晴れすぎた空




 それまでジープの車体前面にもたれて、地図を広げながらこれからの道中を確認していた八戒は、ふと視界をきらりとかすめたものを見るために、ゆっくりと空を見上げた。
 鳶らしき鳥が上空のかなり高い位置で旋回しながら飛んでいる。どうやら、その翼が太陽の光に反射したらしい。八戒はちらりとその鳥を見てから、もっと首を反らして天上を見ようとした。
 空が、――高い。
 雲ひとつない、ぬけるような青空とは、このことを指すのであろう。それくらい今はきれいに晴れ渡っていた。深い森をぬけたばかりのところに広がっていた草原にジープを停め、昼食兼休憩をとっているところだったから、今は空をさえぎるものもない。八戒の視界いっぱいに、吸い込まれそうなほどの青が広がる。
 不意に八戒はまぶしそうに目を細めて、太陽の光をさえぎるように腕を顔前にかざした。それでもやはり青空は容赦なく八戒の視界にとびこんでくる。八戒は苦笑ぎみに口元をゆるめた。
 こんな青空を見て感傷的な気分になっている自分自身に対して、八戒は誰にともなくため息を洩らした。そして、背中からすとんとジープに体重をかけてより深くもたれかかる。
「ナニやってんの、八戒」
 急に横からかけられた声に、八戒はひどく驚いて、自分の隣にやって来た男にむかい目を瞠った。しかし、すぐにふわりと、いつもの笑みを浮かべる。
「何って、……地図を確認していただけですよ」
 先ほど胸をよぎった感傷を押し隠すように、八戒はことさら笑顔を貼り付かせて答えた。とはいえ、声をかけられる直後の八戒の表情はしっかり見られていただろうから、他人の感情の機微に敏い悟浄がどこまでごまかされてくれるのか、正直自信がなかった。
 だが、悟浄はちらりと八戒を見やっただけで、そのすぐ横に並び、八戒と同じようにジープにもたれかかった。まっすぐに前を向いたまま、懐から煙草を取り出し口にくわえる。
「ふぅん。その割にヘンな顔してたからさ」
「ヘンな顔って失礼ですねぇ。どういう意味ですか、それ」
 どうやらさっきの八戒の様子に気づいていて流してくれる気はないらしい悟浄に、八戒は内心で嘆息した。悟浄は前を見据えたまま、くわえた煙草を口で器用に上下に動かしてみせる。
「んー? ……ここんとこ吹っ切った顔してたのに、ちょっと前までよくしてた、なんともいえねぇまーたいろいろ考えてんだろーって面してたからさ。お前があんまこーゆー時に立ち入られんの好きじゃねーのは判ってんだけど」
 悟浄はライターで煙草に火を点すと、いったん言葉をくぎって深く紫煙を吐き出した。その煙が立ちのぼる様を目で追いつつ、八戒はふ、と肩で一息ついた。
「お見通しなんですねぇ」
 かないません、と八戒が小さくつぶやくと、悟浄はにっと片側の口の端を上げてみせた。
「そりゃお前のことしか見てねーもん。……で? ナンかあった?」
「晴れた空って、目にまぶしいと思いませんか?」
「――ナニ?」
 八戒の脈絡のない台詞に、悟浄はいぶかしげな視線を向けてきた。悟浄の困惑が手に取るように伝わってきて、八戒はくすりと笑みを零す。そして、まっすぐに前方を見据えた。
「こんなに雲ひとつない青空をしっかり見上げたこと、なかったんですよねえ僕。だから、こんなにまぶしいものだとは思いませんでした」
 そう、いつも、八戒はただ過去を引き摺りながら今を生きることに精一杯で、――どんよりとした暗雲を雨のなか見上げたことはあっても、晴天を見上げる余裕などまったくなかった。こんなにもまぶしい世界に目を向ける余裕など、どこにも。
 けれど、今なら判る。
 それは余裕がなかったわけではなく、ただ自分は重すぎる事実と向き合うことがこわかっただけだ。吹っ切るだけの勇気がないから、ずっとうつむいたまま忘れたふりをしていた。そんな八戒をつつみ込んでくれる悟浄のやさしさにつけこむようなカタチで。
 だから、あの亡霊に否応なく自分が逃げ続けていた事をつきつけられたとき、あんなにも取り乱してしまったのだ。
 でも、悟空や、三蔵や、――悟浄がいてくれたから。彼らの存在が八戒に強さをくれた。自分の足でちゃんと立って生きていく、強さを。
 さらに、悟浄の想いが八戒にもっと大きな強さをくれた。こうして前を向いて歩いていける強さを。そして、過去と向き合い、吹っ切ることができる強さを。
 清一色との一件以来、八戒なりに吹っ切れたつもりだったが、それでも完全にというわけではなかったらしい。だから、こんなふうに空を見上げてらしくもなく物思いにふけってしまい、――でも、あまりの空のまぶしさに唐突に八戒は悟った。
 本当は判っていたけれど、認めたくなかったこと。ずっと考えないように忘れたふりをしていたけれど、やっと心中の霧が晴れたように、突然八戒のなかではっきりとカタチになった。それに思わず息を呑んだところへ先刻悟浄がやって来た、というわけだ。
 そして、八戒はその事を告げるために、言葉を続ける。
「それで、この青空を見てやっと、――もう花喃はいないんだと実感できたんですよ」
