さくらのゆめ




「それにしても、見事ですね」
 隣を歩く八戒の呟きに、悟浄はちらりと、意識だけをそちらへ向けた。
 三蔵からの依頼の報告を終え、巨大な寺院を背に、二人して帰途に着き始めた直後の事。まっすぐに門へと続く石畳の上を歩きながら、八戒はちいさく微笑んだ。
 その笑みにひかれるように、悟浄も咥え煙草のまま、器用に口の端を上げてみせる。
「見事って、この桜並木のコト?」
 石畳の両脇に並ぶ、桜の大木。門まで続くその桜並木が満開の今、さながら薄紅色の絨毯が敷き詰められているような光景が広がっていた。
 そんな中、ひらひらと、薄紅の花弁が舞い落ちる。
 二人の間にも、ひらりひらりと。それを、八戒はゆっくりと目で追った。
「ええ。こんな立派な桜の木は、ここでしか見れませんからねぇ。僕らが住む街には、桜自体が殆どありませんし」
「仕方ねーじゃん。長安(ここ)より寒いから桜も自生してねーんだからよ」
 さして桜に思い入れのない悟浄がさらりと言い返すと、八戒が残念そうにうすく笑った。
「確かにその通りですけどね。……なんだか、もったいないじゃないですか」
「ナニが」
「こんなに綺麗なのに、――これを見られないのは、なんだか損をした気分になりません?」
「ベツに、俺は桜とか好きでもナンでもねぇし。ま、キレーなのは認めるけどな。それよりお前、そんなに桜、好きなの?」
 ずっと桜の舞い散る様を追いかけてちっとも悟浄のほうを見ようとしない八戒へ、ほんの少しだけ咎めるような響きを滲ませてみる。八戒は一瞬視線を止めて、それからゆっくりと悟浄のほうへと顔を向けた。
 だが、彼の端整な貌に浮かぶどこか戸惑うような感情の色に、悟浄のほうが思わず眉宇を寄せる。
「八戒?」
「好き、というよりも、――なつかしい、かなあ」
 彼の口から零れた意外な言葉に、悟浄はますます困惑気味に目を細めた。
 なつかしい、という言葉の裏に潜む彼の過去に、まずったかも、と悟浄は内心舌打ちをする。もしかしたら、触れられたくはなかった過去の琴線にうかつにも触ってしまったか、と。
 けれど、八戒の表情は悟浄の予想に反して、もっとはるか遠くを見ているような、複雑なものだった。
「今までそんなふうに思ったことはなかったけれど、悟浄たちと出会ってから、満開の桜を見ると奇妙ななつかしさを感じるんですよねぇ……」
「奇妙ななつかしさって、ナンだよそれ」
「言葉の通りですよ。既視感とでも言うんですかね。不意にこう頭の中をかすめるような曖昧なヴィジョンがあって、はっきりしない分、しっくりこないというか」
「……ますますワケ判んねー」
 八戒が何を言いたいのかさっぱり判らない。悟浄の呟きに、八戒はただ苦笑を深めた。
「判って下さいなんて言いませんよ。ただただ、なつかしいんです。確か、桜は郷愁を誘うような花ではないと思うんですけど、そのなつかしさが、なんだかとても大切なことのような気がして」
 そう言って、八戒はまた視線を桜へと戻した。
 はらはらと。
 桜の花弁が静かに舞う。
 それはまるで、ゆったりと、いつの間にか過ぎ行く時の流れのように。
 八戒の言う“なつかしさ”も、その、時の流れの一瞬に過ぎない“何か”なのかもしれない。
 桜を通して、いったい、彼は何を見ている――?
 不意に胸裏をよぎる、ざらりとした不安に、悟浄ははっと目を見開いて八戒を見た。
 あいかわらず、八戒は、桜を見ている。
 ふわりと、時折浮かべるあわい笑みをその口許に刻んで、桜の散りゆく様をただ見ている。
 その視線は、目の前の桜ではなく、もっと遠くの“何か”を映し出しているようで。そう、悟浄の届かない、どこか遠くを――。
 このままでは、桜に。



