RED HOT




 このところの西への旅程は比較的順調といえる。
 今日も朝から予定通りに出発して、これまた予定通り夕刻前に次の町へ到着した。そこそこに大きな町だから、今晩もきっとまともな宿にありつけるだろう。
 道の往来を連なって歩く三人――三蔵、悟空、八戒――のほんの少し後ろを歩きながら、悟浄は銜え煙草のまま、ぼんやりと彼らの横顔を見た。
 悟空はあいかわらず「腹が減った」を連発しているし、三蔵と八戒は今後の予定を確認しあっている。
 この旅を始めてからすっかり当たり前になった光景だ。
 悟浄はゆっくりと紫煙を吐き出した。
 位置的に南方面まで来たのか、先日までいた場所よりあきらかにむし暑く感じる。じりじりとした焦げ付くような酷暑ではなく、気温はさほど高くはないが、じっとりと肌にまとわりつくような湿気が非常にうっとうしい。この強烈な湿気で銜えた煙草さえもすぐにしけってしまいそうなほどだ。
 浅黒く日焼けした肌に、じんわりと汗が滲む。なんともいえない不快感に、悟浄はわずかに眉宇をしかめた。
 地図を見ていないから定かではないが、おそらくこの近くに大きな河川や湖といった水場が存在するのだろう。そういえば昨晩、ふたり部屋へと引き上げる前に、確か三蔵と八戒がそんな話をかわしていたような気もした。
 基本的に薄着の悟浄をしてそう思うのだから、すぐ前方を歩く三蔵と八戒はかなり不快感を覚えているのではないか。しっかり着込んでいる彼らのこと、涼しい顔をしながらも不快指数はそうとうなものだろう。
 見ているほうが、よりむし暑く思える。
 悟浄は深々とため息を洩らした。肺に吸い込んだ煙草の煙にさえも、じめじめとした湿気を感じる。これではどうにも煙草を吸っている気がしない。
「――で、いいですか悟浄?」
 ふいに耳奥に飛び込んできた心地よいテノールに、悟浄はあわてて我に返った。
 見れば、八戒が顔だけ振り返り、悟浄を見つめていた。あからさまに怪訝そうな視線。悟浄は居心地が悪げに唇端を軽くゆがめた。
「……えっと、ナニ」
「……聞いてなかったんですね」
 多分に呆れを含んだ声音に、悟浄も肩をすくめるしかない。
 ばつ悪げに口の端をあげてみせる。
「悪ぃ。で、ナニ?」
 悪びれない風の悟浄の態度に、八戒も深いため息をこぼした。
 呆れまじりとはいえ、そんな風になんとも悩ましい表情でため息をつくその姿にさえも目が離せない辺り、悟浄自身でも大概だと思うのはこんな瞬間だ。
 悟浄の心情を知ってか知らずか、八戒はさらに嘆息する。
「だから、この後の予定ですけど。先に宿を見つけてから、僕と悟浄のふたりで買出しに出たいんですが」
「猿たちはどーすんだよ」
「悟空にはジープのお世話を頼んでますが?」
「生臭坊主は」
「三蔵に何かを頼むほど困ってはいませんが」
「あ、そ……」
 もはや気の抜けた返答しかできない。
 視線を宙に泳がせながら、悟浄はがしがしと頭を掻いた。
「……もしかしなくても、メンドクセーとか思ってるんでしょうが」
 八戒はわざとらしく肩を落とし、ちらりと悟浄を見やる。
 しかし顔は笑っているが、瞳は微塵も笑っていない。端整な白貌に浮かぶうすい笑みを目の当たりにして、悟浄はあわてて表情をひきしめた。
「あ、イヤ、そんな滅相も、」
「僕がひとりで買出しができない原因を作りやがったヒトに拒否権はありません」
 にっこり、と。
 見る者が凍りつくほどに寒々しいながらも麗しい笑顔で、容赦なく言い放たれた台詞に、悟浄はがっくりとうなだれた。
「……ハイハイ」
 薮蛇だった。八戒にそう言い切られてしまったら、今の悟浄に承諾以外の選択肢はない。
「荷物持ちでもナンでもさせていただきましょー」
「思い切り含みを感じるのは気のせいでしょうかねぇ」
「気のせい気のせい」
 含みありまくりなのはそっちじゃねーか、という咽喉まで出掛かった言葉を賢明にもすんでのところで飲み込み、悟浄は軽く肩をすくめた。
 八戒に口で勝てるはずもないし、何より今回は、おのれにはつけ込まれるだけの要因がある。
 ここはおとなしく彼の意向に添うほうが無難だった。
