。それはまるで、悟能の目の前で泣き笑いの表情を刻んで自らの命を絶った花喃そのものだった。
「花喃」
 八戒の呟きは、左の手のひらの上に落ちては溶ける雪とともに、儚くも吸い込まれていく。この声も、もう花喃には永遠に届かない。八戒は自嘲気味に口元を歪めると、ゆっくりと瞳を閉じた。
 ――このまま、この雪とともに埋もれてしまえたら、もう一度この手に抱くことが出来るのだろうか。
(ねぇ、花喃?)
 どうも思考がおかしな方向に向かいつつあることが判ってはいたが、八戒はあえて止めようとは思わなかった。このまま甘美なまでに、残酷な、それでいて幸せな夢を見続けるのも一興かもしれないとさえ思う。花喃の亡骸に擁かれたまま見る、幸せな夢の続きを――。
 そして、八戒はゆったりと笑みを零した。
 このまま雪とともに消え入りそうな、危うい表情を浮かべて。




「八戒っ!!」
 五感のすべてを意識的に閉ざして雪に身をゆだねていた八戒を現実に引き戻したのは、聞き慣れた同居人の強く自分を呼ぶ声だった。
 白く霞んだ世界に浮かび上がる、鮮烈な紅。
 その紅を視界に捉え、八戒は思わず我に返った。
(――どうして)
 どうして、彼が。時間的にも悟浄がこんな場所に現れることがどうにも信じられなくて、八戒はひどく驚いた露骨な視線を彼に向けた。
 その八戒のあからさまな様子に、悟浄はムッと顔をしかめる。
「何だよ、そのユーレイでも見るような顔は。シツレーな奴だな」
「……すみません。どう考えても普段ならまだ寝てる時間でしょう、貴方。だからつい」
 普段の悟浄なら、昼過ぎになってようやく起き出してくる。そのことを見越して、八戒は午前中に一人で買い物に出掛けることが多かった。だから、今日も昼前には帰宅出来る段取りで買い物をしていたのだが、途中で初雪と遭遇してしまい、現在に至るわけで――。
 それとも、自分は思った以上にこの場所で立ち尽くしたまま、無為に時間を過ごしてしまったのかもしれない。自分がどれだけ意識をとばしていたかいまいち判らない八戒は、そっと悟浄の表情を窺いながら、苦笑してみせた。悟浄は口を尖らせつつ、肩まで伸びた深紅の前髪をくしゃりとかきあげる。
「いつもよりかなり早い時間に、ジープに叩き起こされたんだよ。あんまりしつこいからなんだー? とか思ってたらだな、外すげー雪降ってんじゃん。お前、傘も持たずに出掛けてたしさあ、さすがに傘だけは持っていってやろうかと」
 なのに街中はたいしたことないじゃんと、悟浄は面白くなさげに肩をすくめた。
「うちの方はそんなにすごかったんですか、雪」
「もー吹雪ってヤツ? ま、うちはちょっと高い位置にあるから仕方ねぇよなー。だから、こっちまで来たら全然だったから思いっきり肩透かしくらった気分」
 と、ここで一旦言葉を区切って、悟浄は目を細めてちらりと八戒を窺うように見つめてきた。その、何かを探るような紅眸に心の中まで見透かされそうな気がして、八戒は息を詰めて相手を見返す。
「……も、買い物終わり?」
「え、ええ。まあ」
 てっきり、先程ただ呆然と立ち尽くしていた様子を悟浄に見られていて、そのことで何か言われるのかもと身構えていた八戒は、悟浄の予想外の問いかけに一瞬返事が遅れた。悟浄は片眉を器用に上げてニッと口元に笑みを刷くと、ひょいと八戒の右腕から荷物を取り上げる。
「あ」
「帰りは俺が持つって。俺、腹へったから、帰って何かオイシイもん作ってよ」
 そして、手持ち無沙汰になった八戒に二人分の傘を押し付け、悟浄はにしゃりと笑った。とりあえず今は使う必要がない傘を受け取り、八戒は苦笑気味に小さく微笑む。
「判りました。せっかくここまでご足労いただいたことですし」
 早起きご苦労様です、と八戒がわざとらしく頭を下げると、悟浄は胡乱げな目つきで八戒を軽くにらむ。そして小さく舌打ちして、胸のポケットから煙草を取り出し口にくわえた。
「ったく、気持ちよく寝てたとこをジープのヤツ、羽で俺サマの顔面にばっさばっさ叩きつけるんだぜぇ? いい加減にしろっつーの」
 くわえ煙草のままジープに文句を言いつつも、悟浄は空いている方の手でごそごそと懐やらポケットやらを探り、何かを探しているようだった。ちょっと焦りのみえるそのしぐさに、八戒は珍しいものを見るような目つきで悟浄を見遣る。