「――」
 悟浄は一瞬目を見開いて八戒を見たが、無言のまますぐにまた前を向いた。何も言わない悟浄に苦笑しつつ、八戒は目を細めながら再度空を見上げた。
「今まではつらいからとにかく忘れようとしていたんですけど、やっと忘れなくてもいいんだと、そう思えるようになりました」
 すべてはあのつらい過去があったからこそ、悟浄と出会い、今の自分があると、今なら判るから。
 八戒は口元にあわい笑みを浮かべつつ、花喃の姿を脳裏に描いた。そして、もう少しだけ、と胸中でつぶやく。もう少しだけ、自分のために、――生きたいから。
 ちゃんと、自分の足で立って、自分の意志で。悟浄のことが好きだからこそ。
「つえーな、お前」
 それまで黙って煙草をふかしていた悟浄が、ぼそりとつぶやいた。それへ、八戒は思わず彼を見つめる。その言葉に、羨望の響きが含まれていたように感じたのは、八戒の気のせいだろうか。
 しかし、悟浄の横顔からはその感情の真意は読み取れなくて、八戒は仕方がないと肩をすくめつつ前方へと向き直った。そして、苦笑まじりに微笑む。
「僕の強さは貴方がくれたんですよ、悟浄」
「――え?」
 悟浄がはじかれたように八戒へと視線を向けてきた。驚いた表情の悟浄にむかい、八戒はさらに笑みを深めて、彼を見つめ返す。
「もちろん、三蔵や悟空からもいただきましたけどね。でも、僕に一番大事な強さをくれたのは、貴方でした。今、僕がここにちゃんと自分の力で立っていられるのは、貴方のおかげなんです」
「……もし、それが俺がやったモンだったとしても、結局のトコ、お前にそれを受け入れるだけの強さがなけりゃいっしょじゃねーか。だから、やっぱお前、つえーよ」
 神妙な面持ちでそう切り返す悟浄に、一瞬八戒は虚をつかれた表情で彼を凝視した。
 まったく、――彼のこういうところが、とても胸にこたえる。
 けれど、悟浄が言うところの「受け入れる強さ」も、結局は今までの3年間の積み重ねからくるものだと八戒は思う。3年かけて、少しずつ悟浄からもらったものだと。それでも、悟浄は違うと言いそうだが。
 しかし、八戒はあえてその思いは口にせず、ふと口元をゆるめて一息ついた。あらためてしっかりと悟浄を見つめる。その八戒の露骨な視線に、悟浄もいぶかしげに眉宇を寄せた。そんな悟浄をいとおしげに見つめたまま、八戒はふわりと微笑んだ。
「悟浄、――僕、貴方がとても好きです」
「……八戒?」
「僕、今までちゃんと口にしたこと、ありませんでしたよね。……好き、と言ったことはありましたけど、その言葉を解って言っていたかというと、今思うと違うかなあと。だから、こうしてちゃんと貴方に言いたかったんです。僕の気持ちを」
 悟浄の息を呑む気配が伝わってくる。それへ、八戒は応えるように笑みを深めた。悟浄はなんと言葉を返していいものか考えあぐねているのか、口を開きかけては閉じるを繰り返し、そんな悟浄を困ったように見つめ続ける八戒の視界に、彼の肩越しに広がる青空がとび込んできた。
 ――空が、青い。
 もう、花喃はいない。
 今でも、彼女のことは愛しているし、忘れるつもりもない。
 そして、今、八戒の目の前にいるのは悟浄で、――自分はこんなにも彼のことが好きだ。八戒の突然の告白に、らしくもなくうろたえている彼が、こんなにもいとおしい。
 悟浄とともに、――生きたい。
 不意に八戒の視界がにじんで、霞がかかったようにぶれた。胸の奥から込み上げてくる感情に、思わず息をつめる。その表情を隠すようにあわててうつむくと、八戒はこらえ切れない想いを押し殺すようにつぶやいた。
「……悟浄、お願いがあるんですけど」
「ナニ?」
「少しだけでいいんで、肩、貸してくれませんか」
 八戒の様子が突然変わったのを心配してか、悟浄が八戒の顔を覗き込むように近づけてきた。だが、覗き込みかけてそれ以上は立ち入れないと思ったのか、ゆっくりと悟浄は体を起こした。そして、わざとらしく明るい声音で返事をする。こういうところはつくづく聡いひとだと、八戒は思わずにはいられなかった。
「少しだけなんて言わないで、もーいくらでも」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
 悟浄の了解を得たところで、八戒はゆっくりと悟浄の右肩にこつんと自分の額を乗せた。完全に顔を見られないように伏せてから、八戒はようやくつめていた息を吐き出した。途端、今までこらえていたものがあふれ出す。
 空が、まぶしすぎて、目にしみる――。
 そう、誰にともなく心中で言い訳をしつつ、八戒は洩れそうになる嗚咽を必死でこらえた。そんな八戒を黙って受け入れてくれる悟浄に、八戒はさらに込み上げてくる気持ちをこらえなければならなかった。
 八戒はなんとか押し殺そうと、ぎゅっときつく目を閉じて、そっと悟浄の上着の裾を握り締めた。こうして、八戒が落ち着くまで、悟浄はただ黙って肩を貸してくれた。
 ただ、傍にいてくれた。