 それに、常よりも八戒の口調から毒気を感じる。おそらくこの湿気による不快感からくるものではないか。それならばなおさら、逆らわないに越したことはない。これだけつきあいも長くなれば、それなりに八戒のひととなりも知れようものだ。その辺は悟浄なりに学習しているつもりだった。
 八戒は胡乱げに悟浄を注視した。目があった途端、仕方がないとばかりに軽く翠眼をすがめる。
「……逃げないでくださいよ?」
 念押しされるほどには信用されていないらしい。今までの悟浄の行いを鑑みれば当然といえば当然なのだが、それでもついぼやいてしまうのもまた、仕方のないことだった。
「……ったくいちいちうるせーンだからよ」
「悪かったですね、うるさくて」
「……」
 あいかわらずの地獄耳である。悟浄のささやかなぼやきさえも聞き逃さない、どこまでも抜かりない青年の視線から逃れるように、悟浄は内心で深々とため息を洩らした。
 やはり、今日の八戒はいつもより二割増しで機嫌がよろしくない。
 言葉に含まれる毒も、さらに倍だ。
「その前に宿を見つけないと、ですが。じゃあよろしくお願いしますね、悟浄」
 返す言葉がないままでいる悟浄へとしっかり言い置いて、八戒はふたたび、少しだけ前を歩いていた三蔵に追いついてその横に並んだ。この後の予定の決定事項でも報告しているのだろう。つい今しがた悟浄に告げた内容が途切れ途切れに聞こえてくる。
 彼らの後ろに着いて歩きながら、悟浄はぼんやりと八戒の後ろ姿を眺めた。
 右横にいる三蔵に顔を向けていることもあり、悟浄から見えるのは、ほっそりとした白い首筋。首許をかっちりとした旅装束で固めているため、それでも人目にさらされている部分は生え際に近いわずかなところのみ。
 それでも、ちらりと見えるその肌の白さとなめらかさがかえって目を惹かれる。
 悟浄はいっそ不躾なほどに、八戒の首筋を見つめた。
 そこは彼の身体のうちでも悟浄のお気に入りのひとつである。キスしてえなあ、と八戒に知られたらぶっ飛ばされそうなことを思いながら、不埒な笑みをうっすらと浮かべた。
「――暑いですね」
 ふとしたつぶやきが八戒の唇からこぼれ落ちる。
 と同時に、自らのうなじにかかる短い濃茶の髪を細い指先でうっとうしげに掻きあげた。
 この湿度で髪の毛が肌に張りつくのが不快だったのだろう。無意識の彼の仕種に、悟浄はどきりとした。ふいうちでさらされたしなやかなライン上にちらりと見えた紅い印が、悟浄の目に飛び込んできたのだ。
 それは、どう見てもキスマークだった。
 しかも悟浄自身も意図的につけた覚えはまったくないそれ。
 上着の襟元すれすれの位置だったから、普通なら彼の髪の毛にぎりぎりで隠れてしまうような場所である。だから八戒自身も気づいていないようで、だからこその無防備な仕種だったのだろうが。
 白い肌の上に鮮明に浮かびあがった愛咬の徴。
 こうした白昼のもとで、おのれでさえ記憶にないその所有印を目の当たりにして、悟浄は思わず自分の口許を手で塞いだ。ふいに胸奥から浮かびあがった気恥ずかしさに、どうにも口許が緩むのが抑えきれない。
 ……妙に、照れる。
 ついほんのわずか前まで、八戒のそこにキスしたいとさえ思っていたのに、いざその跡を見せつけられるとはなんともいたたまれない。どんな顔をしていいのかわからないとはまさにこのことだ。しかも過去のおのれが施したものに照れるとは余計に恥ずかしい。
 また悟浄自身がつけたことを覚えていないせいか、ますます気恥ずかしさが募る。
 それだけ昨晩の情交が激しかったのは認めよう。悟浄もかなり我を忘れて、いとしい男へとのめり込むように深く激しくその身を求めた。彼が欲しくて欲しくて無我夢中だった。熱にうかされたかのごとく遺したのであろうおのれの想いの証。
(ヤバいって……)
 昨夜の濃密な情事を思い返し、悟浄はふたたび緩む口許を隠すべくごまかすように右手を当てた。
 八戒の凄絶な媚態が脳裏によみがえる。淡いランプの灯の下、シーツの上で淫らにくねる瑞々しい肢体。うっすらと開かれた朱唇からこぼれるあえかな吐息。おのれの名を呼ぶ感極まった声音。
 快楽に打ち震えるしなやかな裸体を惜しみなくさらして、何度も何度も悟浄を求めてくれた。それに応えるために、悟浄もまた何度も何度も彼のすべてに余すことなく触れて、自分しか知らない彼の熱い奥に触れて、そして――
「なんて顔、してるんですか」