「ライター、ですか?」
 確信をもった八戒の問いかけに、悟浄はばつの悪い何とも表現しがたい表情を浮かべて、ふいと八戒から目を逸らした。
 心なしか照れているように見えるのは、八戒の気のせいだろうか。
「……急いで飛び出して来たから、忘れちまったんだよ」
 八戒と目を合わせないまま、ぶっきらぼうな口調で言い切る悟浄に、八戒は一瞬虚をつかれて呆然と悟浄のその横顔を凝視した。
 きっと、悟浄は起きぬけに激しく降る雪を見て、買い物に出たままの八戒を心配して、とるものもとりあえず家を飛び出して来てくれたのだろう。その心配が単純に雪がものすごかったからなのか、それとも雨が苦手な八戒が雪も苦手であるかもしれないと思ってのことなのか、その真意は判りかねた。ただ、どういった理由であれ、悟浄が八戒のことを気にかけてくれて、その上でこんな時間にわざわざ出向いてくれたと、それくらいは自惚れてもいいと思う。
 悟浄のこうしたさりげない優しさに、八戒はいつも救われていると思う。それに甘えきってしまってはいけないと思いつつも、さしのべられた腕につい縋ってしまう、弱くて愚かな自分。彼の優しさはこんな自分に向けられるのはもったいないと思うのに、それでもこの心地よさを振り払えない。
 彼の心遣いが温かくて、苦しくて、そして――胸が痛い。
 八戒は、不意に胸中にわきあがった複雑な想いを悟られないように、はんなりと微笑んだ。
「なら、余計に急がなくてはね。どのみち、これだけ雪が降っていてはしけって吸えませんよ、それ」
「そーだな。帰るぞ、八戒」
「はい」
 結局、火が点けられなかった煙草をくしゃりとジャケットのポケットに押し込んで、悟浄のほうが先に歩き出す。視界を掠める深紅の髪をゆっくりと目で追いつつ、八戒も彼の後に続いて歩き始めた。
 ――いつも八戒をこの世に繋ぎ止めてくれる、この紅。
 そして、今日もまたこの紅に、――悟浄に救われた。あのまま狂気の淵に沈んでしまいそうだった自分を救い上げてくれた深紅を、八戒は眩しそうに目を細めて見つめ続ける。
 八戒のなかで悟浄という存在が少しずつ特別な意味合いを持ち始めていることを、八戒は自覚していた。その感情が行き着く先が何であるか、おぼろげながらも判ってはいる。あんな形でしか花喃を愛せなかった自分が、こうしてまた特別な感情を持つようになるなんて、何て自分は愚かなんだろうと嘲うしかなかった。
 それでも。
 例え自分のこの想いが、もしかしたらまた同じ結果を生み出すことになったとしても、それでも悟浄へと向かう気持ちが止められないことに、八戒は気づいてしまった。それが、八戒のエゴでしかないとしても。
 こうして、事あるごとに改めてそのことに気づかされる。
 ――そして、今日も。
「ナニ?」
 無言のまま何か思う風な八戒の視線に気づいてか、悟浄がいぶかしげに斜め横をついて歩く八戒を見遣る。それへ、八戒は心中の想いを誤魔化すように曖昧な笑みを浮かべた。
「何でもありませんよ。ただ、今日はさすがに寒いなあと、そう思っていただけです」
「なんなら俺が暖めてやろーかあ?」
「……肌と肌を合わせて、なんて言ったらブッ飛ばしますよ、悟浄」
「――冗談でーす……」
 ったく容赦ねぇの、と降参とばかりに宙を見上げて呟く悟浄に、八戒はくすくすと肩を震わせて笑った。こんな些細なやりとりが嬉しい。
 こうして、少しでも長く、悟浄とともに在れたら。そう、心から願いながら、八戒は悟浄と並んで家路につく。
 その後に、二人分の足跡を残しながら。




 この先のことなんて、全く判らない。ただ、今、自覚し始めたこの想いを大事に胸に抱えて、八戒は自分と悟浄の上に舞い散る雪をそっと目で追った。そして、その雪に向かい、許しを請うように胸中で呟く。



 もしも、この雪に願えるならば。

 ――今度こそ間違えないように、と。







FIN

ふたりができあがるまでのこの続きは2005年6月のオンリーでオフ本として発行済。やどかりさんの表紙が目印☆

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