夢から醒めない




 極みを迎えた後の軽い失墜感とともに、八戒は背中から崩れ落ちるようにシーツへと沈んだ。
 そして、その上に覆い被さるように、悟浄の躯も折り重なる。
 まだ息がおさまりきらずに上下する互いの胸と胸が合わさり、その感触にすら煽られるように、ぴくりと八戒の痩身が震えた。その躯を悟浄がぎゅっと、その胸に抱き込むように腕を回してくる。そのまま八戒の耳元へとかすめるような口づけを落とした。
「……八戒……すげぇ気持ちヨかった……」
 八戒は荒い息をつきながら、まだ気だるさの残る腕をそろりと悟浄の背へと伸ばした。ふわりと、幸せそうな笑みをその口許にはいて、悟浄に向かいそっと呟く。
「……それは、よかったですね…。僕もいい夢が見れそうです……」
 悟浄の心地よい体温に抱かれていると、ゆっくりと、でも確実に睡魔が襲ってくるようで。八戒は、その波に逆らわずに、ゆっくりと翠色の双眸を閉じた。
 ゆらゆらと訪れる心地の良いまどろみに、自然と悟浄へしがみ付く腕も落ちかけたところで、悟浄が少しきつめのキスを仕掛けてきた。唐突なそれに、八戒は閉じかけた瞳をほんの少し開く。その先には、先に眠りにつこうとした八戒に対し拗ねた表情を隠しもしない悟浄のキスの雨が待っていた。
「悟浄……」
「イイ夢もいーけど、どーせなら、現実にもっとイイ思いをしたほうがよくねぇ?」
 だからもう一回シよ……と、わざと八戒の官能を煽るような声音で囁く悟浄に向かい、八戒は微苦笑を浮かべ、そろりと彼の傷が残る頬へと手を伸ばした。そこを撫でるのは、悟浄の我儘を仕方がないふりをして聞き入れる時の八戒の癖のようなものだった。八戒はいとおしげに、ゆっくりと掌を這わしていたが、ふと胸裏をかすめたある思いに、ぴたりとその手の動きを止めた。
 いつもと違う八戒の様子に、悟浄も訝しげに眦を短く眇める。そして、頬に置いたままだった八戒の右手をそっと握り込んだ。そこから伝わる悟浄の体温(ぬくもり)に、八戒は不意に泣きたくなるほどの安堵感を覚えて、ゆるゆると詰めていた息を吐き出した。
 こんなにも、この掌から伝わるぬくもりはあたたかいのに。
 なのに、どうして、まだ僕はこんなにも――。
「どーした?」
 上から見下ろす形で、どこか様子のおかしい八戒を気遣うように、悟浄がやさしく声をかけてくる。
 それに、八戒はうすく微笑んで、悟浄を見つめ返した。
「時々、思うんです。現実に、と言われて思い出してしまったけど、――まだ僕は、本当は悟能のまま彷徨い続けていて、都合のいい夢を見ているんじゃないかと」
 そう。
 長い長い天竺への旅もようやく終えて、再び悟浄とともに暮らし始めて。
 今が幸せだと思えるからこそ、逆に、不意に不安になる。
 例え、悟浄とともに生きると決心しても。いくら、過去の自分を吹っ切ったとしても。
 八戒――悟能が犯した罪の重さが決して消えるわけではないのだ。
 あまりにも、今が幸せで。あんなふうに花喃を死なせてしまった自分が悟浄を愛し、同じように悟浄もこんなにも罪深い八戒を愛してくれて。幸せだと、心から思えるから。
 かえって、ふとしたことをきっかけに過ぎるこの不安――自分が「現実」だと思っている「今」が、もしかして「夢」なのだとしたら。
 罪びとである自分が、こんなに幸せでいいはずがないと、まだどこかで思う気持ちが拭い去れないからだと八戒は思う。実は、花喃を求め過ぎて壊れてしまった悟能が見ている幸せな夢、と言われたら納得してしまいかねないほど。
 八戒自身、くだらない戯言を口にしたとの自覚はある。間違いなく、悟浄には呆れられるだろうけれど、それでも思ったままを八戒は口にした。こんなふうに思ってはいても、八戒の答えは決まっていたから。
