「………お子サマは無駄に元気だねぇ……」
悟浄の呆れ混じりのつぶやきに、八戒は苦笑を禁じえなかった。
停車中のジープの前に、悟浄はボンネットに腰掛け、八戒は軽く腰を凭れさせて立った姿勢で、互いに前方の悟空を眺める。
「仕方がないでしょう。なにしろ初めて見たらしいですから」
これを。と、八戒が肩をすくめながら視線で示した先にあるのは、すっかり古ぼけた一本の線路。
地平線とわずかな岩の丘陵しか見えない広大な草原にのびる一本の古い線路は、そのほとんどが既に雑草に覆われ、今はもうまったく使われていないことが判る。
錆びた二本の鉄線に等間隔で並ぶ木の板といういかにもな線路跡を見つけた途端、よほど物珍しかったのか悟空はジープから飛び出して未知なるものの検分を始めた。三蔵いわく、悟空は線路も、もちろん列車自体も知らないらしい。確かに、普段は長安の寺院内で暮らす悟空には特に必要のないものかもしれなかった。
ちょうどジープを休憩させたほうがいい頃合だという八戒の提案のもと、とりあえず少しだけ停車することになり、――はしゃぐ悟空を尻目に、大人三人はのんびりとジーブのそばでくつろいでいるというわけである。
悟浄は胡乱げに目を細めると、銜えていた煙草の煙をゆっくりと吐き出した。
悟空はというと、線路をたどって歩いているようで、はるか数メートル先のほうに見える。
「初めてにしたって、アレはねーだろ」
「あははは、確かにはしゃぎすぎているとは思いますけどね」
八戒にとってはまったく珍しくもなんともない線路を足下に眺めつつ、ただただ困ったように笑うしかない。
「だいたいこんなの見てナニが楽しいんだっつーの」
「まぁ悟空には楽しいんでしょう。そういう悟浄は? 初めてではないんですね?」
このとき八戒が問い掛けたのはただの話の流れとして、というだけで、特に他意はなかった。
けれど、ふと悟浄の表情がなんともいえない複雑な感情が織り交ざったようなものに変化したのを感じて、八戒はわずかに目を瞠る。
……何か。
気に障るようなことを口にしただろうか。
八戒はそろりと横目で悟浄を見やった。悟浄は一瞬だけ、すぅと視線を下に落とす。そして、何もなかったかのように顔を上げた。再び、唇からゆるゆると紫煙を吐く。
「……ガキの頃、一回だけ乗ったことがある。それだけ」
「そうなんですか。僕たちが住んでいた町には鉄道は通ってなかったから、案外悟浄も知らないのかも、と思ったんですけど」
「俺もアソコでずっと暮らしてたワケじゃねーからさ。……んーと、逃げるために?」
悟浄はくつくつと喉を鳴らした。肩を揺らしながら、嘲笑を浮かべる。
含み全開の悟浄の笑みに、八戒はほんの少しだけ眉宇をひそめた。ちら、と、無言で悟浄を見つめる。
「――」
「俺もガキの頃はお前に聞かせられねぇようなバカをいっぱいしてるからさ。ま、数あるバカの一回だけ、列車に飛び乗って命からがら逃げ出したことがある。だから線路見てもロクな思い出がねーな」
「……悟浄」
「そんなワケで、猿は無邪気でいいねぇってコト。以上」
「悟浄」
わざとらしく、なんでもないことのように口にする彼の態度がかえって胸にこたえる。
八戒は己の失言に内心歯噛みをしながら、無理やり口を挟んだ。けれど、悟浄はそれこそなんでもないことのように言い募る。
こんなふうに。
わざとおどけた口調で言う時は、見かけよりもずっとそれは悟浄にとって重いことなのだということに気づいたのはいつだったか。
八戒は神妙な面持ちでため息を零した。そっと目線を足元――その先にある線路へと落とす。
「僕も、昔、学院にいた頃、基本的にそこに行くまでの交通手段が列車でしたよ。だから、何度か乗りましたね」
さらりと、話題を自分のほうへと掏りかえる。ここでようやく、悟浄が八戒のほうへと顔を向けてきた。
「ふぅん。なんか俺たちってホント対称的なのな」
くくっと悟浄が自嘲ぎみに嗤う。
八戒はさらにジープへと深く凭れかかった。そのまま、ふいに顔を上げ、空を見上げる。
「よく考えると、今、こうして僕たちがいっしょにいるのって、すごく不思議ですよね」
「……八戒?」
「本来ならおそらく出会うことはなかったと思うんですよ、僕らの過去からして。なのに、今、僕の隣りに貴方がいるのってすごいことなんだなぁ、と」
――そう、きっと。
普通に考えれば、あまりにも生い立ちが違いすぎる自分たちに、接点などあるはずもなく。