 すっかり忘我の域にあった悟浄を現実に引き戻したのは、まさに今、悟浄の脳裏で身悶えていた張本人の冷たい声音だった。
 思わず我に返る。
 すると、いつの間に三蔵から離れていたのか、悟浄の行く手を阻むように立ち止まっていた八戒のなんともいえない表情が悟浄の視界いっぱいに広がった。どうやら彼にぶつかりかけたらしい。悟浄はあわてて立ち止まった。
「は、八戒っ!?」
 突然のそれに、つい声も裏返ってしまう。悟浄にやましい気持ちがありまくりだからなおさらだ。
 すんでのところで衝突がさけられたことに、八戒は肩で大きく息を吐いた。ふたたび悟浄を正面から見据える。
「……っ」
 ふいにおのれの視界をかすめた、首筋の紅い所有印。そして、そのまま顔をあげて八戒の顔を見た瞬間、悟浄は胸奥から込みあがるなんともむずがゆい、どうにも落ち着かなくさせる甘い疼きに、またしても困ったように顔をゆがめた。
 緩む口許を抑えきれない。
 その、あからさまに照れくささを滲ませた男の表情を直視することになってしまった八戒は、目に見えて驚いていた。大きく目を見開いて、呆然と悟浄を見つめる。
 だが、急に我に返ったのか、涼やかな目許をしかめて、きつく悟浄を睨めつけた。
「……道の往来でそんな顔しないでくださいよ」
「あ、……っと、そのワリィ……」
 八戒が硬い声音もあらわに苦言を呈す。それに釣られるかのごとく、悟浄は焦ったように口ごもった。彼をさらに怒らせてしまったか、とあわてて顔をあげたその時。
「――」
 八戒の表情を目の当たりにして、今度は悟浄のほうが驚く番だった。
 確かにその面には怒りの感情が見える。
 けれども、唇をかすかに引き結び、目許を朱に染め、なんとも言いがたい感情に揺れる翠瞳でじっとおのれを見つめるその白皙にも違えようのない照れが見え隠れしていた。
 普段見ることのない珍しい表情に直面して、悟浄はただ見つめ返すことしかできなかった。
 こんな風に、八戒がわかりやすく照れていることなど、あまりにも意外だった。
「……八戒?」
 おそるおそるその名を呼ぶ。
 何かを問い掛けたかったわけではないが、思わず口にしていた。それくらい衝撃的だった。
 しかも、こんな日中の、ひとの往来も多いところでそんな顔されてはそれこそ――
「不覚にも、こっちまで恥ずかしくなるじゃないですか……」
 伏目がちに頬をほんのり染めつつも、どこか甘く悟浄を責めるような響き。
 面映そうに、まるで恥らうような表情にもとれるそれに、悟浄の内心の焦りはさらに募った。
(――ヤバすぎだっつーの)
 これでは悟浄とて固まるしかないではないか。
 でなければ、それこそ場所などなりふりかまわず今すぐに抱きしめてしまいたかった。凶悪に可愛いなど、同い年の同性にいだく感情ではないと思うのだが、そんなことは超越してしまえるぐらいに八戒がいとおしいと思う気持ちが止まらなかった。
 そして、悟浄の双腕があふれる想いのままに彼へと向かおうとした、まさにその刹那。
「――!」
 八戒の肩越しに見えた三蔵と、唐突に目があった。
 それは悟浄の意識が瞬時に現実に引き戻されるほどに、ものすごい形相をしていた。
 不機嫌全開で悟浄をきつく睨みつける最高僧と正面から向き合うかたちとなる。悟浄はそこでようやく我に返った。
「……てめぇら……」
 野獣のうなり声にも似た、低いつぶやきが洩れる。
 そこで八戒も背後の不穏な気配に気づいたのだろう。それまでまとっていた甘やかな雰囲気を一変させた。即座に表情を改めると、悟浄になんら声をかけることなく、踵を返す。
「あ、八戒」
「行きますよ」
 素っ気なく言い放って、八戒はふたたび歩き始めた。悟浄はその変わり身の早さに唖然としつつも、あわててその後に続く。
 それまで八戒しか見えていなかった悟浄の周囲に、町の喧騒が戻ってくる。それでも、こんな状況の中で一瞬でも周りが見えなくなるほどに、自分と八戒だけの世界に入り込んでいた、その事実が何より恥ずかしい。悟浄はその面映い気持ちをごまかすように、かりかりと鼻の頭を指先で掻いた。
 イイ歳したオトコふたりだというのに。
 それでも、こんな気持ちにさせられるにもまた八戒だからなのだ。今までいだいたことのない想いをもてあましつつも、悪くはないと悟浄は思う。