 ――夢でも、いい。
 このまま悟浄とともに、幸せな「夢」を見続けたままで。
 その想いを押し殺すように、八戒が自嘲ぎみに口許を歪めると、悟浄はちいさくため息をつきながら、八戒の秀でた額にふわりとやさしく口づけた。そして、口の端を上げて皮肉げに微笑む。
 その彼の笑みに、八戒は思わず眼を瞠った。
「――お前らしいって言ったらこの上なくお前らしいなソレ」
「悟浄」
「で? 『今』が都合のいい夢だっつーなら、八戒は『今』がイイって、そう思ってるってコトだろ?」
「……ええ」
 それは、まさしく悟浄の言う通りで。「今」が幸せだからこそ、それが「夢」ではないかと思うのだから。
 すると、悟浄はニヤリと片頬を器用に上げて笑った。そして、八戒の頬を両手で掬い上げるように包み込む。その動きに合わせて、二人の視線が静かに交錯した。悟浄の紅瞳に浮かぶ、あたたかな感情の色に、目が離せない。
「とりあえず、お前が今がいいと思ってんなら、例え夢でもこっちを現実にすればいいじゃん」
「――悟浄、」
「永遠に醒めない夢なら、それが現実だろ?」
 その言葉に、八戒は何も返せないまま、悟浄をただ凝視することしか出来なかった。
 それはまさに、八戒もそう思っていた。夢でもいい、と。けれど、悟浄はそれを「現実」にすればいいと言う。確かに、ずっと夢から醒めなければ、それは現実なのだから。
 八戒は泣き笑いのような表情を浮かべて、頬にかかる悟浄の手をその上からゆるく握り込んだ。
 あたたかい、悟浄の手。
 例え、夢でもいいから、この手を離したくはなかった。
 それを、悟浄はこともなく「現実」にしたらいいと言う。それならば、八戒の言うべきことは――。
「そうですね」
 八戒はさらに笑みを深めて、悟浄と正面からきちんと向き合う。
「僕、どちらでもいいです。これが、夢でも現実でも、悟浄、貴方が傍にいるなら――」
 そう言って、八戒は破顔した。幸せだと、目の前のいとしい男に、ちゃんと伝わるようにと。
 その想いは果たしてきちんと伝わったのか、悟浄は一瞬神妙な面持ちで八戒を見つめ返してきた。が、すぐに心底嬉しげに、端整な口許に笑みを刻んだ。そして、勢いのまましっかりと八戒の痩躯を抱きしめる。
「じゃあ、俺がここにいるってコト、しっかり躯に判らせてやるから」
「結局、そういうオチなんですか」
 顔中に惜しみなくキスを落としてくる悟浄に向かい、くすくすとくすぐったげに肩を震わせながら八戒が笑み零す。悟浄はさらに本格的なキスを仕掛けようと、八戒の唇の己のそれを重ね合わせた。ちゅっと音を立てながら軽いキスを戯れのようにくり返すうちに、次第にキス自体が深く長いものへと変化していった。
 八戒が苦しげに甘い吐息を漏らすと、名残惜しげに悟浄がゆっくりと唇を離した。そこで、再び二人は正面から見つめ合う形になる。
「イヤか、八戒……?」
 悟浄の紅い髪が、さながらヴェールのように八戒へとかかる。その紅を視界にとらえ、八戒は微笑んだ。
 この紅に求められることに、否と言えるはずかない。
 夢でも現実でも、こうして、悟浄がいてくれるのなら。こうして、求めてくれるのなら。
「いいえ。嫌なわけ、ないでしょう? だから」
 ――しっかり判らせて下さい。そう囁いた八戒の躯を、悟浄はぎゅっと、壊れるほど強く抱きしめてくれた。
 まるで、これが現実だと、八戒に知らしめるように。きつく、強く。








 例え、夢でも現実でも、貴方とともに在る「今」がすべて。








FIN

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