 しばらく二人で、そのままの姿勢ですごしていたが、不意に八戒は悟浄の肩から頭を起こした。少しだけ目元を赤く腫らしてにこりと笑う。
「ありがとうございました、悟浄」
「……も、いいのか」
「はい」
 八戒は今度こそ吹っ切った表情で晴れやかに笑った。悟浄もまたいつもの調子でにやりと口の端を上げて、ぽんと八戒の肩を叩く。
「うちに帰ったら、いっしょにねーちゃんの墓参りにでも行くか」
「……花喃の、ですか?」
 突然の悟浄の提案に、八戒は驚いて目を瞠った。悟浄はにっと笑いながら、ジープから離れて八戒の正面に立つ。
「そ。だって、ご挨拶してーじゃん。ほら、俺たちもう他人じゃないんだし? そうなるとご家族への挨拶って、これ基本っしょ?」
「……悟浄、」
 冗談めかして言いつつも、悟浄の口調はやさしい。何もかも判っているふうな彼の言葉に、八戒はまた胸の奥に押し寄せてくる想いをこらえるために、悟浄に気づかれないようにぎゅっと右手を握り締めた。そして、深呼吸をしてから、それをごまかすようにふわりと微笑んだ。
「そうですね。まずは、この旅を終わらせてからの話ですけど」
「そーだな。……八戒、」
「え?」
 急に正面から自分を抱き込んだ悟浄に、八戒は困惑ぎみに目を見開いた。そんな八戒の様子などおかまいなく、悟浄は神妙な声音で八戒の耳元にささやいた。
「俺も、だから」
「――」
 それは、先ほどの八戒の言葉に対する返事なのか。そう、八戒が聞き返そうとした、その時。
 スパ――――――ン!
「いってー!! ナニしやがる!」
 頭をはたく小気味よい音と、悟浄の絶叫が同時に八戒の目の前で響いて、八戒は反射的に悟浄から身を離した。見れば、自分の足元で頭を抱えて蹲る悟浄と、どこから取り出したのか、特大ハリセンを抱えて不機嫌さをあらわにした三蔵が睨みあっている。
「俺の前でいちゃつくなと何度言ったら判るんだテメェは!」
「うるせーよ! テメェにんなこと指図される筋合いはねぇよ!」
「死ね、エロ河童!!」
「あーのー」
 さすがに見かねた八戒が二人の間に割って入る。そして、三蔵に向かいにこりと笑みを刷いた。そのわざとらしい微笑みに、三蔵の柳眉が嫌そうにぴくりと上がる。
「なんだ」
「もうそろそろ出発しませんか? でないと、今日中に次の街に着くのが難しくなると思うので」
「……俺もそう言いに来たんだよ。行くぞ、八戒」
「はい」
 三蔵はちらりと悟浄を一瞥して、さっさとジープに乗り込んだ。それを目で追いつつ、八戒は痛そうに頭をさすり続ける悟浄にくすくすと零れるような笑顔を向けた。
「大丈夫ですか、頭」
「これくらいどってことねぇよ。ったく、あのクソ坊主が」
 俺たちの邪魔しやがって、とぶつぶつ文句を洩らす悟浄に、八戒は心底うれしげに笑った。
 八戒の予想が正しければ、多分先ほどの悟浄の言葉の意味はきっと――。
「ねえ、悟浄」
「なんだ」
「ありがとうございます」
 何に対しての「ありがとう」かを、八戒はあえて口にはしなかった。けれど、きっと悟浄には伝わっていると、これくらいは自惚れてもいいかと八戒は思う。
 八戒の言葉に、悟浄は少しだけ瞠目したが、すぐにいつもの彼らしい笑みを浮かべた。そして、もう一度八戒の肩を軽く叩いて、ジープに乗り込むために歩き出す。
「続きは宿に着いてからな」
「続きって、何ですかそれ」
 悟浄の後について、八戒も歩き始める。彼の背中をちらりと眺めつつ、八戒はもう一度青空を見上げた。




 ――いつか。
 自分もこの空の向こうへと還っていくのだろう。だから、どうかそれまでは、悟浄とともに生きたいから。
 そのためにも、強くなりたいと、八戒は思った。
 こうして、ちゃんと大地に足を下ろして、空を見上げることができる強さを。





 胸をはって、悟浄に好きと、言うために。







FIN

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