   サ  ラ  ワ  レ  テ  シ  マ  ウ



「――っ」
 衝動的に、悟浄は八戒の手首を掴んだ。途端、びくりと八戒の体が揺れる。そこでようやく我に返ったように、どこか茫然とした表情のまま、八戒はゆっくりと悟浄へ顔を向けてきた。
「ご、じょう?」
「あ、――イヤ」
 桜にさらわれそうだったから、などとは口には出来ず、悟浄はどう答えたものかと一瞬言いよどむ。
「…どうかしましたか?」
 ふわりと舞い散る桜の花びらを背に、ふわんと桜よりもあわく八戒が微笑む。
 まるで桜と同化しそうな風情に、悟浄はさらに彼の手首を掴む力を強くした。
 そうだ。
 不安なら、離さなければいい。
 ようやく手に入れることの出来たこの存在が、桜にも、見えない何かにも、さらわれないように。
 大事なものは、こんなふうにちゃんと掴んで、そして――絶対に離さない。
 悟浄は不意に口許を緩めると、ちら、と八戒の横面を見据えた。そのまま彼の手首を掴んでいた左手をそろりと掌まで下ろして、今度はぎゅっと八戒の右手を握る。すると、自然に二人は横並びになった。悟浄はくつくつと楽しげに笑み零しながら、繋いだ掌に意識を向ける。
「いーや。手ェ繋ぎたいなー、なんて思ってよ」
「なんですか急に」
 まだ寺院内だからと即座に振り払われるかと思ったその手は、意外にもほどかれずに、悟浄の掌に納まったままで。掌越しに伝わるじんわりとした八戒の体温にわけもなく安堵感を覚えて、悟浄はひっそりと笑った。らしくないことをしている自覚はある。けれど。
「いいじゃん、たまには」
「……そういうことにしておきましょうか。でも、さすがにもうすぐ出口ですから、それまでには離して下さいね」
 気がつけば、もう寺院の門は目の前だった。さすがに、門番の前で手を繋いだままは嫌だと、はっきり口にする辺りが八戒らしい。思わずチッと舌打ちした悟浄に、八戒は「残念ですねぇ」とあまり残念でもなさそうな口調で返す。それが少し恨めしいだけだ。
 くすくすと零れる八戒の微苦笑は聞かないふりをして、悟浄は繋いだその手を離さないまま、ふと肩越しに振り返り、ちらりと桜へと視線を飛ばした。
 ――八戒のコト、言えねぇかも、な。
 そう胸中で呟いてから、掌のなかの存在を確かめるように、悟浄は再度きつく握る手に力を込めた。それからゆっくりと前に向き直りながら、その手をそろりと離す。そんな悟浄の態度に、八戒が訝しげな声音でその名を呼んだ。
「悟浄……?」
 その呼びかけに、悟浄はわざとはぐらかすようにニヤリと唇の端を上げて笑みをかたちづくる。
「ナンでもねーよ。早いとこ、出ちまおーぜ」
「……ええ」
 門を目指して八戒と並んで歩きながら、悟浄は彼に気づかれないように、ちいさくため息を漏らした。



 ――確かに。桜を見ると、何故か悟浄の脳裏をよぎる不鮮明な“何か”がある。
 掴みきれないそれは、悟浄の苛立ちを深めるだけで、今まであえて口にしたことはなかったけれど。
 今あらためて、桜と八戒を重ね見て、悟浄は思う。
 そこに浮かぶ確かな既視感に、囚われているのは、悟浄のほうかもしれない、と。





 それは、桜が見せる――ゆめうつつ。
 そのゆめにさらわれないように。
 しっかりとその手を掴んで、離さないように。







FIN

『桜祭り』参加作品。前世は捲天ではなく金天だったと思って読むと、より切なさ倍増。でもこれでたのしいのはきっと私だけである。

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