 そう――全然、悪くない。
 ただ、……ちょっと恥ずかしいとは思うけれど。
 こうした気持ちも、凛と背筋を伸ばしておのれの前を歩く彼あってのこと。そして八戒もまた、悟浄へと想いを返してくれるからこそ。
 そう思えば、これも自分にとってはひとつの僥倖なのだろう。
 また、そう思えることがちょっと恥ずかしいのだが。
 ――やはり、照れくさい。
 悟浄は困ったように小さく笑った。どうも今日の自分はいつもと勝手が違うようだ。それもこれも、きっかけは八戒の首にあったキスマークからだった。
 その時、ふたたび、悟浄の紅瞳にうつったのは、襟元からちらりと覗くくだんの紅い印。
 咲き誇るその紅花は、悟浄の想いそのもののようで。
「――悟浄」
 ふいに八戒が振り返って悟浄へと呼びかける。思ったより固い声音に、背後からよからぬ視線を送り続けていたことがばれたのかと、一瞬身構えた。
「八戒?」
「……いい加減にしてくださいよ」
 思っていたよりも八戒の第二声は悄然としたものだった。心底まいっているような声音。悟浄は思わず小さく目を瞠った。
「ナ、ナニをだ?」
「さっきからそんな……熱っぽい目でみられてはたまったもんじゃないです」
 まったくこんなところで、と。
 疲れを滲ませながら、しみじみと八戒がつぶやく。
「このむし暑さで、頭沸いちゃってるんですか、もう」
「そーかも」
 まさに彼の言う通りかもしれない。悟浄は彼の横に並び立ち、くつくつと愉しげに喉を鳴らした。
「暑いとやっぱロクなこと考えらんねーし」
「開き直らないでくださいね」
「仕方ねぇだろ。照れてるお前がカワイイ、」
「なんて言ったらブッ飛ばします、と何度言えばわかるんですか貴方は」
 悟浄の言葉尻を強引に奪い取りつつ、その足をいきなり踏みつける。突然の報復行動に悟浄はたまらず飛び上がった。こういうところはあいかわらず容赦がない。
「イッテー! ナニすんだよオイッ」
「自業自得です」
 八戒は深々とため息をこぼした。それでも、悟浄のほうは見ようとしないまま言葉を続ける。
「でも……悪くはない、です」
「へ?」
「貴方の照れた顔」
 そう言って、八戒は悟浄の顔を横から覗き込んできた。そして、いたずらっぽい笑みを唇に刻んだ。
 ふいうちのそれに、悟浄は目を瞠った。あでやかな八戒の微笑から目が離せない。だが、彼の口から飛び出した言葉の意味を理解した途端、猛烈な気恥ずかしさが込み上げてきた。
 顔面が一気に熱くなる。きっとおのれの顔は真っ赤になっているのだろう。そう思えば、ますますいたたまれなかった。
「――って、お前なあ」
「あはは、カワイイですよ、悟浄」
「テメッ、このっ」
 身の置き場がないとはまさにこのことだった。八戒にからかわれるという恥ずかしさ全開の事態に悟浄も焦るしかなくて。
 そんな悟浄の姿を、八戒は実に愉快そうに眺めていた。だが、ふとその笑みをおだやかなものへと変化させた。そして、悟浄にだけ聞こえるような声でこっそりとささやく。
「だから……ちゃんと責任、とってくださいね?」
 今晩にでも。そう言われて、悟浄はぴたりと動作を止め、表情を改めた。
 その言葉の含みがわからぬほど、悟浄は愚鈍ではなかった。
 それはつまり。
「――もちろん。しっかり、とらせていただきましょう」
「その分、買出しもしっかりがんばってもらいますから」
「へえへえ」
 後でそういうお愉しみが控えているなら話は別だ。
 わかりやすく機嫌が上昇した悟浄を呆れまじりに見つめて、八戒はふたたび前方へと足早に歩き出した。またしても八戒が離れてしまったことを少しさびしく思ったものの、悟浄はそれでも満足そうに笑みをこぼす。
 どうせこの後、明日の朝までふたりきりなのだ。
 それならば今は、宿につくまでのささやかな時間で、彼の後ろ姿を存分に見つめていればいい。
 悟浄は小さく唇端をあげた。そして、切れ長の紅瞳を細めて、いとおしげにその背中を見つめる。





 それはまるで、彼の顔を見た者が思わず照れてしまいそうなほどに、幸せそうな表情だった。








FIN

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