互いに何事もなく過ごしていれば、きっと。互いのことを知らないまま、永遠に出会うことがないままでもおかしくない。むしろそのほうが自然ともいえた。
けれど。さまざまな紆余曲折を経て、今の自分たちがある。
「……確かに。どー考えても、優等生のお前と出会う確率ゼロって感じだもんなぁ」
「それなら道を踏み外して正解だったのかな、僕」
くすくすと笑いながら八戒が言う。悟浄はわずかに瞠目したまま、八戒を見つめ返してきた。
「……それって」
「だって、あのまま貴方に会えないで過ごすよりは、例え堕ちるとこまで堕ちたとしてしても貴方たちといっしょにいられる今のほうが悪くはないと、そう思ってますから」
こんなふうに。穏やかに笑いながら言える日がくるとは、あの時は思えなかったけれど。
けれど、例えこんなふうに危険な旅を続けていても、それでもかつての人間だった頃の自分よりも今のほうがいいと思えるのは、きっと彼らだからだ。
自分の隣りにいるのが彼――悟浄だから、なのだ。
本来なら、この一本のまっすぐにのびる線路のように、それぞれの進む方向は違っていたのだろう。それでも、出会えてよかったと――心から思えるから。
「八戒」
「……なんですか、ご……―――」
隣から呼び掛けられ、八戒はこの声のした方へと顔を向けた。あっという間に横から伸びてきた腕に引き寄せられ、気がついたら唇を塞がれていた。
いきなりの、深く、口腔内を容赦なく貪るような口づけに、八戒の息もあがる。
絡められた彼の舌が熱くて。それでいて甘くて。痺れるような心地すらする。
腰掛けている分、悟浄のほうから覆いかぶさるような姿勢でキスが繰り返される。
幾度も幾度も、角度を変えてより深く唇同士を重ね合わせて。
「……ふ……っ」
鼻にかかる甘やかな吐息がわずかな唇の隙間から零れた。
八戒は思わず縋るように悟浄の上着を掴んだ。ぎゅっと刻まれた布の皺の深さが、そのまま八戒の悦の深さをあらわしているかのようだった。
――と、その時。
「俺の前でいちゃつくなと何度言ったら判るんだテメェらはっ!」
パァーン!と派手な破裂音が悟浄の頭に響くのと、最高僧の怒声が響くのがまさに同時だった。
それまでジープの助手席で寝ていた三蔵だったが、どうにも耐えられなくなったらしい。
甘い時間を容赦なく断ち切る三蔵の仕打ちに、悟浄はあえなくジープから転がり落ちる。もちろん、直前で三蔵がどうでるかに気づいた八戒は、あわてて悟浄から離れ、ちゃっかり難を逃れていた。
「――ってぇ! ナニすんだよ生臭坊主が!」
「俺の目の前で堂々といちゃつくなってんだよっ」
「まぁまぁまぁ、落ち着いてふたりとも」
一触即発な雰囲気で睨み合う悟浄と三蔵の間に、八戒のわざとらしい間延びした声が割って入る。だが、それには誤魔化されない、とばかりに、三蔵はじろりと八戒を睨み付けた。
「言っておくがお前も河童と同罪だぞ」
「判ってますよ。でも、ここで口論するよりは、そろそろ出発したほうがよくありません?」
八戒のもっともな意見に、三蔵は渋面のまま眉間の皺をさらに深めた。
八戒はとどめ、と云わんばかりに、にっこりと口許の笑みを深める。
「じゃあ、出発しましょうね。悟浄、乗ってください」
まだ八戒の足元に蹲っていた悟浄に向かい、声をかける。悟浄は痛そうに頭上をさすりながら、ゆっくりと立ち上がった。そして、のっそりとした動作で指定席に乗り込む。
「あー、痛ぇ。ったく、手加減くらいしろっつーの」
「なにか文句あるのか貴様」
「ありまくりだっつーの!」
「あぁ、もう、いい加減にしてくださいよ、貴方たちは」
放っておけばいくらでも口論をくり広げそうな不良園児ふたりを宥める保父さんさながらに、八戒は呆れ混じりに言葉を挟んだ。出発時にわざとジープのアクセルを強く踏み込んで車体を揺らす。
「おわぁっ!」
「八戒、テメェ!」
ふたりの苦言は軽く聞き流して、八戒は威嚇の笑顔を貼り付けたまま、すっかり先へと進んだ悟空を拾うべくジープを走らせ始めた。
このまま西へと伸びる線路の上を、彼らとともに走っていくために。
ふと、ジープのサイドミラーにうつった悟浄に目を向ける。
ミラー越しに目が合う。
そっと細められた彼の紅瞳に浮かぶ想いに、八戒もまた瞳で微笑み返した。
この先の見えない一本道を。
こうして、悟浄とともに、これからも進むことが出来ればいいと。
祈るように。願うように。
FIN